ep.38 風の跡、灯りは消えて
七日市の最終日は、少し風のある日となった。
空には雲が広がっていたが、雨は降っていない。
「お天気も、何とか持ちましたね」
エルナが空を見上げた。
七日間続いた七日市も、今日の夕方には終わる。
午前から街道を回っていた俺たちは、中央区画まで戻ってきていた。
初日ほどの慌ただしさはない。
買い忘れたものを探す者。
帰り支度を始めている者。
最後まで売ろうと声を張る商人。
その間を、荷車と人が行き交っている。
「そういえば支部長」
隣を歩いていたカイルが言った。
「何か買われました?」
「私ですか?」
エルナがカイルを見る。
「そういえば……」
少し間があった。
「何も買っていませんね」
「七日もあったのに?」
「見回りばかりしていましたから」
「俺は昨日までに、だいたい」
「だいたい?」
「干物と、手袋と、香辛料と。あと菓子と――」
「まだあるんですか?」
「ありますよ。戦利品です」
カイルは少し自慢げだった。
エルナはそんなカイルを見ていた。
それから、街道沿いに並ぶ露店へ目を向ける。
さっきまでより、少しゆっくりと。
その先に、陶器を並べた露店があった。
エルナが足を向ける。
皿や鉢の間に、小ぶりな茶器が並んでいた。
淡い灰色の地に、縁から青い釉薬が流れている。
濃いところは、夜の空のような色だった。
エルナが一つを手に取った。
「いい色ですね」
カイルが横から覗き込む。
「焼くたびに流れ方が変わるんですよ」
店主が言った。
「同じ色をと言われても、なかなか同じにはならなくて」
エルナは茶器を少し回して眺めた。
「では、これをください」
「ありがとうございます」
店主が布を広げる。
頭上を、小型ワイバーンが一頭横切った。
両脇に荷を下げ、一定の高さを保ったまま街道に沿って飛んでいく。
七日市の間、何度も見た光景だった。
店主が茶器を布で包み、紐を手に取る。
その時だった。
別の一頭の小型ワイバーンが、急に高度を落とした。
翼を大きく広げ、そのまま地上へ滑り込む。
エルナの視線が、包みかけの茶器から空へ移った。
その先で、もう一頭。
さらに遠くでも。
ほぼ同時に、街道のあちこちで竜運の者たちが声を上げた。
「風が来るぞ!」
「荷を押さえろ!」
「天幕を!」
店主が包みかけの茶器へ手を置いた。
カイルが顔を上げる。
次の瞬間。
風。
膨らむ天幕。
鳴る布。
舞う紙。
転がる木箱。
馬のいななき。
俺の頁が、一気に開いた。
エルナの腕から身体が抜ける。
浮遊感。
回転。
空。
地面。
また空。
俺は飛んだ。
空を飛んでみたいと考えたことがあったかもしれない。
だが、こういう意味ではなかったと思う。
何か柔らかいものへ落ちた。
回転が止まり、ようやく周囲が見える。
どうやら中央区画の真ん中あたりに張られた天幕の上らしい。
見晴らしはよかった。
降りる方法がないことを除けば。
風は長くは続かなかった。
去った後には、さっきまでとは違う景色が残っていた。
中央区画では、いくつもの天幕が傾いている。
一つは完全に倒れ、積んであった荷が通路へ散らばっていた。
木箱が転がり、荷車が一台、横倒しになっている。
馬を押さえる者の声。
泣く子供。
名前を呼び合う声。
その中で、エルナの声が通った。
「怪我をされた方を先にお願いします! 荷物は後で構いません!」
人が振り返る。
「通路を空けてください! 倒れた天幕には、まだ近づかないように!」
カイルがエルナのところへ駆け寄った。
「支部長!」
「カイル、二番標へ向かってください。現地は任せます。判断に迷ったら、ガレス副官に連絡を」
「了解!」
カイルが走り出す。
北方支部の方角は、ここからでは見えない。
だが、ガレスのことだ。
いつでも動けるよう、もう準備しているはずだ。
反対側から、一人の伝令が走ってきた。
「三番標より報告です! 天幕の倒壊など被害は出ていますが、警備隊長が指揮を執っておられます!」
レオンが振り向く。
「怪我人は?」
「軽傷者が数名! 中央区画はレオン殿にお任せしたいとのことです!」
「分かった。三番標は任せると伝えてくれ!」
「はい!」
伝令が戻っていく。
中央区画では、倒れた荷の間を人が行き交い始めていた。
「救護所までの動線を空けてくれ!」
レオンが声を張る。
「ノエル!」
「はいよー!」
少し離れたところで、ノエルが杖を上げた。
杖の先から淡い光が伸びる。
中央区画から救護所まで。
人の間を縫うように、地面へ一本の光の道が走った。
レオンがすぐに声を上げる。
「皆、光の道を空けてくれ! 怪我人を通す!」
人が左右へ分かれていく。
「ロイ!」
アルノーが声を上げた。
「竜威香を確認してくれ。二番標方向だ。倒れたものと、火が消えたものの場所だけ拾え。直すのは後でいい」
「了解!」
「セラ、竜脈の異常を確認してくれ!」
「はい!」
ロイが二番標方向へ走り出す。
アルノーは、その反対側へ駆けていった。
セラはその場に膝をつき、杖の先を地面へ触れさせた。
目を閉じる。
「竜脈……異常なし」
そのまま、しばらく動かない。
「地脈も正常」
さらに少し間があった。
「水脈にも乱れはありません」
セラが顔を上げた。
「天変地異の兆候はありません」
エルナは、その間にも地面を走る淡い光を見ていた。
「……なるほど」
指先を上げる。
傾いた天幕の支柱のそばに、小さな光が浮かんだ。
もう一つ。
崩れた荷の脇。
三つ目は、壊れた荷車の車輪のそば。
ノエルがそれを見た。
エルナの光。
傾いた支柱。
崩れた荷。
壊れた荷車。
何度か視線を往復させる。
口元が少し上がった。
「はーん、なるほど……」
杖を持ち直す。
ふわりと、一回り。
裾が舞う。
髪が遅れて揺れる。
杖の先から、光がほどけた。
一つ。
二つ。
そして、一斉に。
光が中央区画へ散っていく。
倒れた箱の角。
緩んだ縄。
傾いた支柱。
割れた板。
足元の窪み。
次々と光が浮かんだ。
ノエルを中心に、光が中央区画へ広がっていく。
誰かが息を呑んだ。
ほんの一瞬だけ、あれほど騒がしかった中央区画から声が消えた。
そのときのノエルは、とても美しく見えた。
「よし!」
レオンの声が戻ってきた。
「みんな、光の部分に気をつけながら作業を続けてくれ!」
人々が再び動き出す。
「ノエルさん、ちょっとやりすぎです」
セラが言った。
ノエルは辺りに散らばった自分の光を見回した。
それから杖をそっと背中へ隠すようにして、セラを見る。
いたずらがばれた子供のように、にっと笑った。
光の道の脇では、ミリアが怪我人の間を動き回っていた。
額を切った者の傷を確かめ、足を押さえて座り込んでいる者の前には、その場でしゃがみ込む。
「歩けますか?」
返事を聞くと、すぐ次を見る。
救護所へ送る者と、その場で処置できる者を次々に分けていた。
少し離れたところから声が上がる。
「下に人がいる!」
横倒しになった荷車の下だった。
街道馬車組合の男が、片脚を挟まれている。
ブルーノが真っ先に駆け寄った。
「聞こえますか!」
「聞こえる! 脚が抜けない!」
ブルーノが荷車の縁へ手を掛ける。
「上げるぞ!」
腕に力が入った。
荷車が軋む。
少しずつ、持ち上がる。
だが、あと少し。
男の脚を抜くには足りない。
ブルーノの腕が震え始めた。
荷車がわずかに沈む。
そこへ、一人の魔族兵が歩み寄った。
北方支部の兵長だった。
何も言わず、ブルーノの隣へ立つ。
荷車へ手を掛ける。
ブルーノが一度だけ横を見る。
兵長は前だけを見ていた。
二人が同時に力を込める。
荷車が持ち上がった。
「今だ!」
「もう少し!」
「引け!」
街道馬車組合の者と北方支部の兵士が、男の身体を引く。
「出た!」
ミリアがすぐに駆け寄った。
「そのまま動かないでください」
男の脚へ手を添える。
少し確かめてから顔を上げた。
「骨は大丈夫です。捻挫ですね。今日はもう歩かないでください」
周囲から息が漏れた。
ブルーノと兵長が、ゆっくり荷車を下ろす。
兵長が手を離した。
「やりますな」
ブルーノが息を整えながら、笑った。
「そちらも」
それだけ言って、二人とも次の作業へ向かった。
作業は続いていく。
傾いた天幕が立て直される。
そこに浮かんでいた光が消えた。
散らばった荷が通路から取り除かれる。
もう一つ、光が消える。
壊れた荷車の周囲が片付き、危険な板が運ばれていく。
また一つ。
中央区画に散っていた光は、少しずつ数を減らしていった。
誰か一人が、全部を指示しているわけではなかった。
それでも、ばらばらだった動きは少しずつ一つの流れになっていく。
その中で、エルナの声はよく通っていた。
やがて、地上へ降りていた一頭のワイバーンが翼を広げた。
大きく羽ばたき、空へ上がる。
続いて、もう一頭。
遠くでも。
風を避けて降りていた小型ワイバーンたちが、次々に空へ戻っていく。
街道の音も戻り始めた。
「さあさあ、景気のいい風が吹いたから安くするよ!」
聞き覚えのある声だった。
「何が景気いいんだよ!」
すぐ近くから、別の声が返る。
「こういう時は景気がいいことにしとくんだよ!」
周囲から笑い声が上がった。
「こっちもまだやってるよ! 倒れなかった干物は全部無事だ!」
「倒れたのは?」
「そっちは俺が食う!」
「焼き菓子、まだありますよー!」
「鍋もまだ温かいぞ!」
「片付ける前に買ってってくれ! 持って帰る荷を減らしてくれ!」
食器の触れ合う音。
荷車の軋む音。
上空を通るワイバーンの翼音。
さっきまで事故の後始末をしていた中央区画に、七日市の喧騒が戻ってきた。
その頃には、光もほとんど消えていた。
俺の近くに浮かんでいる一つを除いて。
「よし、こっちも片付けるぞ」
下から声がした。
俺が乗っていた天幕の支柱が外される。
布が傾いた。
身体が滑る。
今度は止まらなかった。
天幕の端から落ちる。
地面。
七日間、人と荷車に踏まれ続けた土には、朝露の湿りが残り、ところどころぬかるんでいた。
俺はそこへ、表紙から落ちた。
泥が跳ねる。
少しして、誰かの手が俺を拾い上げた。
「なんだ、これ」
露店の商人だった。
俺の表紙を軽く払う。
だが、文字の上には泥が残っている。
商人は俺を裏返した。
「誰かの落とし物か?」
ちょうど近くを通ったレオンへ声を掛ける。
「レオン殿。これ、分かりますか?」
レオンが俺を受け取った。
泥のついた表紙を見る。
指で少し拭う。
それでも、題名までは読めないらしい。
レオンは俺を開いた。
風に乱された頁を、何枚か戻す。
北方支部。
冬季街道管理。
魔王軍の印。
「これは……」
レオンの指が止まった。
さらに頁をめくる。
そこで、今度は別の見出しに目が止まった。
『勇者来訪時』
しばらく、その見出しを見ている。
指が頁の端に掛かる。
少しだけ動いた。
だが、その頁は開かなかった。
レオンは俺を閉じた。
さて、困った。
このままでは、どこへ連れていかれるか分からない。
俺は一文を書いた。
泥のついた表紙に、文字が浮かぶ。
『エルナ支部長までお願いします。』
レオンの目が止まった。
表紙に浮かんだ文字を、しばらく見ている。
「……分かった」
俺を持ったまま、レオンが中央区画を歩き出した。
片付けは続いていた。
畳まれた天幕が道の脇へ寄せられ、散らばっていた荷は少しずつ荷車へ戻されている。
さっきまで俺の近くに浮かんでいた光も、いつの間にか消えていた。
少し先に、エルナがいた。
辺りを見回している。
足元を見て、積まれた荷の向こうを覗き、また顔を上げる。
通りかかった兵士に何かを尋ねてから、今度は反対側を見る。
どうやら、俺を探しているらしい。
「支部長」
レオンが声を掛けた。
エルナが振り返る。
レオンの手の中にいる俺を見て、目を見開いた。
「そこにいたんですか!」
俺を受け取る。
泥のついた表紙を見て、眉を下げた。
「ずいぶん汚れましたね……」
仕方がない。
好きで泥へ落ちたわけではない。
レオンが言った。
「申し訳ない。所有主を確認するために、少し中身を見てしまった」
「いえ」
エルナは俺を抱え直した。
少し間を置く。
「……中身、ほとんどなかったでしょう?」
レオンはほんの少し考えた。
「……まあ、そうだな」
エルナが小さく笑った。
レオンも、つられるように笑う。
そこは笑うところなのだろうか。
それからしばらくすると、七日市は予定していた終わりの時間を迎えた。
中央区画では、事故の片付けと店じまいが、いつの間にか同じ作業になっていた。
倒れた天幕を直したと思えば、その隣では最初から畳む予定だった天幕が外されている。
崩れた荷を積み直した荷車は、そのまま帰り支度に入った。
どこまでが風の跡を片付けているのか。
どこからが七日市を片付けているのか。
もう、よく分からなかった。
日が傾く。
街道の端では、魔導灯が一つずつ外され始めていた。
遠くから来た者の中には、今夜もう一泊して、明日の朝に出る者もいるらしい。
それでも、七日間だけ続いた町は、確実に小さくなっていた。
俺は再びエルナの腕の中にいた。
少し離れたところでは、レオンが作業を見ていた。
一つの天幕が畳まれる。
支柱が束ねられる。
荷車へ載せられる。
「……終わりますね」
エルナが言った。
「ああ」
レオンが答える。
少しして、エルナが続けた。
「私、七日市は初めてだったんです」
レオンがエルナを見る。
「……俺もだ」
エルナが笑った。
その前を、人間と魔族が一緒に荷を運んでいく。
街道馬車組合の者から北方支部の兵士へ縄が渡される。
受け取った兵士が、それを荷車へ積む。
エルナはその様子を見ていた。
「……私たちは、なぜ戦争をしているのでしょうか」
問いかけるというより、口からこぼれたような声だった。
レオンはすぐには答えなかった。
片付けの続く街道を見る。
「理由なら、いくらでも聞いてきた」
少し間があった。
「どれも、たぶん間違ってない」
レオンはしばらく、何も言わなかった。
人間と魔族が、一緒に荷を積んでいる。
その向こうでは、誰かの笑い声がした。
「……だから余計に、分からない」
エルナは何も言わなかった。
俺には、もう何も書けなかった。
道の端で、片付けをしていた誰かが魔導灯へ手を伸ばした。
灯りが、また一つ消える。
暮れかけた街道では、天幕を畳む音と、荷車へ荷を積む声がまだ続いていた。
その合間に、ときどき笑い声が混じる。
緩く曲がった道の先には、まだいくつもの灯りが残っていた。
七日間だけここにあった町は、その賑わいを少しずつほどきながら、いつもの街道へ戻っていった。




