ep.37 七日市、始まる
朝から、執務室の出入りが絶えなかった。
扉が開くたび、廊下を行き交う足音や声が入り込んでくる。
「二番標側、準備完了です」
報告に来た兵へ、エルナが頷いた。
「分かりました。我々も今から出発します」
兵が出ていくと、エルナは昨日まで何度も見ていた七日市の配置図を畳んだ。
「では、行ってきます」
「お気をつけて」
ガレスは机の向こうで書類を開いたまま答えた。
エルナが俺を持ち上げて執務室を出る。廊下ではカイルが待っていた。
「準備できてます」
二人で正門へ向かった。
外へ出る前から、普段より人の声が多い。
門の前では、荷を運び終えた兵が空の荷車を支部へ戻していた。その横を、これから街道へ向かう者たちが通っていく。
北西街道へ出ると、さらに人が増えた。
荷籠を背負った者もいれば、子どもの手を引いて歩く者もいる。向こうからは、もう何かを買ったらしい包みを抱えて戻ってくる者までいた。
「もう買ってきたんでしょうか」
「みたいですね」
カイルも、すれ違った男を振り返った。
二番標が近づくにつれ、人の流れがはっきりしてきた。街道そのものは普段と同じ幅なのに、歩く者が増えただけで随分狭く見える。
やがて二番標が見え、その周辺には昨日までなかった天幕や屋台が並んでいた。
北方支部の天幕には払い下げ品が積まれ、その隣では大鍋から湯気が上がっている。少し離れたラメールの出店には、干物や塩漬けの魚が籠いっぱいに並んでいた。
さらに先では竜運の係員が木箱を運び、陸竜が一頭、荷台の脇でおとなしく待っている。頭上を小型ワイバーンが横切り、二番標側の発着場へ向かっていった。
「支部長、おはようございます!」
北方支部の天幕から兵が声を上げた。
エルナがそちらへ向かうと、大鍋の前では厨房長が中を覗き込んでいる。
「もう出してるんですか?」
「まだです。もう少しです」
厨房長が杓子で鍋をひと混ぜすると、湯気と一緒に香辛料の匂いが広がった。
その隣では、セルディンが値札の付け直しと客の応対を同時にこなしていた。
「もう少し安くならん?」
「なりません」
エルナがそのやり取りを眺めてから、周囲を見回した。
ラメールの店先でも、すでに客が干物を手に取っている。竜運の出店では、荷札を模した木札や小さな飛竜の木彫りを並べているところだった。
「……もう始まってるんですね」
「去年もこんな感じでした」
カイルが答えた。
二番標側を一通り見て回り、二人は中央へ向かった。
一般の露店が増え、根菜や豆、乾燥果物のほか、蝋燭や縄、厚手の靴下や手袋などが並んでいる。少し進めば木匙や小鍋を扱う店もあり、食べ物の匂いに革や木の匂いが混じっていた。
中央へ近づいたところで、人の流れが急に遅くなった。
「馬車通ります! 少し端へお願いします!」
馬車組合の誘導員の声に、人々が道の左右へ寄る。
荷馬車がゆっくりと間を抜けていった。最後尾が通り過ぎると、寄っていた人々がまた道へ戻り、ほどなく元の混み具合になる。
少し先でも、同じことが起きていた。
「思っていたより多いですね」
「中央に集まってますね」
カイルも辺りを見回した。
昨日まで図面の上に引かれていた通路を、今日は人が歩いていた。
実際にその中へ入ってみると、図面で見ていた時より随分狭い。
「少し待ってください! 先に人を通します!」
誘導員が次の馬車へ手を上げた。
今はまだ流れている。
だが、昼になれば人はもっと増えるだろう。
エルナはしばらく人の動きを見てから、再び歩き出した。
休憩所の長椅子には、湯気の立つ椀を手にした者が並んでいる。その向こうにある救護所の前を通りかかった時だった。
「エルナ支部長」
簡易寝台の脇に、見覚えのある女性が立っていた。
胸元には王国軍の紋章。その下には、特別遊撃隊の紋章もある。
特別遊撃隊。
以前、北方支部を訪ねてきた四人組もそうだった。
そして、この顔。名前は確か……。
「……ミリアさん」
「お久しぶりです」
「どうしてこちらに?」
「今日は救護所の手伝いです」
ミリアの後ろでは、王国兵が薬箱を棚へ収めている。
「王国側の警備の増援というのは……」
「それなら、きっと私たちのことですね」
「皆さんも?」
「はい。レオンたちは三番標の方にいます」
「そうでしたか」
ミリアに別れを告げ、再び街道へ戻った。
中央を抜けると、人の流れは少し緩くなった。その先には七日市の野営地が広がり、いくつもの天幕が張られている。
馬車のそばでは荷を下ろす者がいて、常設の炊事場では火が起こされていた。泊まりの支度を始めている者も多い。
野営地の二番標寄りでは、北方支部の兵が警備に立っていた。
「お疲れさまです」
「支部長殿、お疲れさまです」
軽く挨拶を交わし、そのまま先へ進む。
野営地の中ほどまで来たところで、王国側の警備に立つ男がこちらを見た。
この顔も覚えている。
あの時の四人組の一人だ。
「支部長殿」
「ロイさん。お疲れさまです」
ロイの隣には、大柄な男が立っていた。
「こちら、同僚のブルーノです」
「ブルーノ・ガードナーです。ロイから話は聞いてます。北方支部には、うまい飯が出る食堂があるとか」
俺の知る限り、ロイは食堂には寄っていなかったはずだが……。
どうやら、少しばかり尾ひれがついているらしい。
エルナが笑った。
「二番標のあたりで、うちの厨房長が料理を出してますので。よろしかったら」
「ぜひ。休憩になったらお伺いします」
ブルーノは大きく頷いた。
二人に別れを告げ、さらに三番標へ向かう。
野営地の終わりが近づくと、王国軍北部補給基地の出店が見えてきた。
その前に、小さな人だかりができている。
一人の男が、楽器を手に歌っていた。
よく通る声に、通りを歩いていた者たちが足を止めている。歌が一区切りすると、周囲から拍手が起こった。
「吟遊詩人ですか。王国側も盛り上げ上手ですね」
エルナも少し足を緩めたが、すぐにまた歩き出した。
三番標近くの警備用天幕では、王国側の警備隊長と馬車組合の担当者が、広げた配置図を囲んでいた。そのそばにレオンとリディアもいる。
「レオンさん」
レオンがこちらを向いた。
「支部長。すまない、こちらから挨拶に行くべきだった」
「いえ。こちらも見回りの途中ですから」
「ミリアには会ったか」
「中央の救護所にいました」
リディアも顔を上げた。
「お久しぶりです、支部長」
「お久しぶりです」
レオンが二人を見る。
「知り合いだったのか」
「以前、一度」
「そうだったのか」
エルナが、今通ってきた方を振り返った。
「そういえば、北部基地のところで吟遊詩人が歌ってましたね」
「あれも一応うちの隊員で……」
「……隊員なんですか?」
「ああ」
なるほど。
勇者には、英雄譚が付きものだ。
馬車組合の担当者がエルナへ向き直った。
「エルナ殿、街道の様子はいかがでした?」
「今はまだ大丈夫ですが、これ以上増えると、人の流れが詰まりそうですね」
その言葉に、皆の視線が配置図へ落ちた。
「こちらでも同じ見立てです」
担当者は中央付近を指した。
「馬車を通すたびに人を寄せていますが、抜けるとすぐ戻ってしまいます」
その指が、中央の少し外側を通る細い線へ移る。
「店の裏を回る側道があります。ただ、かなり細い。荷車は難しいですし、両方から大勢入れば、今度はそちらが詰まります」
担当者は側道の線を見たまま、少し考えた。
「……片方だけ通せばいいか」
「一方通行にする、ということですか」
リディアが尋ねた。
「歩行者だけなら、できるかもしれません」
警備隊長が配置図へ目を落とした。
「そういう使い方をしたことは?」
「ありません」
馬車組合の担当者が答える。
「正式な通路として整備した道でもありません。使うなら、一度見ておいた方がいいでしょう」
エルナが俺を開いた。
俺は一文だけ書いた。
『試してみてもいいと思います。』
エルナが小さく頷いた。
そこで天幕の外から声がした。
「隊長」
戻ってきたのは、年嵩の男と見覚えのある女性だった。
「戻ったか」
レオンが振り向く。
「ああ。外れまで見てきた。異常なし」
年嵩の男はレオンに答えた。
「竜威香の配置も悪くない。どうやら向こうにも手練れがいるらしい」
そう言って、今度はエルナとカイルへ目を向けた。
エルナがちらりとカイルを見る。
カイルの背筋が、ほんの少し伸びた。
もう一人の女性がエルナを見て、目を丸くする。
「あ」
「温泉の……」
「前に温泉で」
俺も覚えていた。
忘れるはずがない。
共同温泉で、俺を貴重品棚へ入れる原因を作った竜泉士だ。
レオンが少し眉を上げた。
「……また知り合いだったのか」
「一度、共同温泉で」
「そういえば、お名前を聞いてませんでしたね」
「私もです」
レオンが二人を紹介した。
「アルノー。こっちはセラ」
「アルノーだ」
「セラです」
「エルナ・グレイヴェインです」
セラというらしい。
覚えておこう。
挨拶が済むと、レオンは配置図へ視線を戻した。
「中央が混んでる。店の裏の側道を使えないか話していたところだ」
アルノーと名乗った男が図面を覗き込む。
「七日市で使ったことは?」
「ありません」
馬車組合の担当者が答えた。
「なら、先に見た方がいいな」
レオンも側道の線を見る。
「俺が見てくる。警備隊長、二人ほど貸してくれないか?」
「分かりました」
「こちらからも一人出します」
馬車組合の担当者が続ける。
「私たちも入口までは行きましょう」
エルナが立ち上がった。
「竜威香の位置も見ておきたいです」
カイルが言う。
「俺も行く」
アルノーもそれに続いた。
◇
三番標側から露店の裏へ回ると、表通りの人声が少し遠くなった。
天幕の裏手を、細い道が二番標側へ続いている。
「ここです」
馬車組合の担当者が奥を指した。
「通れはしますが、七日市の通路として使ったことはありません」
側道のさらに外側には、街道へ魔獣を近づけないための竜威香が間隔を置いて並べられていた。
「人を通すなら、竜威香の列も少し外へ出したいですね」
カイルが配置図を開く。
アルノーが隣から覗き込み、記された竜威香の位置を順に追った。
「ここだけ空いてるな。置き忘れじゃない」
カイルは何も言わず、アルノーの指先を見ていた。
竜威香の列が途切れた先には、さらに外側へ延びる細い獣道がある。
「この先へ逃がしてるのか」
アルノーの指が、その空白をなぞった。
「……動線か?」
「魔獣の通り道です。ここを塞ぐと、街道側へ逸れる可能性があります」
「なら、この線には効かせられん」
二人の目が、もう一度配置図へ落ちた。
「動かすなら――」
伸びた指が、ほとんど同じ場所で止まる。
「ここです」
「ここだな」
アルノーがカイルを見る。
「あれを置いたのはお前か」
カイルが頷いた。
「なら、話が早い」
アルノーが、ほんの少し笑った。
レオンは側道の奥へ目を向けていた。
「俺たちが先に行く。問題がなければ、そのまま二番標側へ抜けよう」
警備隊から借りた二人と馬車組合の者を連れ、レオンが先に入る。
少し間を空けて、エルナたちも後へ続いた。
道は、人が二人並べるかどうかという幅だった。
前を行く馬車組合の者は、時折足を止めて地面の具合や道幅を確かめている。
アルノーとカイルは、道の外側へ目を向けながら進んでいた。
やがて前方からレオンの声がした。
「出口だ」
二番標側へ出る場所には余裕があり、表通りへ戻るところにも大きな障害はない。
馬車組合の者が出口と、その先を行き交う人々を見比べた。
「これなら使えます。今は三番標側から二番標方面へ向かう人が多い。三番標側を入口にして、こちらへ流しましょう」
エルナも出口側を見回した。
「こちら側は北方支部で見ます」
「案内は組合で出します」
担当者が頷いた。
「竜威香は俺たちでやる」
アルノーがカイルを見る。
「問題ありません」
決まると、動き出すのは早かった。
馬車組合は入口と出口へ人を回し、通行方向を示す縄と案内を整えていく。王国側と北方支部も、それぞれの持ち場を新しい人の流れに合わせて変え始めた。
その外では、カイルとアルノーが魔獣の通り道を塞がない位置へ竜威香を移していた。
入口と出口に案内役が立ち、縄が張られると、細道は七日市の通路らしく見えてきた。
◇
「二番標方面へ向かう方はこちらです! 歩行者のみ通れます!」
三番標側の入口で、馬車組合の案内役が声を上げる。
最初は何人かが足を止めた。
「こっちでいいのか?」
「はい。そのまま進んでください!」
一人が入り、その後ろにもう一人が続く。
すれ違う者がいなければ、細い道でも歩くには十分だった。
入口には王国兵が立ち、二番標側の出口では北方支部の兵が人の流れを見ている。
外側では、カイルとアルノーが移した竜威香の位置を確かめていた。
「どうですか?」
エルナが尋ねる。
「ここなら大丈夫です」
カイルが答えた。
アルノーも周囲を見て頷く。
「通り道にもかからん」
エルナは表通りへ目を戻した。
やがて一台の荷馬車が中央へ入ってくる。
「馬車通ります!」
誘導員の声に、人々が左右へ寄った。
その一方で、二番標方面へ向かう者たちは側道へ流れていく。
荷馬車が通り過ぎた。
先ほどのように、人の塊はできなかった。
馬車組合の担当者は、しばらくその様子を見てから頷いた。
「……これなら、しばらくいけそうですね」
「では、このまま様子を見ましょう」
エルナも人の流れを見たまま答えた。
レオンたちに別れを告げ、エルナとカイルは二番標へ戻った。
北方支部の大鍋の前には、もう列ができている。
「支部長殿」
声の方を見ると、ブルーノとロイが椀を手にしていた。
ブルーノがその椀を少し持ち上げる。
「休憩に入ったので、早速いただいてます」
エルナが笑って尋ねた。
「いかがですか?」
「うまいです」
返事が早かった。
隣ではロイも黙々と食べている。
少し離れた竜運の出店には、見覚えのある魔法使いの姿があった。
こちらを見ることなく、小さな飛竜の木彫りをじっと見ている。
隣には、荷札を模した木札や鱗模様の布小物が並んでいた。
彼女は木彫りを一つ手に取り、別のものと見比べる。
彼女も休憩中だろうか。
エルナもそちらへ目をやったが、何も言わなかった。
「では、そろそろ戻りましょうか」
カイルが頷いた。
二番標をあとにすると、支部へ向かうにつれて背後の賑わいは少しずつ遠くなっていった。
途中で、毛布を抱えた者や食料の入った籠を背負った者とすれ違う。その中には、小さな木札を握った子どももいた。
◇
支部へ戻る頃には、昼が近づいていた。
執務室へ入ると、ガレスが顔を上げた。
「お戻りですか」
「中央が思ったより混みましたので、店裏の側道を歩行者だけの一方通行にしました。今は様子を見ています」
「王国側は?」
「皆さん、持ち場についておられました」
ガレスは頷き、書類をまとめて外套を手に取った。
「では、午後はこちらで見てきます」
「お願いします」
入れ替わるように、エルナが俺をいつもの机へ戻した。
「行ってまいります」
「お気をつけて」
ガレスが出ていき、扉が閉まった。
執務室は、いつもの静けさに戻った。
机の上には、朝まで何度も眺めていた七日市の配置図がある。
そこには、朝と同じ細い線が一本引かれている。
その上を、さっきは人が同じ方向へ歩いていた。
さっきまで聞いていた賑やかな人の声が、もう懐かしく感じた。
七日市は、まだ始まったばかりだ。




