ep.40 ある日、雪の夜に
窓の外では、雪が降っていた。
もう日はとっくに落ちている。
中庭はすでに白く覆われ、軒下に積もった雪が、窓から漏れる明かりを淡く返していた。空から落ちてくる白い粒だけが、暗闇の中を絶え間なく横切っている。
暖炉の火は、静かに燃えていた。
その上では、ラメールから贈られた船の模型が火の明かりを受け、細い帆柱の影を壁に揺らしていた。
薪が崩れる小さな音と、時折、紙をめくる音がする。
エルナは机に向かい、ガレスも残った書類を片付けていた。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのはカイルだった。
外套の肩には、払いきれなかった雪がわずかに残っている。尻尾の先にも、白いものが少し付いていた。
カイルは手にしていた報告書を、エルナの机へ置く。
「二番標方面、巡回終了しました。街道の封鎖も確認済みです」
「ありがとうございます。雪はどうでした?」
「二番標の辺りは、もうかなり積もっています。このまま降れば、朝にはもう一段増えそうです」
エルナが窓の外を見る。
この辺りでも、すでに石畳の大半は見えなくなっていた。
「分かりました。遅くまでお疲れ様でした」
「お先に失礼します」
カイルが一礼して部屋を出ていった。
扉が閉まる。
廊下の向こうで、足音が遠ざかっていく。
執務室には、また暖炉と紙の音だけが残った。
エルナは報告書を手に取った。
二番標からラメールへ続く道は、本日より冬季閉鎖。
温泉施設も、冬季閉鎖に入っている。
街道馬車組合と竜運からの連絡も届いている。報告書には、冬季巡回への切り替えと封鎖地点の確認、それに明朝の除雪要員についても記されていた。
最後まで目を通し、エルナは報告書を机の上へ置いた。
椅子の背もたれにゆっくり体を預ける。
ガレスは机の上の書類をまとめ、角を揃えていた。
何度か端を軽く叩き、最後の一束を置く。
「今日は、ここまでですね」
紙の擦れる音が止んだ。
誰もすぐには立たなかった。
窓の外では、雪が降っている。
暖炉の中で薪が赤く崩れた。
エルナはそのまま、しばらく動かなかった。
やがて、机の脇へ目を向ける。
「あ」
そこには、数日前に届いた木箱がまだ置かれていた。
「そういえば、まだ持って帰ってませんでした」
ガレスもそちらを見る。
「確か、モルデン・アンド・ジャックでしたね」
「よく見てましたね」
「箱を開けたのは私ですので」
「そういえばそうでした」
エルナが笑った。
木箱を引き寄せ、蓋を開ける。
ガレスの二本はすでになく、残っているのは三本だった。
一番端のラベルには、モルデン・アンド・ジャック十二年。
その隣は、十八年。
エルナが最後の一本を取り出す。
SINGLE CASK
CASK STRENGTH
Iris
37/214
THE SPIRIT'S SHARE 31.4%
文字は読める。
だが、何が書いてあるのかは、さっぱり分からない。
「ほう……シングルカスクですか」
エルナが瓶を差し出すと、ガレスは受け取った。
ラベルをもう少し近くで確かめる。
「無加水ですね」
瓶を少し傾け、暖炉の明かりに透かす。
濃い琥珀色が、ガラスの中でゆっくり動いた。
ガレスはその下の手書きの文字を見る。
「これは……アイリス」
わずかに目を見張った。
そのままラベルの一番下まで目を通す。
ガレスが、少しだけ口元を緩めた。
どうやら、何かすごいものらしい。
「ご存じなんですか?」
「ええ。モルデン蒸留所の伝記を読んだことがあります」
ガレスは、ラベルの「Iris」の文字を指でなぞった。
「アイリスは、樽の名前です」
「樽に名前が?」
「モルデンでは、樽を番号で呼ばず、樽に宿る精霊に名前をつけるそうです」
「そうなんですね」
「ええ。その中でも、アイリスは少し特別です」
エルナも瓶を見る。
「では、シングルカスクというのは?」
「普通は、複数の樽を合わせ、加水して味と度数を整えてから瓶に詰めます。モルデンでは、その年で一番出来のいい樽を一つだけ選んで、単独で商品にするそうです」
「なるほど……」
「それに、これは度数も整えていません。樽から出したときの強さのままです」
ガレスは瓶をエルナへ返す。
「しかし、よく手に入りましたね」
「おすすめを三本、と頼んだだけなんですけど」
「……そうですか」
ガレスが残った二本にも目をやる。
「高かったでしょう」
「え……請求書は、まだ見てません……」
俺の綴じ目が、ひやりとした気がした。
ガレスも黙った。
暖炉の中で、薪が一本崩れた。
エルナは手元のアイリスと、木箱に残った二本を見比べた。
「では、これにしましょう」
「開けるんですか?」
「飲むためのお酒ですよね?」
「それは、まあ」
ガレスは止めなかった。
エルナは立ち上がり、棚の奥から二つの杯を取り出した。
薄手のガラス杯だった。
普段使っているものとは違う。暖炉の明かりを拾い、薄い縁が小さく光っている。
机の上へ二つ並べる。
透明な杯の向こうに、暖炉の炎が揺れた。
エルナがアイリスの栓を抜く。
小さな音がした。
すぐには注がず、瓶の口元へ少し顔を近づける。
「……いい香り」
エルナはゆっくり瓶を傾けた。
濃い琥珀色の酒が、細い音を立てながらガラス杯へ流れ込んでいく。
暖炉の明かりを透かすと、蜂蜜よりも深い色の奥に、わずかな赤みが見えた。
もう一つの杯にも注ぐ。
ガレスが受け取る。
杯を持ち上げると、琥珀色がゆっくり揺れた。ガラスの内側を酒が伝い、細い跡を残しながら戻っていく。
二人とも、すぐには口をつけなかった。
ガレスが杯を鼻先へ近づける。
香りを確かめ、ほんの少しだけ口に含んだ。
「……最初に、煙」
もう一口含む。
「その奥に、蜂蜜のような甘さ。干した果物……葡萄でしょうか。最後に少し、木と胡椒」
「なんですか? それ」
エルナが笑った。
「蒸留酒、定番の売り文句ですよ」
ガレスはそう言って、また杯へ口をつけた。
エルナも杯を鼻先へ寄せる。
しばらく香りを確かめてから、少し飲んだ。
「……強いですね」
「カスクストレングスですから」
エルナは、もう一口だけ飲む。
「でも、本当に甘いですね」
「でしょう」
「煙は……」
もう一度、香りを確かめる。
「ああ、分かる気がします」
ガレスは両手で杯を覆うように持った。
「こうやって温めると、また一段と香りが立ちます」
エルナも真似をして、杯を両手で包んだ。
窓の外では雪が降っている。
二人の手の中で、琥珀色の酒が暖炉の火を受けて揺れていた。
ガレスがその色を眺める。
「伝記には、この酒に関わった者たちが出てきます」
エルナが顔を上げた。
「大麦を運ぶ竜。樽に宿る精霊。酒を作る職人。それぞれの違いに価値を見つけた者。それを瓶に詰め、遠くへ届ける者」
ガレスが杯を少し持ち上げる。
「一本の酒になるまでには、ずいぶん長い物語がある」
暖炉の明かりが、ガラスの向こうで揺れた。
「そして、この物語の最後の登場人物は――私たちです」
エルナは、しばらく杯の中を見ていた。
「……素敵ですね」
俺もそう思った。
この一本が、どれだけの手を経て、どれだけの時間をかけてここまで来たのか。
俺には、それを想像することしかできない。
さっきまで、どれも同じ酒にしか見えなかった。
今は、琥珀色のわずかな色合いの違いさえ、何か意味のあるものに見えた。
エルナがガレスを見る。
「今日のガレスさんは、何だか詩的ですね」
ガレスが笑った。
「良い酒は、人を惑わします」
エルナも笑った。
二人のガラス杯には、あと一口ずつ残っている。
エルナがそれを見て、杯を持ち上げた。
「では、このお酒の物語の終幕に」
ガレスも杯を上げる。
「そして、これを手に入れてくださった支部長に」
小さく、ガラスの触れ合う音がした。
二人は残った酒を飲み干した。
ガレスが空になった杯を机へ置く。
立ち上がり、まとめていた書類を手に取った。
「では、私はこれで」
「おやすみなさい、ガレスさん」
ガレスは扉まで歩いていく。
手を掛けたところで、振り返った。
「次は、私の酒をご馳走しましょう」
エルナが頷く。
ガレスはそれだけ言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
廊下の向こうで、足音が少しずつ遠ざかっていく。
やがて、それも聞こえなくなった。
執務室には、エルナと俺だけが残った。
さっきまで二人分あった声がなくなると、暖炉の燃える音が急に近くなったように感じる。
エルナは空になった杯をしばらく見ていた。
アイリスへ手を伸ばし、ほんの少しだけガラス杯へ注いだ。
琥珀色が、暖炉の明かりを受けて静かに揺れる。
エルナは杯を手にしたまま窓辺へ目を向けた。
雪は、まだ降り続いていた。
中庭を囲む屋根には、白い雪が厚く積もっている。
軒先から漏れる明かりが、その表面を淡く照らしていた。
昼の間、人や荷馬車が行き交っていた石畳は、もうほとんど雪の下に隠れている。
正門へ続く道に、かすかな足跡が残っていた。
誰かが歩いた跡も、少しずつ輪郭を失っていく。雪が、その上へ静かに積もっていた。
遠くの建物には、まだいくつか明かりが残っている。
一つ消えた。
少しして、もう一つ。
正門の先も、もう暗い。
昼間には先まで見えていた街道は雪の中へ伸び、その先は夜に溶けて見えなくなっていた。
エルナが一人で杯を傾け、やがて机の上へ置いた。
今度は俺に手を伸ばし、ページをめくった。
「何か、書きますか?」
白いページが開かれ、俺は一文を書いた。
『いい冬になりそうですね。』
エルナは俺を見て、笑った。
「そうですね」
ガラス杯の底に残った琥珀色が、暖炉の明かりを映していた。窓の向こうでは、雪が音もなく降り積もっていた。
暖炉の火が、小さくはぜた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この作品は、もともと魔王軍の地方支部を舞台にしたコメディとして書き始めました。
引継ぎ書が支部の仕事を眺めながら、時々ひと言だけ口を挟む。
最初は、そんな話のつもりでした。
それが書き続けるうちに、冬が終わり、春が来て、夏を越え、秋まで来ました。
十話ずつ四つの季節を巡り、気づけば四十話です。
雪をかき、書類を書き、荷物を受け取り、誰かが訪ねてきて、また誰かを見送る。
大きな戦いばかりが起こる話ではありませんが、そうした日々を積み重ねながら、北方支部の一年を書くことができました。
物語としては、ここで一度完結とします。
もちろん、エルナたちの仕事も、北方支部の日々もまだ続いています。
続きを書くとしたら、また冬から始めることになると思います。
それがいつの冬になるのかは、まだ決めていません。
ここまでお付き合いいただいた皆さま、本当にありがとうございました。
また、あの暖炉の前で。
川邑シュウ




