ep.35 嵐のあとは
二日続いた秋嵐は、夜半を過ぎた頃に北へ抜けていった。
朝には風もほとんど止み、雲の切れ間から差した薄い陽が、水たまりを静かに照らしていた。昨夜まで屋根を叩いていた雨も、壁を揺らしていた風も、今はもうない。
エルナが窓を開けると、冷たい空気が執務室へ流れ込み、思わず肩をすくめた。
「……寒い」
嵐が来る前までの暑さが嘘のようだった。
窓の向こうには折れた枝や葉が散り、石畳のあちこちに泥が残っている。それでも、見える範囲では建物に大きな損傷はなかった。
エルナは俺を抱え、執務室を出た。
外では、すでに兵たちが後片付けを始めている。傾いた結界石を戻す者、枝を集める者、排水溝に流れ込んだ泥をさらう者。
ガレスもその様子を見て回っていた。
「幸い、怪我人はいません。夜間の警戒組も全員戻っています」
エルナの表情が少し緩んだ。
「よかった……」
二日間、あれだけ荒れたのだ。
それでも、誰も欠けなかった。
俺は一文を書いた。
『今回確認した箇所は、記録に残しておきましょう。』
エルナが足を止める。
「そうですね。次の時に使えます」
ガレスもこちらを見る。
「損傷の有無だけでなく、事前に手を入れた箇所も残しておきましょう」
それがいい。
◇
外周の結界石は、南西側を中心にいくつか傷んでいた。
アリーシャたちが一つずつ状態を見ている。
「これは交換します。隣は固定だけやり直してください」
指示を受けた者が、傷んだ石を運んでいく。
「各棟の方は?」
エルナが尋ねた。
「ほとんど無事です。外周側が先に受けてくれたみたいですね」
支部周囲の斜面にも、大きな崩れはなかった。
ただ、水刻印の魔導パイプからは、まだ濁った水が細く流れ続けている。
アリーシャが出口を覗いた。
「思ったより出ましたね」
「井戸は大丈夫ですか?」
「少し濁りが出ています。今は飲用には回していません」
エルナは流れ続ける水を見た。
「これは、まだ外さない方がいいですね」
「はい。水が落ち着くまでは、このままにしておきます」
エルナは俺を抱えたまま、ガレスと墓地へ向かった。
排水溝には泥と落ち葉が溜まっていたものの、水が溢れた跡はない。上の斜面にも目立った崩れはなく、墓標にも大きな被害はなかった。
すでに兵が入り、傾いた柵を直している。
ガレスは一通り見て回った。
「こちらは大丈夫そうですね」
「よかった」
それ以上長居はせず、支部へ戻った。
まだ、片付けるものはいくらでも残っている。
◇
昼前には、別の忙しさまで加わった。
「夏物の返納はこちらです!」
倉庫前からセルディンの声が聞こえる。
薄手の外套や夏用装備を抱えた兵たちが集まり、その隣には冬物を受け取りに来た者まで並んでいた。
「そちらは返納です。冬物はまだ持っていかないでください」
「でも寒いんですが」
「私も寒いです」
セルディンは真顔だった。
「ですから、順番にお願いします」
嵐の前まで使っていた日除け布も、もう張り直す必要はなさそうだった。
返納された夏物は倉庫の奥へ回され、代わりに仮置場の冬物が払い出しやすい場所へ運び込まれていく。
ようやく、冬支度が先へ進み始めた。
そう思ったところで、返納の列と受け取りの列が混ざった。
「あの、これはどちらへ?」
「それは返納です」
「こっちは?」
「冬物です」
「では、ここで?」
「違います」
セルディンの返事が、少しだけ早くなってきた。
返納を先にまとめた方がいい。
そう書きたいところだが、今日はもう書けない。
「一度、冬物の払い出しを止めます!」
セルディンの声が飛んだ。
「返納を先に終わらせてください。急ぎで必要な者だけ、こちらへ!」
兵たちが列を作り直し始める。
……まあ、気持ちが伝わったのかもしれない。
◇
午後になっても、支部のあちこちで人が動いていた。
中庭の泥が流され、濡れた縄や布は広げて干される。傷んだ結界石は交換され、排水溝では泥さらいが続いている。
倉庫では夏物の返納がようやく終わり、今度は冬物の払い出しが始まっていた。
「嵐が来る前まで暑かったんですけどね」
冬用の外套を受け取った兵が言った。
「北方ですから」
セルディンが返す。
それで説明は終わったらしい。
街道の確認に出ていた兵たちも戻ってきた。
二番標から三番標まで、何か所か枝や泥が道へ流れ込んでいたものの、通れなくなるほどの場所はなかったという。
沿道の竜威香も、雨にさらされたものを中心に、いくつか交換が必要になった。
「馬車も通れそうです」
報告を聞いたガレスが頷いた。
「枝と泥は片付けておきましょう。竜威香も交換を」
ほどなく、セルディンから在庫の連絡が入った。
今回の交換分を出すと、竜威香は安全在庫を下回るらしい。
「補充も必要ですね」
エルナが言う。
ガレスが頷いた。
クロイゼンや温泉区画、周辺集落からも、少しずつ状況が入ってきた。
屋根や看板に多少の被害が出た場所はあったものの、大きな被害の知らせはなかった。
エルナも朝から、執務室と各所を何度も往復していた。
◇
日が傾く頃、ようやく人の動きが落ち着いた。
中庭から枝と泥は消え、倉庫前の列もなくなっている。夏物は収められ、冬物の払い出しもひとまず終わった。
朝から続いていた足音が途切れると、急に支部が静かになったように感じた。
執務室へ戻ったエルナは俺を机に置き、椅子へ腰を下ろした。
「……終わりましたね」
俺もそう思う。
今日はもう、十分だろう。
扉が開いた。
ガレスが入ってきた。
両腕に書類の束を抱え、その一番上には一通の封書が載っている。
「まず、こちらを」
ガレスが封書を差し出した。
「ハルザ村からです。竜運の速達便で届きました」
「ハルザ村から?」
エルナが受け取り、封を開く。
書かれていたのは、北方支部からの知らせを受けて屋外の荷や農具を片付けたことと、村に大きな被害はなかったこと。最後に、短い礼が添えられていた。
エルナは最後まで読むと、少しだけ表情を緩めた。
「間に合ったみたいですね」
「そのようです」
エルナは書簡を、他の報告書と一緒に置いた。
だが、ガレスはまだ書類の束を抱えたままだった。
「……そちらは?」
ガレスは残った書類をエルナの前に置いた。
思ったより、厚い。
「七日市の出店申請と、街道馬車組合からの運行計画です。嵐の前から溜まっていた分も含まれています」
エルナが一番上の紙を取る。
その下にも、その下にも、まだある。
「もうですか?」
「はい」
なるほど。
嵐の次は、人の嵐か。




