↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/40

ep.34 風が来る前に

朝から、日差しは強かった。


暦の上ではもう秋だが、空は青く、訓練場にはまだ日除け布が張られている。窓から入る空気にも、夏の名残があった。


その空の下で、いつもとは違う鐘が鳴った。


臨時便を知らせる鐘だった。


エルナが顔を上げ、俺を机から取り上げる。


「もう来たんですね」


執務室を出て裏庭へ向かう途中で、やがて大きな羽音が聞こえてきた。


係留場へ出ると、一頭のワイバーンが降下していた。その背には、竜人が一人乗っている。


着地すると同時に受入担当の兵たちが集まり、括りつけられた荷を次々と下ろしていく。


昨日、グレン殿が言っていた急ぎの荷だろう。


最後の一箱が下ろされるのを確認して、竜人がエルナへ向き直った。


「こちらで急ぎの分はすべてです」


「ありがとうございます。次の定期便は?」


「欠航です」


エルナがわずかに目を見開いた。


「決まったんですね」


「ええ」


竜人は荷の固定具をまとめると、再びワイバーンへ跨がった。


「もう戻られるんですか」


「ええ。まだ飛べますので」


そう言って、空を見上げる。


雲はほとんどない。昨日と変わらない、よく晴れた空だった。


「もうじき風が変わります。そちらもお気をつけて」


「はい。ありがとうございます」


ワイバーンが翼を広げる。


巻き上がった土埃の向こうで、その姿はすぐに小さくなった。


雨の匂いもしない。それでも竜運は定期便を止め、その前に臨時便を飛ばした。


どうやら、本当に来るらしい。


              ◇


執務室へ戻ってしばらくすると、ガレスが入ってきた。


「臨時便が来たそうですね」


「はい。次の定期便は欠航だそうです」


ガレスは窓の外を見た。


訓練場では、いつもどおり兵たちが動いている。


「今日の訓練は、早めに切り上げましょう」


エルナが振り返った。


「もうですか?」


「はい。訓練中の者を点検へ回します。警戒組は通常どおりで」


正門も街道巡回も止めない。


嵐に備えるために、普段の仕事を止めてしまっては意味がないのだろう。


エルナは俺の頁をめくった。


前任者の走り書きが残っている。


『嵐を甘く見てはいけない。必要以上に備えておくこと。』


その一文を、しばらく見つめる。


窓の外は、相変わらず晴れていた。


「……分かりました。そのようにお願いします」


「承知しました」


ガレスは一礼し、扉へ向かったが、そこで足を止めた。


「それと、墓地を見てきます」


「墓地ですか?」


「排水と、周囲の木を確認しておいた方がよいでしょう」


支部の裏手から少し歩いたところに、殉職者たちの墓地がある。


エルナは俺を抱え直して立ち上がった。


「私も行きます」


              ◇


墓地は、支部から少し離れた緩い斜面にあった。


並ぶ墓標の間を進みながら、ガレスは地面や木々を一つずつ見ていく。


墓地の低い側には排水溝が走っていた。


ガレスがしゃがみ込み、中を覗く。落ち葉と泥が溜まり始めている。


「ここは清掃しておいた方がよいでしょう」


エルナも覗き込んだ。


「雨が続くと溢れますか」


「この辺りは標高が高く、水も下へ抜けますので、よほどのことがない限りは」


少し間を置く。


「しかし、備えておくに越したことはありません」


ガレスは立ち上がり、斜面の上を見た。


「雨が続けば、土も緩みます」


「土砂崩れですか」


「はい。上の斜面も、帰りに見ておきましょう」


エルナが頷いた。


「お願いします」


「戻ったら二人ほど回します。排水溝の清掃と、枝の確認をさせます」


さらに奥へ進むと、古い墓標が増えてきた。


そこで、ガレスの歩みがわずかに遅くなった。


「このあたりは、古いものが多いですね」


「はい」


ガレスは並ぶ墓標を見た。


「嵐で亡くなった者も、少なくありません」


エルナも墓標の列を見る。


「……それほど、危険なものなんですね」


少し間があった。


「墓標を立てられた者ばかりではありません」


エルナは何も言わなかった。


しばらく歩いたところで、ガレスが一つの墓標の前に足を止めた。


エルナも立ち止まる。


「……お知り合いが?」


「友人が一人」


それだけ言って、ガレスはまた歩き出した。


墓地の端まで確認し、帰りには上の斜面も見て回った。目立った崩れや亀裂はなかった。


              ◇


支部へ戻る頃には、各所で備えが進んでいた。


訓練はすでに切り上げられ、中庭では兵たちが日除け布を外している。窓や扉の留め具を確認する者もいれば、屋外に出していた道具を建物へ運び込む者もいた。


裏庭では、セルディンが仮置場の前で指示を出していた。


「そちらは下へ。縄は二重にしてください」


兵たちが冬物を積み直している。


上にあった荷は下ろされ、全体が風を受けにくい高さにまとめられていた。


「進んでいますね」


エルナが声をかける。


「はい。風を受けそうな物は中へ戻します。濡れて問題のない物だけ、こちらへ残します」


セルディンは荷を一つ押し、ぐらつきがないことを確かめた。


「アンタレス様がいらっしゃれば、もう少し早いのですが」


「今日もご不在ですものね」


「はい」


セルディンはそれ以上何も言わず、次の荷へ向かった。


いつものことらしい。


外周では、魔導具係の者たちが風結界を組んでいた。


一定の間隔で据えられた結界石を淡い光がつなぎ、執務棟や宿舎、倉庫の周囲にも小型のものが置かれている。


「各棟にも置くんですね」


近くで設置状況を見ていたアリーシャが答えた。


「はい。外周だけでは足りませんので」


「これで防げるものなんですか?」


「まさか」


即答だった。


「まともに受け止めたら、結界石の方が先に駄目になります。窓や屋根にかかる風を少しでも逃がして、被害を減らすだけです」


アリーシャは作業中の者たちへ二、三指示を出し、こちらへ戻ってきた。


ガレスが支部の外周にある斜面を見る。


「こちらも見ておきましょう」


「では、私も」


アリーシャが道具を持ち直す。


三人で支部の周囲を回った。


今のところ目立った亀裂や崩れはない。ガレスは何か所かで足を止め、地面や斜面の上にある木々を見ていく。


「今のところは問題なさそうですね」


エルナが斜面を見上げた。


「これなら大丈夫でしょうか」


「今は、です。雨が長く続けば分かりません」


アリーシャはしばらく斜面を見ていた。


「……水刻印の魔導パイプを使ってみましょうか」


「ここにですか?」


「はい」


アリーシャは斜面の低い場所を指した。


「水刻印を入れたパイプは、地中の水を集めやすいんです。井戸を掘る時にも使います」


ガレスが尋ねる。


「水を抜くのですか」


「危なそうな場所へ何本か差して、排水溝へ流します」


「土砂崩れを防げますか?」


エルナが聞くと、アリーシャは首を横に振った。


「防げるとは言えません。気休めですが、水が溜まるよりはいいです。井戸水の濁りも、少しは抑えられるかもしれません」


ガレスが頷いた。


「では、お願いします」


「はい」


アリーシャが声をかけると、魔導具係の者たちが数人こちらへ回ってきた。


ほどなくして細長い魔導パイプが数本運ばれ、斜面の何か所かに差し込まれていく。その先は、排水溝へつながれた。


              ◇


午後になっても、空はよく晴れていた。


日除け布を外した中庭には強い日差しが落ち、荷を運ぶ兵たちは時折、額の汗を拭っている。


風結界の結界石が並び、窓は閉め直され、屋外の物は次々と片付けられていた。


支部では嵐支度が進んでいるのに、空は朝からほとんど変わっていなかった。


執務室へ戻ると、エルナの机には短い書簡が何通か並んだ。


温泉区画と、周辺の集落。


秋嵐が近づいている可能性があることと、屋外の物品や排水を確認しておくよう記したものだ。


それぞれ雪狼便へ回していく。


エルナが新しい紙を取った。


「ラメールにも……」


そこで手が止まった。


ガレスが顔を上げる。


「ラメールは、おそらくこちらより先に動いているかと」


「海竜もいますね」


「はい」


海の変化なら、こちらより先に気づいているだろう。


エルナは紙を戻し、地図を見る。


「では、クロイゼンへ出しておきましょう」


「承知しました」


一通増える。


そして、エルナの目が三番標のあたりで止まった。


「……ハルザ村は」


「王国領ですが」


「はい」


今はおそらく、王国側の方が嵐に近い。


すでに王国側から知らせが届いていてもおかしくなかった。ただ、ハルザ村までなら北方支部からの方が近い。


エルナはしばらく地図を見たあと、紙を一枚取った。


「……こちらにも出しておきましょう」


ガレスは何も言わず、エルナの手元を見た。


「もう連絡が届いているかもしれません」


エルナは筆を取った。


「それなら、一通多く届くだけです」


「承知しました」


その書簡も、雪狼便へ回された。


              ◇


夕方まで、備えは続いた。


墓地の排水溝はさらわれ、日除け布は外され、裏庭の荷もまとめ直された。窓と扉、風結界の点検も終わり、支部周囲の斜面には新しく魔導パイプが伸びている。


それでも、空はまだ明るかった。


西へ傾いた日差しが、いつもと変わらず支部の壁を照らしている。


エルナは窓から外を見た。


「これだけやって、何もなければいいのですが」


ガレスが書類から顔を上げる。


「それが一番です」


外周の南西側から、風を受けた結界石が低く鳴った。


一つ。


少し遅れて、もう一つ。


窓の隙間から入った風が、俺の頁をわずかに持ち上げる。


朝とは違う方向から吹いていた。


ガレスが窓の外を見る。


「……変わりましたね」


エルナも南西の空を見る。


まだ雨は降っていない。


南西の空には、朝にはなかった厚い雲が広がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。