ep.34 風が来る前に
朝から、日差しは強かった。
暦の上ではもう秋だが、空は青く、訓練場にはまだ日除け布が張られている。窓から入る空気にも、夏の名残があった。
その空の下で、いつもとは違う鐘が鳴った。
臨時便を知らせる鐘だった。
エルナが顔を上げ、俺を机から取り上げる。
「もう来たんですね」
執務室を出て裏庭へ向かう途中で、やがて大きな羽音が聞こえてきた。
係留場へ出ると、一頭のワイバーンが降下していた。その背には、竜人が一人乗っている。
着地すると同時に受入担当の兵たちが集まり、括りつけられた荷を次々と下ろしていく。
昨日、グレン殿が言っていた急ぎの荷だろう。
最後の一箱が下ろされるのを確認して、竜人がエルナへ向き直った。
「こちらで急ぎの分はすべてです」
「ありがとうございます。次の定期便は?」
「欠航です」
エルナがわずかに目を見開いた。
「決まったんですね」
「ええ」
竜人は荷の固定具をまとめると、再びワイバーンへ跨がった。
「もう戻られるんですか」
「ええ。まだ飛べますので」
そう言って、空を見上げる。
雲はほとんどない。昨日と変わらない、よく晴れた空だった。
「もうじき風が変わります。そちらもお気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
ワイバーンが翼を広げる。
巻き上がった土埃の向こうで、その姿はすぐに小さくなった。
雨の匂いもしない。それでも竜運は定期便を止め、その前に臨時便を飛ばした。
どうやら、本当に来るらしい。
◇
執務室へ戻ってしばらくすると、ガレスが入ってきた。
「臨時便が来たそうですね」
「はい。次の定期便は欠航だそうです」
ガレスは窓の外を見た。
訓練場では、いつもどおり兵たちが動いている。
「今日の訓練は、早めに切り上げましょう」
エルナが振り返った。
「もうですか?」
「はい。訓練中の者を点検へ回します。警戒組は通常どおりで」
正門も街道巡回も止めない。
嵐に備えるために、普段の仕事を止めてしまっては意味がないのだろう。
エルナは俺の頁をめくった。
前任者の走り書きが残っている。
『嵐を甘く見てはいけない。必要以上に備えておくこと。』
その一文を、しばらく見つめる。
窓の外は、相変わらず晴れていた。
「……分かりました。そのようにお願いします」
「承知しました」
ガレスは一礼し、扉へ向かったが、そこで足を止めた。
「それと、墓地を見てきます」
「墓地ですか?」
「排水と、周囲の木を確認しておいた方がよいでしょう」
支部の裏手から少し歩いたところに、殉職者たちの墓地がある。
エルナは俺を抱え直して立ち上がった。
「私も行きます」
◇
墓地は、支部から少し離れた緩い斜面にあった。
並ぶ墓標の間を進みながら、ガレスは地面や木々を一つずつ見ていく。
墓地の低い側には排水溝が走っていた。
ガレスがしゃがみ込み、中を覗く。落ち葉と泥が溜まり始めている。
「ここは清掃しておいた方がよいでしょう」
エルナも覗き込んだ。
「雨が続くと溢れますか」
「この辺りは標高が高く、水も下へ抜けますので、よほどのことがない限りは」
少し間を置く。
「しかし、備えておくに越したことはありません」
ガレスは立ち上がり、斜面の上を見た。
「雨が続けば、土も緩みます」
「土砂崩れですか」
「はい。上の斜面も、帰りに見ておきましょう」
エルナが頷いた。
「お願いします」
「戻ったら二人ほど回します。排水溝の清掃と、枝の確認をさせます」
さらに奥へ進むと、古い墓標が増えてきた。
そこで、ガレスの歩みがわずかに遅くなった。
「このあたりは、古いものが多いですね」
「はい」
ガレスは並ぶ墓標を見た。
「嵐で亡くなった者も、少なくありません」
エルナも墓標の列を見る。
「……それほど、危険なものなんですね」
少し間があった。
「墓標を立てられた者ばかりではありません」
エルナは何も言わなかった。
しばらく歩いたところで、ガレスが一つの墓標の前に足を止めた。
エルナも立ち止まる。
「……お知り合いが?」
「友人が一人」
それだけ言って、ガレスはまた歩き出した。
墓地の端まで確認し、帰りには上の斜面も見て回った。目立った崩れや亀裂はなかった。
◇
支部へ戻る頃には、各所で備えが進んでいた。
訓練はすでに切り上げられ、中庭では兵たちが日除け布を外している。窓や扉の留め具を確認する者もいれば、屋外に出していた道具を建物へ運び込む者もいた。
裏庭では、セルディンが仮置場の前で指示を出していた。
「そちらは下へ。縄は二重にしてください」
兵たちが冬物を積み直している。
上にあった荷は下ろされ、全体が風を受けにくい高さにまとめられていた。
「進んでいますね」
エルナが声をかける。
「はい。風を受けそうな物は中へ戻します。濡れて問題のない物だけ、こちらへ残します」
セルディンは荷を一つ押し、ぐらつきがないことを確かめた。
「アンタレス様がいらっしゃれば、もう少し早いのですが」
「今日もご不在ですものね」
「はい」
セルディンはそれ以上何も言わず、次の荷へ向かった。
いつものことらしい。
外周では、魔導具係の者たちが風結界を組んでいた。
一定の間隔で据えられた結界石を淡い光がつなぎ、執務棟や宿舎、倉庫の周囲にも小型のものが置かれている。
「各棟にも置くんですね」
近くで設置状況を見ていたアリーシャが答えた。
「はい。外周だけでは足りませんので」
「これで防げるものなんですか?」
「まさか」
即答だった。
「まともに受け止めたら、結界石の方が先に駄目になります。窓や屋根にかかる風を少しでも逃がして、被害を減らすだけです」
アリーシャは作業中の者たちへ二、三指示を出し、こちらへ戻ってきた。
ガレスが支部の外周にある斜面を見る。
「こちらも見ておきましょう」
「では、私も」
アリーシャが道具を持ち直す。
三人で支部の周囲を回った。
今のところ目立った亀裂や崩れはない。ガレスは何か所かで足を止め、地面や斜面の上にある木々を見ていく。
「今のところは問題なさそうですね」
エルナが斜面を見上げた。
「これなら大丈夫でしょうか」
「今は、です。雨が長く続けば分かりません」
アリーシャはしばらく斜面を見ていた。
「……水刻印の魔導パイプを使ってみましょうか」
「ここにですか?」
「はい」
アリーシャは斜面の低い場所を指した。
「水刻印を入れたパイプは、地中の水を集めやすいんです。井戸を掘る時にも使います」
ガレスが尋ねる。
「水を抜くのですか」
「危なそうな場所へ何本か差して、排水溝へ流します」
「土砂崩れを防げますか?」
エルナが聞くと、アリーシャは首を横に振った。
「防げるとは言えません。気休めですが、水が溜まるよりはいいです。井戸水の濁りも、少しは抑えられるかもしれません」
ガレスが頷いた。
「では、お願いします」
「はい」
アリーシャが声をかけると、魔導具係の者たちが数人こちらへ回ってきた。
ほどなくして細長い魔導パイプが数本運ばれ、斜面の何か所かに差し込まれていく。その先は、排水溝へつながれた。
◇
午後になっても、空はよく晴れていた。
日除け布を外した中庭には強い日差しが落ち、荷を運ぶ兵たちは時折、額の汗を拭っている。
風結界の結界石が並び、窓は閉め直され、屋外の物は次々と片付けられていた。
支部では嵐支度が進んでいるのに、空は朝からほとんど変わっていなかった。
執務室へ戻ると、エルナの机には短い書簡が何通か並んだ。
温泉区画と、周辺の集落。
秋嵐が近づいている可能性があることと、屋外の物品や排水を確認しておくよう記したものだ。
それぞれ雪狼便へ回していく。
エルナが新しい紙を取った。
「ラメールにも……」
そこで手が止まった。
ガレスが顔を上げる。
「ラメールは、おそらくこちらより先に動いているかと」
「海竜もいますね」
「はい」
海の変化なら、こちらより先に気づいているだろう。
エルナは紙を戻し、地図を見る。
「では、クロイゼンへ出しておきましょう」
「承知しました」
一通増える。
そして、エルナの目が三番標のあたりで止まった。
「……ハルザ村は」
「王国領ですが」
「はい」
今はおそらく、王国側の方が嵐に近い。
すでに王国側から知らせが届いていてもおかしくなかった。ただ、ハルザ村までなら北方支部からの方が近い。
エルナはしばらく地図を見たあと、紙を一枚取った。
「……こちらにも出しておきましょう」
ガレスは何も言わず、エルナの手元を見た。
「もう連絡が届いているかもしれません」
エルナは筆を取った。
「それなら、一通多く届くだけです」
「承知しました」
その書簡も、雪狼便へ回された。
◇
夕方まで、備えは続いた。
墓地の排水溝はさらわれ、日除け布は外され、裏庭の荷もまとめ直された。窓と扉、風結界の点検も終わり、支部周囲の斜面には新しく魔導パイプが伸びている。
それでも、空はまだ明るかった。
西へ傾いた日差しが、いつもと変わらず支部の壁を照らしている。
エルナは窓から外を見た。
「これだけやって、何もなければいいのですが」
ガレスが書類から顔を上げる。
「それが一番です」
外周の南西側から、風を受けた結界石が低く鳴った。
一つ。
少し遅れて、もう一つ。
窓の隙間から入った風が、俺の頁をわずかに持ち上げる。
朝とは違う方向から吹いていた。
ガレスが窓の外を見る。
「……変わりましたね」
エルナも南西の空を見る。
まだ雨は降っていない。
南西の空には、朝にはなかった厚い雲が広がっていた。




