↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/40

ep.33 南西より来たるモノ

中庭には、今日も行商の布が広げられていた。


箱の上には便箋や糸、革紐。その隣には、小さく包まれた蜂蜜菓子が並んでいる。


昼前ということもあって、兵士の姿も多い。一人が革紐を手に取り、別の兵士が蜂蜜菓子の包みを覗き込んでいた。


その向こうでは、黒い炎をまとったような鎧の上に薄手の白い外套を羽織った男が、蜂蜜菓子を手に取っている。


ローデンが何かを説明すると、男は頷いて代金を渡した。


窓辺に立ったエルナは、そんな中庭をにこやかに眺めていた。


行商を中庭へ通すようになってから、兵士たちもすっかり慣れたものだ。


エルナも満足したらしい。


窓から離れようとして、止まった。


もう一度、中庭を見る。


黒い炎をまとったような鎧。

その上に羽織られた、白い外套。


蜂蜜菓子。


「…………魔王様?」


俺も、もう一度見た。


間違いなかった。


エルナが俺を掴み、そのまま執務室を飛び出した。


「魔王様!」


中庭へ出ると、男が振り返った。


「おお、エルナ」


周囲の兵士たちが止まった。


買い物をしていた者も、荷を眺めていた者も。


誰も気づいていなかったらしい。


ローデンも止まっていた。


客へ向けた笑顔のまま、魔王様から受け取った代金をまだ手に持っている。


「元気か」


「……はい」


エルナは少し息を整えた。


「おかげさまで」


「そうか」


魔王様は満足そうに頷くと、買ったばかりの蜂蜜菓子を口へ入れた。


そのまま、中庭の木を見上げる。


「春は、さぞ盛り上がったそうではないか」


「はい。思っていたより、大勢集まりました」


「そうか」


枝葉の向こうへ視線を向けたまま、魔王様が笑う。


「来年は、その花見とやらに混ざるとしよう」


エルナが少しだけ目を見開いた。


「……はい。ぜひ」


その時、建物からガレスが出てきた。


「陛下、応接室の準備ができております」


「うむ」


魔王様は中庭を横切り、エルナとガレスがその後に続いた。


俺もエルナの腕の中だった。


途中で、魔王様の足が止まった。


日除け布の下では、兵士たちが盤を囲んでいた。対局中で、その後ろには何人かが立って盤を覗いている。


魔王様は何も言わず、その中に混ざった。


兵士たちの肩越しに、盤を覗き込む。


エルナも足を止めた。


「……魔王様?」


ガレスは特に驚かなかった。


「陛下もお好きですからね」


「そうなんですか?」


「はい」


盤上で、騎馬駒が一つ動いた。


魔王様の目も、それを追う。


「そこは、早いな」


駒を動かした兵士の手が止まった。


「え?」


振り返る。


すぐ後ろにいる黒い鎧を見る。


兵士の顔が固まった。


隣の兵士が、何事かと振り返る。


同じように固まる。


さらに一人。


もう一人。


やがて、盤を囲んでいた全員が魔王様を見ていた。


「続けないのか」


「は、はい!」


盤の前の二人が姿勢を正し、対局が再開された。


さっきまでとは明らかに違う手つきで、駒が動いていく。


周囲も静かだった。


魔王様だけが、変わらず盤を見ている。


何手か進んだところで。


「誰が一番強いのだ?」


盤を囲んでいた兵士たちの視線が、一斉に動いた。


エルナへ。


一人が姿勢を正す。


「はっ。ここでは支部長殿に勝てる者はおりません」


魔王様がエルナを見る。


一瞬。


それから、声を上げて笑った。


「やはり血か」


エルナが目を瞬く。


「余もグレイヴェインとは五分だ」


兵士たちが少しざわついた。


魔王様は今度はガレスを見る。


「引き潮の鉄槌も、かなわぬか?」


ガレスの表情が、ほんの少し止まった。


「……先日は、支部長に敗れました」


「ほう」


魔王様は面白そうに笑う。


そして、何かを思い出したらしい。


「そういえば、絶望の毒蠍も北方の所属ではなかったか?」


「はい」


ガレスが頷く。


「アンタレス殿は出張が多く、本日もご不在かと」


「またおらぬのか」


「はい」


「相変わらずだな」


魔王様は少し笑った。


「あれも、かなわぬか?」


エルナが首を振る。


「アンタレス殿とは、まだ対戦しておりません」


兵士たちが息を呑んだ。


まだ知らない強者がいたらしい。


だが、いつもいない気がする。


やがて、対局が終わった。


盤の前にいた兵士が、思い切ったように口を開く。


「陛下も、一局いかがですか」


魔王様は盤を見る。


それから、兵士たちの顔を見回した。


「千年早いわ」


声を上げて笑った。


「行くぞ、エルナ」


「……はい」


盤を囲んでいた兵士たちは、しばらくその背中を見送っていた。



          ◇



応接室へ入ってしばらくすると、給仕係がお茶を運んできた。


三人の前へ一つずつ茶器を置き、最後に魔王様の前へ置いたところで。


「いつもすまんな」


給仕係の手が、ほんの少し止まった。


「……恐縮です」


深々と頭を下げる。


魔王様は気にした様子もなく、湯気の立つ茶器を手に取った。


机の上には、一通の書類が広げられていた。


冬季予算伺い。


魔王様は一通り目を通す。


「昨年より増えているな」


「はい」


エルナが頷いた。


「今年は、少し余裕を持たせたいと考えています」


「どこにだ?」


「街道の維持と、予備物資です」


エルナが項目を示す。


除雪や街道巡回、冬季の臨時人員、雪害に備えた補修材。それに冬具と燃料の追加分。


「人も増やすのか」


「冬の間だけです。除雪に人を取られると、通常の交代が厳しくなりますので」


「なるほどな」


魔王様はしばらく書類を見ていた。


「削れるところはあるか?」


エルナが少し考える。


「あります」


「ほう」


「ただ、大雪になれば後から必要になります」


魔王様が顔を上げた。


「ならば削るな」


「……よろしいのですか?」


「必要になると思って出したのであろう」


「はい」


「ならば、それでよい」


エルナが頭を下げた。


「ありがとうございます」


いくつかの項目を確認したが、冬季予算についての話はそれほど長くかからなかった。


魔王様がお茶を一口飲む。


「そうだ」


エルナが顔を上げる。


「先ほど、竜運との会合で聞いたのだが」


魔王様は茶器を置いた。


「南西の海が荒れるらしい」


エルナが少し考える。


「南西……王国側ですね」


「うむ。そこから北へ上がってくる」


ガレスの表情が、少しだけ変わった。


「秋嵐ですか」


エルナが二人を見る。


「秋嵐、とは?」


魔王様がエルナを見る。


「そうか。東方育ちのお前には、あまり馴染みがないかもしれぬな」


ガレスが続けた。


「海から入る、大きな嵐です。進路によっては、強い雨と風が続きます」


「ここまで来るんですか?」


「はい。直撃することもあります」


魔王様が頷く。


「最近はあまりなかったが、直撃すると厄介だ」


エルナは少し考えた。


「……この後、支部内を点検しておきます」


「よし。余も同行しよう」


エルナが顔を上げた。


「……お忙しいのでは?」


「なに。エルツブルクには、明日までに着けばよい」


「明日まで……」


ガレスが、ほんの少しだけ目を細めた。


魔王様は残っていたお茶を飲み干すと、茶器を置いて立ち上がった。



          ◇



支部内を歩き始めると、廊下の向こうから来た兵士が魔王様に気づき、すぐに足を止めて敬礼した。


魔王様は軽く手を上げる。


「ご苦労」


次の角でも、倉庫前でも、気づいた兵士たちは足を止めて敬礼する。


魔王様はそのたびに短く応じた。


どうやら、すでに支部中へ話は回ったらしい。


倉庫前を抜けたところで、カイルと鉢合わせた。


一瞬だけ目を見開き、すぐに姿勢を正す。


「はっ!」


敬礼。


魔王様が足を止めた。


「お前がカイルか」


「はっ。光栄であります」


いつもより、声が硬い。


魔王様はそんなカイルを見て、わずかに笑った。


「兄上に伝えてくれ」


カイルの表情が、少し変わる。


「取引がしたいので、使いをよこせと」


「……承知しました!」


魔王様は頷き、そのまま歩き出した。


エルナも後に続く。


「陛下は、何でもお見通しですね」


「さてな」


魔王様は前を向いたまま、少しだけ笑った。


裏庭へ回ると、壁際には冬物を置いた仮置場が残っていた。


エルナが縄の固定を確かめる。


「雨より、風の方が気になりますね」


「はい」


ガレスも積まれた荷を見る。


「上にあるものは、下ろした方がよいでしょう」


魔王様が荷の間を見回す。


「飛ぶものは、先に片付けておけ」


「そうします」


エルナが頷き、それから係留場の方を見た。


「そういえば、定期便もそろそろ到着する頃ですね」


「本日の便であれば、間もなくかと」


ガレスが空を見上げる。


少しして、遠くから大きな羽音が聞こえた。


影が一つ、北方支部へ向かって高度を落としてくる。


「グレン殿ですね」


やがて、グレン殿が係留場へ降り立った。


翼を畳むと、荷受担当たちが背の荷を下ろし始める。


魔王様が足を止めた。


「おお、グレン。久しいな」


グレン殿が魔王様を見る。


「貴殿も相変わらずだな」


魔王様が笑う。


「ちょうどよい。南西の空について聞きたかったところだ」


荷下ろしが進む中、グレン殿が頷いた。


「その話をしようと思っていた」


エルナが顔を上げる。


「おそらく、次の定期便は無理だ」


「欠航ですか?」


「まだ決めてはいない。だが、今のままなら飛ばさん」


魔王様が頷く。


「やはり、こちらまで来そうか」


「可能性は高い」


グレン殿が、荷を受けている者たちへ目を向けた。


「次の定期便で受け取る予定の荷を、まとめておいてくれ」


近くで荷を受けていた担当者が顔を上げる。


「承知しました」


「急ぐものがあるなら、先に回す」


エルナがグレン殿を見る。


「臨時便を?」


魔王様がグレンを見る。


「無理はするなよ」


グレン殿が空を見上げた。


「風が来る前に飛ぶだけだ」


その担当者が頷いた。


「すぐに一覧に書き出します」



          ◇



一通り見て回ったところで、魔王様が支部の外へ続く道を見た。


白い外套が、穏やかな風にわずかに揺れる。


「では、そろそろ行くか」


ガレスは近くにいた兵士を二人呼ぶ。


「開門陣まで、陛下をお送りするように」


「はっ!」


二人が姿勢を正す。


魔王様は、その二人を見る。


「お前たちも、盤遊びをやるのか?」


「は、はい」


三人は、支部の外へ続く道を歩き始めた。


「どちらが強い?」


二人が顔を見合わせる。


「……たぶん、こいつです」


「たぶんとは何だ」


魔王様の笑い声が響く。


そのまま盤遊びの話をしながら、白い外套を揺らす魔王様の背中と二人の兵士は、やがて道の向こうへ見えなくなった。


エルナはしばらく、その方向を見ていた。


「……魔王様は、今日は冬季予算の確認に来られたんですよね」


ガレスも同じ方向を見る。


少し間を置いて。


「……そういうことになっております」


中庭にはまだ明るい陽が差し、空は高く、雲も薄い。木々を揺らす風も穏やかで、南西の海から嵐が来るとは到底思えない空だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。