ep.33 南西より来たるモノ
中庭には、今日も行商の布が広げられていた。
箱の上には便箋や糸、革紐。その隣には、小さく包まれた蜂蜜菓子が並んでいる。
昼前ということもあって、兵士の姿も多い。一人が革紐を手に取り、別の兵士が蜂蜜菓子の包みを覗き込んでいた。
その向こうでは、黒い炎をまとったような鎧の上に薄手の白い外套を羽織った男が、蜂蜜菓子を手に取っている。
ローデンが何かを説明すると、男は頷いて代金を渡した。
窓辺に立ったエルナは、そんな中庭をにこやかに眺めていた。
行商を中庭へ通すようになってから、兵士たちもすっかり慣れたものだ。
エルナも満足したらしい。
窓から離れようとして、止まった。
もう一度、中庭を見る。
黒い炎をまとったような鎧。
その上に羽織られた、白い外套。
蜂蜜菓子。
「…………魔王様?」
俺も、もう一度見た。
間違いなかった。
エルナが俺を掴み、そのまま執務室を飛び出した。
「魔王様!」
中庭へ出ると、男が振り返った。
「おお、エルナ」
周囲の兵士たちが止まった。
買い物をしていた者も、荷を眺めていた者も。
誰も気づいていなかったらしい。
ローデンも止まっていた。
客へ向けた笑顔のまま、魔王様から受け取った代金をまだ手に持っている。
「元気か」
「……はい」
エルナは少し息を整えた。
「おかげさまで」
「そうか」
魔王様は満足そうに頷くと、買ったばかりの蜂蜜菓子を口へ入れた。
そのまま、中庭の木を見上げる。
「春は、さぞ盛り上がったそうではないか」
「はい。思っていたより、大勢集まりました」
「そうか」
枝葉の向こうへ視線を向けたまま、魔王様が笑う。
「来年は、その花見とやらに混ざるとしよう」
エルナが少しだけ目を見開いた。
「……はい。ぜひ」
その時、建物からガレスが出てきた。
「陛下、応接室の準備ができております」
「うむ」
魔王様は中庭を横切り、エルナとガレスがその後に続いた。
俺もエルナの腕の中だった。
途中で、魔王様の足が止まった。
日除け布の下では、兵士たちが盤を囲んでいた。対局中で、その後ろには何人かが立って盤を覗いている。
魔王様は何も言わず、その中に混ざった。
兵士たちの肩越しに、盤を覗き込む。
エルナも足を止めた。
「……魔王様?」
ガレスは特に驚かなかった。
「陛下もお好きですからね」
「そうなんですか?」
「はい」
盤上で、騎馬駒が一つ動いた。
魔王様の目も、それを追う。
「そこは、早いな」
駒を動かした兵士の手が止まった。
「え?」
振り返る。
すぐ後ろにいる黒い鎧を見る。
兵士の顔が固まった。
隣の兵士が、何事かと振り返る。
同じように固まる。
さらに一人。
もう一人。
やがて、盤を囲んでいた全員が魔王様を見ていた。
「続けないのか」
「は、はい!」
盤の前の二人が姿勢を正し、対局が再開された。
さっきまでとは明らかに違う手つきで、駒が動いていく。
周囲も静かだった。
魔王様だけが、変わらず盤を見ている。
何手か進んだところで。
「誰が一番強いのだ?」
盤を囲んでいた兵士たちの視線が、一斉に動いた。
エルナへ。
一人が姿勢を正す。
「はっ。ここでは支部長殿に勝てる者はおりません」
魔王様がエルナを見る。
一瞬。
それから、声を上げて笑った。
「やはり血か」
エルナが目を瞬く。
「余もグレイヴェインとは五分だ」
兵士たちが少しざわついた。
魔王様は今度はガレスを見る。
「引き潮の鉄槌も、かなわぬか?」
ガレスの表情が、ほんの少し止まった。
「……先日は、支部長に敗れました」
「ほう」
魔王様は面白そうに笑う。
そして、何かを思い出したらしい。
「そういえば、絶望の毒蠍も北方の所属ではなかったか?」
「はい」
ガレスが頷く。
「アンタレス殿は出張が多く、本日もご不在かと」
「またおらぬのか」
「はい」
「相変わらずだな」
魔王様は少し笑った。
「あれも、かなわぬか?」
エルナが首を振る。
「アンタレス殿とは、まだ対戦しておりません」
兵士たちが息を呑んだ。
まだ知らない強者がいたらしい。
だが、いつもいない気がする。
やがて、対局が終わった。
盤の前にいた兵士が、思い切ったように口を開く。
「陛下も、一局いかがですか」
魔王様は盤を見る。
それから、兵士たちの顔を見回した。
「千年早いわ」
声を上げて笑った。
「行くぞ、エルナ」
「……はい」
盤を囲んでいた兵士たちは、しばらくその背中を見送っていた。
◇
応接室へ入ってしばらくすると、給仕係がお茶を運んできた。
三人の前へ一つずつ茶器を置き、最後に魔王様の前へ置いたところで。
「いつもすまんな」
給仕係の手が、ほんの少し止まった。
「……恐縮です」
深々と頭を下げる。
魔王様は気にした様子もなく、湯気の立つ茶器を手に取った。
机の上には、一通の書類が広げられていた。
冬季予算伺い。
魔王様は一通り目を通す。
「昨年より増えているな」
「はい」
エルナが頷いた。
「今年は、少し余裕を持たせたいと考えています」
「どこにだ?」
「街道の維持と、予備物資です」
エルナが項目を示す。
除雪や街道巡回、冬季の臨時人員、雪害に備えた補修材。それに冬具と燃料の追加分。
「人も増やすのか」
「冬の間だけです。除雪に人を取られると、通常の交代が厳しくなりますので」
「なるほどな」
魔王様はしばらく書類を見ていた。
「削れるところはあるか?」
エルナが少し考える。
「あります」
「ほう」
「ただ、大雪になれば後から必要になります」
魔王様が顔を上げた。
「ならば削るな」
「……よろしいのですか?」
「必要になると思って出したのであろう」
「はい」
「ならば、それでよい」
エルナが頭を下げた。
「ありがとうございます」
いくつかの項目を確認したが、冬季予算についての話はそれほど長くかからなかった。
魔王様がお茶を一口飲む。
「そうだ」
エルナが顔を上げる。
「先ほど、竜運との会合で聞いたのだが」
魔王様は茶器を置いた。
「南西の海が荒れるらしい」
エルナが少し考える。
「南西……王国側ですね」
「うむ。そこから北へ上がってくる」
ガレスの表情が、少しだけ変わった。
「秋嵐ですか」
エルナが二人を見る。
「秋嵐、とは?」
魔王様がエルナを見る。
「そうか。東方育ちのお前には、あまり馴染みがないかもしれぬな」
ガレスが続けた。
「海から入る、大きな嵐です。進路によっては、強い雨と風が続きます」
「ここまで来るんですか?」
「はい。直撃することもあります」
魔王様が頷く。
「最近はあまりなかったが、直撃すると厄介だ」
エルナは少し考えた。
「……この後、支部内を点検しておきます」
「よし。余も同行しよう」
エルナが顔を上げた。
「……お忙しいのでは?」
「なに。エルツブルクには、明日までに着けばよい」
「明日まで……」
ガレスが、ほんの少しだけ目を細めた。
魔王様は残っていたお茶を飲み干すと、茶器を置いて立ち上がった。
◇
支部内を歩き始めると、廊下の向こうから来た兵士が魔王様に気づき、すぐに足を止めて敬礼した。
魔王様は軽く手を上げる。
「ご苦労」
次の角でも、倉庫前でも、気づいた兵士たちは足を止めて敬礼する。
魔王様はそのたびに短く応じた。
どうやら、すでに支部中へ話は回ったらしい。
倉庫前を抜けたところで、カイルと鉢合わせた。
一瞬だけ目を見開き、すぐに姿勢を正す。
「はっ!」
敬礼。
魔王様が足を止めた。
「お前がカイルか」
「はっ。光栄であります」
いつもより、声が硬い。
魔王様はそんなカイルを見て、わずかに笑った。
「兄上に伝えてくれ」
カイルの表情が、少し変わる。
「取引がしたいので、使いをよこせと」
「……承知しました!」
魔王様は頷き、そのまま歩き出した。
エルナも後に続く。
「陛下は、何でもお見通しですね」
「さてな」
魔王様は前を向いたまま、少しだけ笑った。
裏庭へ回ると、壁際には冬物を置いた仮置場が残っていた。
エルナが縄の固定を確かめる。
「雨より、風の方が気になりますね」
「はい」
ガレスも積まれた荷を見る。
「上にあるものは、下ろした方がよいでしょう」
魔王様が荷の間を見回す。
「飛ぶものは、先に片付けておけ」
「そうします」
エルナが頷き、それから係留場の方を見た。
「そういえば、定期便もそろそろ到着する頃ですね」
「本日の便であれば、間もなくかと」
ガレスが空を見上げる。
少しして、遠くから大きな羽音が聞こえた。
影が一つ、北方支部へ向かって高度を落としてくる。
「グレン殿ですね」
やがて、グレン殿が係留場へ降り立った。
翼を畳むと、荷受担当たちが背の荷を下ろし始める。
魔王様が足を止めた。
「おお、グレン。久しいな」
グレン殿が魔王様を見る。
「貴殿も相変わらずだな」
魔王様が笑う。
「ちょうどよい。南西の空について聞きたかったところだ」
荷下ろしが進む中、グレン殿が頷いた。
「その話をしようと思っていた」
エルナが顔を上げる。
「おそらく、次の定期便は無理だ」
「欠航ですか?」
「まだ決めてはいない。だが、今のままなら飛ばさん」
魔王様が頷く。
「やはり、こちらまで来そうか」
「可能性は高い」
グレン殿が、荷を受けている者たちへ目を向けた。
「次の定期便で受け取る予定の荷を、まとめておいてくれ」
近くで荷を受けていた担当者が顔を上げる。
「承知しました」
「急ぐものがあるなら、先に回す」
エルナがグレン殿を見る。
「臨時便を?」
魔王様がグレンを見る。
「無理はするなよ」
グレン殿が空を見上げた。
「風が来る前に飛ぶだけだ」
その担当者が頷いた。
「すぐに一覧に書き出します」
◇
一通り見て回ったところで、魔王様が支部の外へ続く道を見た。
白い外套が、穏やかな風にわずかに揺れる。
「では、そろそろ行くか」
ガレスは近くにいた兵士を二人呼ぶ。
「開門陣まで、陛下をお送りするように」
「はっ!」
二人が姿勢を正す。
魔王様は、その二人を見る。
「お前たちも、盤遊びをやるのか?」
「は、はい」
三人は、支部の外へ続く道を歩き始めた。
「どちらが強い?」
二人が顔を見合わせる。
「……たぶん、こいつです」
「たぶんとは何だ」
魔王様の笑い声が響く。
そのまま盤遊びの話をしながら、白い外套を揺らす魔王様の背中と二人の兵士は、やがて道の向こうへ見えなくなった。
エルナはしばらく、その方向を見ていた。
「……魔王様は、今日は冬季予算の確認に来られたんですよね」
ガレスも同じ方向を見る。
少し間を置いて。
「……そういうことになっております」
中庭にはまだ明るい陽が差し、空は高く、雲も薄い。木々を揺らす風も穏やかで、南西の海から嵐が来るとは到底思えない空だった。




