ep.32 裂陣の戦乙女と引き潮の鉄槌
砦が落ちた。
西側の要だった。
総大将のエルナは、そのまま軍勢を前へ押し出した。
中央では歩兵が進み、右翼から大きく回り込んだ騎馬は、すでに敵陣深くへ入り込んでいる。
「また下がったぞ」
「追うのか?」
周囲から声が上がる。
戦況だけを見れば、明らかな優勢だった。
敵は退いている。
砦を捨てる。
前線を下げる。
奪われた場所を取り返そうともしない。
こちらが進めば、退く。
追えば、さらに退く。
それでも。
崩れない。
エルナは戦場を見渡した。
落とした砦。
前へ出た歩兵。
深く入り込んだ騎馬。
そして、後方まで長く伸びた自軍。
敵は減っている。
こちらは進んでいる。
なのに。
進むほど、自軍は広がっていく。
反対に敵軍は、退くほど狭く、厚くなっていた。
「……なるほど」
エルナが呟く。
敵は、すべてを守ろうとしていない。
失っても構わない場所を捨て、残った兵を集めている。
守る場所を減らすたび、次の防衛線が固くなる。
敵将は、また一隊を下げた。
「すべては、守れませんからね」
静かな声だった。
さらに歩兵が退く。
「必要なものが残れば、それで十分でしょう」
エルナは敵陣を見る。
退いた歩兵。
動かずに残された兵。
外側に残された騎馬。
こちらの進路は、いつの間にか絞られていた。
「あそこ、空いてないか?」
「……わざとか?」
小さな声がした。
エルナは答えない。
空いた場所の先を見ている。
さらに踏み込めば。
敵は反転する。
騎馬が側面へ回る。
前へ出た部隊を後方から切り離す。
罠だった。
だが。
受け切れる。
後方の兵を寄せる。
騎馬を戻す。
切られた戦線を繋ぎ直す。
反撃を凌いだあと、そのまま押し返すこともできる。
最後には。
おそらく、勝てる。
エルナは小さく息を吐いた。
「……私の戦術とは、相性が悪い」
勝てない相手ではない。
罠も見えている。
反撃にも耐えられる。
それでも。
ここまで来る間に失う兵。
かかる時間。
伸びていく補給路。
必要になる兵糧。
その間に、敵へ増援が届くこともある。
勝てる。
だが、その勝利には払うものが多すぎる。
「……本来なら、ここで撤退」
エルナは戦場を見つめた。
退くなら、今だ。
これ以上、この敵に付き合う理由はない。
しばらくして。
口元が、わずかに上がった。
「まあ……今日は最後まで」
エルナが手をかざす。
兵が、また一歩前へ進んだ。
「行った」
誰かが呟いた。
再び戦端が開かれた。
盤の脇に置かれた冷たい茶は、すっかりぬるくなっていた。
◇
少し前。
昼食まで、まだ少し時間があった。
執務室の窓は開いている。
外には、今日も日除け布が張られていた。
冬支度は始まっているのに、今年の暑さはまだ居座っている。
そして執務室には、今日も盤が持ち込まれていた。
エルナがこの盤遊びに加わったのは、夏の初め。
午後の予定が何もなかった、あの日だった。
それから、いつの間にか。
昼食前に一局。
そんな習慣ができていた。
午前の仕事が一段落する頃になると、早朝からの勤務を終えた兵や、ちょうど手の空いた者が盤を抱えてやってくる。
一人が座る。
何人かが見る。
そして、昼食までには終わる。
最近はだいたい、そんな流れだった。
今日も盤の周りには兵士が集まっている。
一人がエルナの向かいに座り、その後ろにも何人か。
扉の近くにも二人いる。
支部長の執務室だったはずだが、昼前だけは少し違う場所になった。
俺はいつもの机の上にいる。
俺にとっては、何も変わらない。
木の駒が乾いた音を立てた。
しばらくして。
「……参りました」
向かいの兵士が肩を落とした。
「ありがとうございました」
エルナが頭を下げる。
また勝った。
長く粘る者はいた。
途中まで押す者もいた。
だが、少なくとも俺が見ているところでは、まだ誰も勝っていない。
「今日は早かったな」
後ろから声がした。
負けた兵士が席を立つ。
エルナは取った駒を元へ戻していった。
普段は書類を前に悩むことも多い。
だが、盤の前では迷う時間が短い。
そのとき。
一人の兵士がガレスを見る。
「副官殿」
書類を確認していたガレスが顔を上げた。
「何でしょう」
兵士は盤を見る。
「そろそろ、機会じゃないですか」
ガレスの手が止まった。
エルナも顔を上げる。
「機会?」
別の兵士が首を傾げた。
「あれですよ。最初の頃の」
「ああ」
思い出した者がいたらしい。
「仇討ち」
何の仇なのかは、今でもよく分からない。
だが、俺も覚えている。
エルナが初めて盤の前に座った日。
何人かが続けて負けたあと、兵たちはガレスへ仇討ちを頼んだ。
ガレスは言った。
今日は皆に譲りましょう、と。
そしてエルナは。
「そういえば」
盤の向こうからガレスを見る。
「ガレスさんとも、いつかお願いしますね」
ガレスは少し黙った。
「……覚えておられましたか」
「はい」
エルナは素直に頷いた。
どうやら逃げ道はなくなったらしい。
ガレスは手元の書類を見る。
最後の一枚を閉じた。
「昼食まで、あまりありませんが」
エルナも窓の外を見る。
「まだ、一局くらいなら」
周囲の兵士たちが頷いた。
根拠はある。
いつもなら、それで終わる。
ガレスは盤を見た。
「では、一局だけ」
兵士たちが場所を空ける。
ガレスがエルナの向かいへ座った。
「お願いします」
「お願いします」
駒が並べられる。
歩兵駒。
騎馬駒。
砦駒。
盤の奥には、双方の本陣。
相手の本陣を落とせば勝ち。
もうエルナに動かし方を教える者はいない。
エルナが歩兵駒を一つ進めた。
◇
序盤は、いつも通りだった。
エルナが中央を押す。
騎馬駒が外を回る。
ガレスは受ける。
一つ下がる。
また一つ下がる。
やがて、ガレスの砦駒が盤の外へ出た。
「やっぱり支部長か」
誰かが呟く。
ガレスは取り返しにいかない。
代わりに別の歩兵駒を下げた。
エルナが進める。
ガレスが下がる。
また一つ、場所を明け渡す。
そこで。
エルナの指が少しだけ止まった。
盤全体を見る。
ガレスの後方を見る。
まだ動いていない駒を見る。
「……なるほど」
それから、エルナの手は少し遅くなった。
勝っている。
それは変わらない。
けれど。
いつものようには終わらない。
ガレスは取られた場所を取り返そうとしない。
守る場所を減らしている。
そのぶんだけ、残った場所に駒が集まっていく。
エルナが進むほど。
ガレスの陣地は狭く、固くなった。
エルナが一つ進める。
ガレスは、また一つ下げた。
「すべては、守れませんからね」
盤を見たまま、ガレスが言う。
エルナが顔を上げた。
ガレスは後方に残した駒へ目を向ける。
「必要なものが残れば、それで十分でしょう」
周囲の兵士たちが盤を見る。
エルナも、もう一度盤全体を見た。
ガレスが捨てた場所。
残した場所。
集まり始めた駒。
その外側に、まだ動かしていない騎馬駒。
「……私の戦術とは、相性が悪い」
エルナが小さく呟いた。
ガレスは、それ以上何も言わなかった。
しばらくして。
一か所だけ、不自然に空いた場所ができた。
その先には本陣。
外側には、騎馬駒が残っている。
「あそこ、空いてないか?」
「……わざとか?」
見ていた兵士が小さく話す。
エルナはそこを見た。
長く。
罠らしい。
俺にも、それくらいは分かった。
だが、エルナはすぐには動かない。
盤全体を見たまま、しばらく考えていた。
「……本来なら、ここで撤退」
周囲が静かになった。
やがて。
エルナの口元が、わずかに上がる。
「まあ……今日は最後まで」
歩兵駒へ手を伸ばす。
一つ前へ進めた。
「行った」
誰かが呟いた。
◇
すぐに、ガレスの騎馬駒が動いた。
大きく回り込み、側面へ出る。
エルナは後方の歩兵駒を寄せた。
ガレスが別の歩兵駒を進める。
数手。
前へ出ていたエルナの歩兵駒が一つ、盤の外へ置かれた。
周囲が静かになる。
エルナは騎馬駒を戻した。
ガレスは別の場所から押す。
エルナが受ける。
また数手。
切れかけていた線が繋がった。
今度はガレスの騎馬駒が前へ出ている。
エルナの歩兵駒が進路を狭める。
ガレスが退かせる。
そこへエルナの騎馬駒が回った。
ガレスの指が止まる。
「……そこまで見えていましたか」
エルナは盤を見たまま答えた。
「見えては、いました」
「それでも進まれましたね」
「今日は、盤ですから」
ガレスが小さく頷いた。
反転攻勢は止まった。
だが。
終わらない。
ガレスは守っているだけではなかった。
エルナが少しでも崩せば、その隙から本陣へ道を作ろうとしている。
エルナも、それを許さない。
一つ取る。
一つ失う。
進む。
下がる。
回り込む。
塞ぐ。
いつもなら、とっくに終わっている。
途中から執務室へ来た兵士が、扉のところで足を止めた。
「まだやってるのか」
「まだ」
「どっちが勝ってる?」
少し前から見ていた兵士は、しばらく盤を見た。
「……支部長」
「じゃあ、もう終わる?」
返事はなかった。
◇
長い攻防の末。
ガレスの本陣の前が空いた。
エルナの騎馬駒が入る。
ガレスは盤を見た。
残った駒を見る。
エルナの騎馬駒を見る。
それから。
「……参りました」
周囲から、いくつも息が漏れた。
「勝った……」
誰かが小さく言った。
エルナはすぐには顔を上げなかった。
盤の上を見ている。
取られた駒。
残った駒。
自分の本陣から、ガレスの本陣まで伸びた陣形。
見ていた兵士の一人が口を開いた。
「支部長」
「はい」
「さっき、退くって言ってましたよね」
エルナが顔を上げる。
「本来なら、ですね」
「でも、勝ちましたよね」
「盤では勝ちました」
兵士は盤を見る。
「なら、実際でも勝てるんじゃないですか?」
エルナは盤の外へ出た自分の駒を見る。
「ここまで来るのに、兵を使いすぎています」
少し間を置く。
「時間もかかりました。これだけ深く入れば、補給路も長くなります。兵糧も必要です」
前へ伸びた陣形へ目を向けた。
「その間に、相手へ増援が来ることもあります」
兵士が黙る。
エルナはガレスの本陣を見る。
「盤では、ここを落とせば勝ちです」
それから、自分の駒へ目を戻した。
「でも、本当の戦場なら、そのあともありますから」
「勝てても、退くんですか」
「勝てることと、勝つべきことは別です」
ガレスが静かに頷いた。
「守る側なら、退いていただければ十分です」
兵士の一人が首を傾げる。
「勝たなくても、ですか?」
「実戦であれば、それでこちらの目的は達成です」
別の兵士が盤を見る。
「……あれだけ反撃しておいてですか?」
ガレスは少しだけ考えた。
「勝てるなら、勝ちます」
周囲から笑いが起きた。
その中で。
古参の兵士が盤を見ながら呟いた。
「……なるほどなぁ」
隣の兵が見る。
「何が?」
「いや」
男は盤の上を指した。
「昔の二つ名を思い出しただけだ」
エルナの手が止まった。
ガレスも顔を上げる。
若い兵士が首を傾げた。
「二つ名?」
男はエルナを見る。
「裂陣の戦乙女」
エルナの顔が、少し赤くなった。
「……それ、まだ残ってるんですか」
男は今度はガレスを見る。
「引き潮の鉄槌」
ガレスはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……忘れていただいて構いません」
二つ名を知らなかった若い兵士たちが、にわかにざわついた。
どちらも、ずいぶん格好よく聞こえるらしい。
エルナの顔が、もう少し赤くなる。
ガレスは何事もなかったように駒を片づけ始めた。
古参の兵士は、その様子を見て笑っていた。
そのとき。
誰かの腹が鳴った。
かなり大きな音だった。
全員がそちらを見る。
鳴らした本人も、自分の腹を見る。
「……昼飯」
そこで初めて、誰かが扉の外を見た。
廊下が静かだった。
いつもなら、食堂へ向かう者が行き交う時間。
もう、ほとんど誰も通っていない。
別の兵士が廊下へ顔を出した。
「……まずい」
「何が」
「食堂」
執務室が静かになった。
ガレスが盤の脇を見る。
冷たかったはずの茶。
エルナも見る。
それから、盤の上に残った兵たちへ目を戻した。
「……こちらも兵糧が危ないですね」
今度は、全員が動いた。




