ep.30 夏の終わりに、冬を数える
朝の光が、窓の向こうの石畳を照らしていた。
昨夜使われた長机と椅子が、まだ中庭に並んでいた。
石垣の根元の夜光草も、朝の光の中ではただの草に見えた。
その向こうの訓練場には、日除け布が張られたままだった。
水樽も、いつもの場所にあった。
朝から、もう暑い。
夏はまだ、居座るつもりらしい。
俺はエルナの机の上から、その様子を見ていた。
やがて中庭から、長机を持ち上げる声が聞こえ始めた。
宴の片付けが始まったようだ。
「おはようございます」
エルナが執務室に入った。
「おはようございます」
ガレスが答えた。
「昨夜は、遅くまでありがとうございました」
「こちらこそ」
ガレスは机の上の書類を揃えた。
「少々、飲み過ぎました」
エルナが少し笑った。
「ガレスさんも、そんなことがあるんですね」
「たまには」
エルナは席につき、机の上の書類に目を通した。
急ぎのものはないらしい。
ひと通り確認すると、窓の外へ目を向けた。
中庭では、長机が運ばれ始めていた。
「私も片付けを手伝ってきます」
「分かりました。では、その前に」
ガレスが一枚の書類をエルナの机へ置いた。
『冬季備品 棚卸し予定』
エルナの視線が止まった。
「……冬ですか?」
「はい」
「今日なんですね」
「毎年、月詠の宴の翌日です」
そういえば、前任者の書き込みにもあった。
『月詠の宴の翌日は棚卸し。酒が残っていてもやること。』
わざわざ酒のことまで書いてあるあたり、何かあったのだろう。
エルナが予定表を見た。
「午後から?」
「はい。各倉庫で始めます。冬季備品を中心に、在庫と状態を確認します」
「分かりました。では、それまで中庭に行ってきます」
エルナは俺を抱えた。
◇
中庭へ出ると、長机が二人がかりで運ばれていた。
椅子は重ねて端へ寄せられていた。
軒下には、空になった樽がいくつか並んでいた。
エルナは俺を軒下の机へ置いた。
それから椅子の山へ向かい、二脚を抱えた。
片付けに出ていたのは、今日内勤に回っている者が多いようだった。
作業は進んでいた。
ただ、静かだった。
長机を運ぶ者も、椅子を重ねる者も、必要なことしか喋らない。
途中で手を止め、しばらく動かなくなる者もいた。
空樽は順番に荷車へ載せられていった。
エルツブルクから届いた樽は返却するため、焼印を傷つけないよう扱われていた。
樽だけは、いつもより慎重に運ばれていた。
巡回から戻ってくる兵士の足取りは、いつも通りだった。
一人が中庭の様子を見た。
「なんだなんだ。朝からだらしないな。俺なんか昨日、あんまり飲めなかったんだぞ。ちくしょう」
長机を運んでいた兵士が、ゆっくり顔を上げた。
「静かに叫んでくれ。頭に響く」
エルナが困ったように笑った。
厨房の方から、大きな声が飛んできた。
「空いた箱、こっちへ持ってこい!」
厨房長だった。
昨夜とほとんど変わらない。
近くにいた兵士が、小さく呟いた。
「なんであの人は元気なんだ……」
返事はなかった。
エルナが中庭を見回した。
午後からは、この者たちの何人かも棚卸しに回るのだろう。
片付けは、まだしばらく続きそうだった。
◇
午後。
中庭からは、長机も椅子もなくなっていた。
その向こうの訓練場では、午前の訓練を終えた兵たちが道具を片づけていた。
エルナは俺を抱え、執務室を出た。
ガレスも一緒だった。
午後の棚卸しは、すでに各倉庫で始まっていた。
最初に向かったのは、冬季装備をまとめている保管庫だった。
棚から冬具が下ろされ、種類ごとに並べられていた。
厚手の外套。
冬靴。
手袋。
担当の兵たちは、棚ごとに実数を数え、帳簿と照らし合わせていた。
帳簿を取りに戻る者や、棚の前でしばらく手を止める者がいた。
エルナが並べられた冬具を見た。
「早いですね。この前、回収したばかりな気がするのに」
セルディンが振り返った。
「毎年こんなものです。しまったと思ったら、次に出す準備が始まります」
「まだこんなに暑いのに」
セルディンは帳簿を開いた。
「冬は待ってくれませんから」
エルナが外套の列を見た。
「数を合わせるだけではないのですね」
「はい。修繕に出したものが戻っているか、記録と数が合っているか。見落とした傷みも確認します」
その向こうから、一着の外套が持ち込まれた。
袖口が裂けている。
修繕札はついていなかった。
セルディンが帳簿を確認する。
「修繕記録にはないな」
「春の時に見落としたのでしょうか」
エルナが尋ねた。
「おそらく」
セルディンは新しい札をつけた。
「こういうものもあります」
別の棚では、兵士が手袋を二つ見比べていた。
どちらも右手だった。
左手は、別の箱を探しても見つからなかったらしい。
「不足一組で」
セルディンが言った。
右手袋が二つ、脇へ置かれた。
エルナがそれを見送った。
「どうして右だけ二つ残るのでしょう」
「毎年、何かしらあります」
理由にはならない気がする。
棚卸しは続いていた。
◇
次に向かったのは、魔導具の保管区画だった。
こちらでも、棚から道具が下ろされていた。
携行灯。
小型の暖房具。
予備の蓄熱魔石。
卓上には帳簿と札が並んでいた。
一人の女性が、小型の魔導具を手に取っていた。
ガレスが声をかけた。
「アリーシャ」
女性が顔を上げた。
「はい」
魔導具担当のアリーシャ。
名前と顔が、ようやく一致した。
そういえば、昨夜の中庭にもいた。
長机の向こうで、両隣の兵士を相手にずっと何かを喋っていた女だ。
今とは、ずいぶん様子が違う。
今日は口数も少なく、少し顔色が悪かった。
アリーシャは手元の暖房具を裏返した。
表面の刻印を指でなぞった。
途中で手を止め、眉間を押さえた。
「大丈夫ですか?」
エルナが尋ねた。
「仕事には支障ありません」
昨夜は、かなり楽しそうだった。
なるほど。
酒を飲むと性格が変わる方らしい。
アリーシャは何事もなかったように、暖房具へ目を戻した。
「これは再刻印ですね」
「使えないのですか?」
「今は使えます」
刻印の一部を指した。
俺には、ほとんど違いが分からない。
「ただ、このまま冬を通すのは難しいと思います」
『再刻印』と書かれた札がつけられ、暖房具は別の箱へ移された。
「使えるうちに直すんですね」
「冬の途中で止まる方が困りますから」
エルナが頷いた。
隣では、別の担当が蓄熱魔石を数えていた。
帳簿上の予備は二十。
棚にあるのは十八。
残り二つは整備に出ていた。
数字が合うと、アリーシャが帳簿に印を入れた。
その向こうでは、一度数えた箱をまた開けている者がいた。
「それ、さっき数えてなかったか?」
「……数えた気がする」
「もう一回やっとけ」
「そうする」
箱の蓋が、また開いた。
◇
倉庫を出ると、石畳にはまだ昼の熱が残っていた。
訓練を終えた兵士が、日除け布の下へ入っていった。
木の杯に水が注がれた。
エルナが足を止めた。
「日除け布は、まだ外さないのですよね」
「ええ」
ガレスも訓練場を見た。
「水樽も、このままです」
エルナは倉庫の方を振り返った。
「冬のものを数えながら、夏のものも使うんですね」
「今は、どちらも必要です」
ガレスはそれだけ答えた。
中庭を抜けて、執務室へ戻った。
◇
西日が、執務室の床を長く照らしていた。
エルナの机には、棚卸しの途中経過が届いていた。
不足や修繕、再刻印の欄には、書き込みが増えていた。
まだ雪はない。
霜さえ降りていない。
エルナが書類を読み終えた。
それを机に置き、俺を開いた。
ちょうどよかった。
俺は一文だけ書いた。
『棚卸しを月詠の宴の翌日に行う理由はありますか。』
エルナが読んだ。
「……確かに」
ガレスも目を向けた。
「毎年そうしていますが、理由までは残っていませんね」
「昔から、というだけでしょうか」
「調べてみます」
それなら、一度見直してもいいのかもしれない。
そこで、ふと思った。
いや。
そもそも、翌日に残るほど飲むなと書くべきだったか。
だが、もう遅い。
書き直せない。
明日にでも追記するか。
いや、そこまですることでもないか。
そもそも、宴の翌日を棚卸しの日にしなければ済む話かもしれない。
それとも、毎年この日にやる理由が本当にあるのだろうか。
前任者は知っていたのか。
あの書き方を見る限り、知っていたようにも、知らなかったようにも見える。
まあいいか。
ガレスが調べてくれる。
窓の外では、訓練場の日除け布が夕方の風を受けていた。
水樽も、まだいつもの場所に置かれていた。
西の空には夏の明るさが残っていた。
石畳に落ちた影だけが、少しずつ長くなっていた。




