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ep.29 ラガーは、竜の背に乗って

午後の日差しは、まだ夏の強さを残していた。


中庭には日除け布が張られたままで、その下では訓練を終えた兵が水樽の蛇口をひねっている。


石壁の際に伸びた草が、風に揺れていた。


夜光草も混じっているはずだが、昼の光の中では見分けがつかない。


山から吹き下ろす風だけが、季節の変わり目を知らせていた。


執務室では、仕事が一段落したところだった。


エルナが茶を淹れた。


俺は机の端に置かれていた。


茶器を手に取ったエルナの視線が、向かいの机で止まった。


ガレスの机の端に、一冊の綴りが置かれていた。


『月詠の宴 準備状況報告書』


「そういえば、数日前におっしゃっていましたね」


「はい」


エルナは茶を一口飲んだ。


「拝見しても?」


「もちろんです」


ガレスが報告書を差し出した。


月詠の宴。


夏の終わり、満月の夜に酒と料理を囲む北方支部の恒例行事らしい。


勤務は通常通り続くため、参加する者は交代で顔を出す。


そう、数日前にガレスから聞いていた。


春の花見も、同じだった。


勤務を止めず、交代で中庭へ出る。


あの時、厨房長が最初に酒の有無を確認した理由が、ようやく分かった。


エルナが報告書をめくる。


会場設営から厨房、勤務交代まで、それぞれの欄に担当と進み具合が書き込まれていた。


準備は、ずいぶん前から始まっていたようだ。


「……中庭?」


エルナの指が止まった。


ガレスが顔を上げた。


「今年は中庭です」


「例年もですか?」


「例年は食堂ですね」


「では、なぜ今年は?」


ガレスはひと呼吸置いた。


「花見で味をしめたのでしょう」


「……なるほど」


今度は、花見の方が前例になったらしい。


エルナが次の頁を見る。


酒類。


いつものエールが大樽二つ。


北方支部で仕込んだ麦酒が大樽二つ。


そして、


『エルツブルク産麦酒 大樽二』


「花見の時にも、支部で仕込んだものが出ていましたね」


「ええ。あれは試し仕込みの小樽です」


「こちらは?」


「月詠の宴用です。毎年二樽仕込んでいます」


エルナがもう一度、数字を見る。


「二樽も」


「例年です」


ガレスは平然としていた。


参加する時間はそれぞれ違うが、延べではかなりの人数になる。


それでも、酒の量は少なくない気がする。


「皆さん、ずいぶん行事がお好きなのですね」


「酒を飲む理由には困らないようです」


ガレスが報告書を受け取った。


エルナは残っていた茶を飲んだ。


         ◇


翌日、エルナは、ガレスの荷受けに同行した。


俺も一緒だった。


裏庭の発着場には、荷役の兵が待っている。


やがて上空から翼の音が聞こえた。


影が石畳を横切る。


グレン殿だった。


大きな翼が畳まれる。


「ありがとうございます、グレン殿」


エルナが声をかけた。


グレン殿は低く頷いた。


荷が順番に下ろされていく。


木箱や麻袋、書簡の束。


最後に、大きな樽が二つ。


樽の側面には、獅子の焼印が入っていた。


ガレスが荷札を見る。


「エルツブルクですね」


エルナがそちらを見た。


ガレスは荷札と数量を確認し、受領票へ記入した。


樽は一つずつ荷車へ載せられた。


「冷所へ運びます」


荷役の兵たちが荷車を押し、食堂裏へ向かった。


エルナとガレスも、その後を歩く。


冷所では、ボルグが待っていた。


運び込まれた樽を順番に確かめる。


荷札。


封。


樽の傷。


「二樽。問題ありません」


受け入れの記録をつける。


そこへ厨房長がやってきた。


エルツブルクの樽を一度見てから、ボルグへ尋ねる。


「支部の二つは?」


「問題ない。冷えてる」


「そうか」


厨房長はそれだけ聞くと、厨房の方へ戻っていった。


エルナがその背中を見送る。


「楽しみにしていらっしゃるのでしょうか」


「おそらく」


ガレスが答えた。


エルナは冷所に並んだ樽へ目を向けた。


         ◇


満月の日。


朝から、支部のあちこちに宴を待つ気配があった。


正門では、いつも通り人の出入りを確認している。


巡回班も決められた時間に出発した。


訓練も書類仕事も、普段と変わらず続いている。


それでも、窓の外を見る者がいつもより多かった。


空を見る者。


正門棟の時計を見る者。


厨房の前で足を緩める者。


エルナも気づいたらしい。


「今日は、皆さん落ち着きませんね」


「月詠の宴ですから」


ガレスは書類から顔を上げずに答えた。


勤務表も交代表も、とうに出来上がっている。


誰がいつ中庭へ出るのかも、その後に勤務のある者が酒を飲まないことも、すでに決まっていた。


今さら表の前で一喜一憂する者はいない。


廊下をすれ違った兵士が、連れに声をかけた。


「俺は第二組からだ」


「じゃあ先に行ってる」


「麦酒、残しておけよ」


「自分の分は自分で確保しろ」


それだけ言って、それぞれの持ち場へ戻っていった。


昼を過ぎても暑さは残った。


日除け布の下では、水樽がいつも通り使われている。


夏は終わるらしい。


暑さの方には、まだその気がないようだった。


日が傾き始めると、エルナは俺を抱えて中庭へ出た。


長机と椅子が運び込まれている。


角灯や水樽も、決められた場所へ置かれていった。


春の花見を思い出す。


ただ、今回は誰も迷っていない。


机の並べ方も、料理を置く場所も、通路の空け方も決まっている。


厨房から料理が運ばれてきた。


焼いた肉や夏野菜。


パンと芋料理。


その中に、赤茶色の香辛料をまとった山羊肉の大皿があった。


焼けた脂と香辛料の匂いが、中庭へ広がる。


近くにいた兵士が鼻を動かした。


「これ、あの時の香りじゃないか?」


大皿を運んできた厨房の者が笑った。


「厨房長、あの日からずっと試してましたもんね」


「余計なことを言うな」


厨房長が次の皿を置いた。


「何回、試食しましたっけ」


「三回じゃないか?」


「四回だ」


「酒に合う料理が必要だっただけだ」


厨房長は空になった盆を持ち上げた。


厨房の者たちが笑った。


離れたところで、カイルが大皿を見ていた。


厨房長は何も言わず、厨房へ戻っていった。


日が沈んだ。


角灯に火が入った。


エルナは俺を軒下の机へ置いた。


杯や水差しからは距離がある。


中庭は、ここからほとんど見渡せた。


冷やされていた樽が運び込まれた。


最初に来たのは、獅子の焼印が入った一樽だった。


栓が開けられる。


淡い金色の麦酒が木の杯へ注がれ、白い泡が盛り上がった。


勤務を終えた者には麦酒。


このあと勤務のある者には果実水や香草茶。


それぞれの杯が行き渡ったところで、一人の兵士がエルナを見た。


「支部長、ひと言お願いします」


エルナが目を丸くした。


「……私ですか」


「せっかくですから」


周囲から笑いがこぼれた。


エルナは困ったように笑い、それから空を見上げた。


雲のない夜空に、大きな月が浮かんでいる。


「では……今年も、この月の下で夏を越せたことに感謝を」


「まだまだ暑いですが」


どこかから声が飛んだ。


笑いが広がった。


エルナも笑った。


「……そうですね。まだまだ暑いですが」


もう一度、満月を見る。


「それでも、ここまで無事に過ごせたことに」


杯を持ち上げた。


「乾杯」


「乾杯!」


麦酒と果実水、香草茶。


中庭のあちこちで杯が触れ合った。


エルナも麦酒を一口飲んだ。


目がわずかに開く。


「……いつものエールとは、ずいぶん違いますね」


「ええ」


隣でガレスも飲んでいる。


エルナがそちらを見た。


「お好きなのですか?」


「ええ」


返事が早かった。


そのまま、もう一口飲んだ。


乾杯が済むと、中庭はすぐに騒がしくなった。


「今年のもいいな」


「肉、そっちに回してくれ」


あちこちで皿と杯が動き始める。


「それ辛いやつだぞ」


「だから取ってるんだよ」


山羊肉の大皿が長机を渡っていった。


一人が肉を頬張り、噛んでから麦酒を飲んだ。


手がまた皿へ伸びた。


「これ、合うな」


「だろ?」


答えたのは厨房の者だった。


「お前が作ったみたいに言うな」


厨房長の声が飛んできた。


また笑いが起きる。


別の机では、空になった皿が持ち上げられた。


「厨房長、こっちもうないぞ!」


「次を出せ!」


「もう出してます!」


「じゃあ焼け!」


「焼いてます!」


厨房長の声だけは、酒が入る前から変わらなかった。


離れた机では、いつものエールの樽も開いている。


エルツブルクの麦酒を飲んだあとで、飲み慣れたエールへ戻る者もいた。


第一組が中庭を離れる頃には、第二組が入ってきた。


「まず食え」


「麦酒は?」


「そっちだ」


新しい杯が並んだ。


乾杯はもう済んでいるはずなのに、別の机ではまた杯が上がる。


「第二組に!」


「乾杯!」


それで十分らしい。


顔ぶれは入れ替わっているのに、中庭は静かにならなかった。


やがて、北方支部で仕込んだ麦酒の樽も開けられた。


杯に注がれた色も、立つ香りも違っている。


「いつものエールとは、全然違うな」


「こっちの方が軽い」


別の兵士は、エールの杯を持ったままだった。


「俺はエールの方が好きだな」


ガレスが杯を持ったまま答えた。


「好きな方を飲めばいいですよ」


「副官は?」


「どちらも飲みます」


「それは知ってます」


近くで笑いが起きた。


支部仕込みの麦酒を飲んでいた兵士が、自分の杯を見た。


「こっちは麦の味が強いな」


「エルツブルクの方が軽い」


「俺はこっちだ」


「じゃあ俺は向こう」


それぞれが好きな樽へ杯を持っていった。


エルナの杯も、二度、三度と満たされていた。


顔色は変わらない。


声も普段のままだ。


ただ、よく笑っている。


ガレスの杯も三度目だった。


こちらも顔色はほとんど変わらない。


代わりに、話が長くなった。


兵士の一人が、エルツブルクの麦酒が入った杯を見る。


「でも、どうしてこんなに味が違うんです?」


ガレスが杯を置いた。


「製法が違います」


「製法?」


「まず、大麦を発芽させます」


近くの兵士が顔を向けた。


「そこからですか?」


「そこからです」


ガレスは続けた。


「発芽させた大麦を乾かして麦芽にする。それを砕き、温めた水と合わせます」


「そこから煮るんですか?」


「ええ。その液を分けてから、苦味花を加えて煮ます。苦味と香りをつけるためですね。その後、素早く冷やして酵母を入れる」


「いつものエールも?」


「そこまでは大きく変わりません。ただ、使う酵母と発酵させる温度が違います」


ガレスがエールの杯を示した。


「エールは、もう少し高い温度で発酵させます。発酵も比較的早い」


今度は、もう一方の杯へ目を向ける。


「こちらは、低い温度でも働く酵母を使います。低温を保ったまま、時間をかけて発酵させます」


「発酵が終わっても、すぐには出しません。さらに低温で置いて、味を落ち着かせます」


ガレスは杯を持ち上げた。


「そうして作られる麦酒」


一拍置く。


「その名を――ラガーといいます」


ガレスの周りだけ、妙に静かになった。


一人の兵士が杯を持ち上げた。


「では、今年もラガーが飲めることに感謝を」


「乾杯!」


近くの杯が、また上がった。


ガレスもそのまま杯を傾けた。


しばらくすると、また口を開く。


「それと、水の違いも大きいですね」


「水?」


「麦酒は大半が水ですから。支部の井戸水と、エルツブルクで使っている水では――」


「副官」


「はい」


「飲みましょう」


「そうですね」


ガレスは素直に杯を傾けた。


離れた長机の向こうで、カイルが泣いていた。


厨房長が隣に立ち、何かを言いながら肩を叩いている。


周りでは、厨房の連中が笑っていた。


ここからでは、何を話しているのかまでは聞こえない。


カイルは酒を飲むと泣く方なのだろうか。


宴が進むにつれ、交代のたびに顔ぶれが変わった。


食べ終えた者が中庭を離れると、入れ替わるように次の者が席につく。


話の輪だけは途切れなかった。


厨房長も最後の皿を出し終えると、自分の杯を持った。


エルナは相変わらず普通に座っていた。


その隣で、ガレスが誰かに説明していた。


「支部の井戸水はですね――」


もう誰も止めなかった。


満月は、夜空の高いところまで上がっていた。


エルナがふと石垣の方を見る。


「あ」


近くにいた兵士も振り返った。


石垣の根元。


昼間なら、ただの草にしか見えない場所に小さな光があった。


青白い光の中に、淡い緑や紫が混じっている。


夜光草だった。


細い茎を光が上り、葉の筋を通って、小さな花に集まっている。


「咲きましたね」


エルナが言った。


兵士が頷く。


「ここのは、少し遅いんですよ」


二人とも、しばらくそこを見ていた。


その向こうでは、まだ笑い声が続いていた。


杯の触れる音や椅子を引く音に、厨房と中庭を行き来する足音が混じっていた。


         ◇


宴が終わる頃には、夜もかなり更けていた。


食べ物と使い終えた杯が先に片づけられ、開いた樽には栓が戻された。


角灯も、必要なものだけを残して消されていった。


長机と椅子は、月明かりの下に残された。


本格的な片付けは朝になってかららしい。


石垣の根元では、夜光草の小さな光がまだ揺れていた。


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