ep.28 夜光草が咲く頃に
午後の日差しは、まだ強かった。
中庭の石畳には白い光が落ち、日除け布が風を受けてゆっくり揺れている。
軒下には乾かされた装具が並び、その向こうの山の斜面は、昼の光の中ではいつもと変わらなかった。
それでも、吹き抜ける風には少しだけ夏の終わりが混じり始めていた。
執務室では、エルナがここ数日の夜間巡回記録を眺めていた。
一枚めくる。
その次も見る。
「……あれ?」
ガレスが顔を上げた。
「どうしました?」
「ここ数日、北側巡回の帰着が少し遅くなっていませんか」
エルナが二枚の記録を並べる。
出発は、ほとんど同じだった。
遅れているのは帰りだけだ。
ガレスが記録を見る。
「夜光草でしょうね」
「夜光草?」
「そろそろ見頃です」
エルナはもう一度、巡回記録を見た。
「巡回に影響が出るのですか?」
「確認しておきましょう」
◇
日が少し傾いた頃。
エルナとガレス、それにカイルが北側の巡回路へ向かった。
俺も一緒だった。
正門を出て、街道を北西へ少し進む。
そこから支部の北側へ折れる細い道へ入った。
林際を回り、小さな尾根を一つ越える。
支部からは見えない斜面に、背の低い草がまとまって生えていた。
エルナが足を止める。
「これですか?」
「これです」
カイルが答えた。
細い葉。
伸びた茎の先には、小さな花がついている。
「……普通ですね」
「昼はこんなもんですよ」
カイルがしゃがみ込む。
「支部の中にも、ところどころ自生してますよ。多くはないですけど」
「そちらも光るのですか?」
「花がつけば。支部の中のは、まだですね」
エルナも草を見る。
「花が光るのですか?」
「花だけじゃないですよ」
カイルが一本を指した。
「花がつくと、地中のマナを吸い上げるんです。根から茎を通って、葉の筋にも回って、それが最後に花へ集まる」
「では、その途中も?」
「光ります」
エルナは細い葉を見直した。
昼の光の下では、どこにもそんな気配はない。
「色も同じなのですか?」
「いや。株でも違いますし、この辺りのマナでも変わるらしいですよ。研究所なんかじゃ、わざと植えて調べるそうです。土地のマナを見るんだとか」
カイルは立ち上がった。
「俺にはそこまで分かりません」
ガレスが斜面の下を見る。
巡回路の端に、いくつか踏み跡があった。
花を避けるように、道が少し外へ膨らんでいる。
「これですね」
「踏まないようにしてるんでしょう」
カイルが言った。
「この時期だけ、少し外を回ってます」
「警戒範囲は?」
エルナが尋ねる。
「変わりません」
ガレスが周囲を見る。
「数歩のことです。このままで問題ないでしょう」
巡回路の端には、小さな目印の杭を立てることになった。
花の多い場所へ入らないようにするだけだ。
帰る前に、エルナはもう一度、夜光草を見る。
明るいうちは、まだ何も分からなかった。
◇
日が落ちた。
正門棟の当直所では、大きな振り子時計が静かに時を刻んでいる。
夜番の小鐘が鳴る頃、北側巡回の兵たちが正門前に集まっていた。
その夜、エルナは巡回に同行することにした。
俺はエルナの腕の中にいた。
兵士の一人が、角灯を確かめてから尋ねる。
「支部長、灯りはお持ちですか?」
「ああ、それなら……」
エルナは片手を肩の高さまで上げ、掌を上に向けた。
白い光が一つ、その掌の上に生まれた。
光はゆっくりと手を離れ、エルナの頭上まで上がる。
そのまま数歩先へ進んだ。
兵士が目を丸くする。
「……そのまま動かせるんですか?」
「はい」
光が静かに宙で止まる。
「俺なら、魔道具を使わないと到底無理ですよ」
エルナは軽く微笑んだ。
「慣れれば簡単ですよ」
巡回が始まった。
まず街道側を確認する。
人影はない。
荷車の轍も、昼間から増えていなかった。
北側の細い道へ入る。
林際では、エルナの光が低く下がった。
木の根が張り出した場所では足元を照らし、そこを越えるとまた少し前へ出た。
斜面の手前まで来たところで、先頭の兵士が止まった。
「支部長」
「はい?」
「その灯り、もう少し暗くできますか」
「あ、はい」
白い光がすぐに弱まった。
角灯を持っていた兵士も、覆いを少し閉じる。
暗さが戻る。
その先で、斜面が光っていた。
エルナが足を止めた。
花だけではない。
茎を細く上る光がある。
葉には、筋に沿って淡い光が走っていた。
それが先端へ集まり、小さな花を灯している。
青白いものもあれば、淡い緑を帯びたものもある。
その中に、紫や琥珀に近い光がわずかに混じっていた。
一株ずつの光は弱かった。
その光が、斜面の一角にまとまっている。
誰も、すぐには歩き出さなかった。
やがて兵士が小さく呼ぶ。
「支部長」
「あ……はい」
エルナが歩き出した。
巡回路は昼間決めた通り、斜面から数歩離れている。
白い光は弱いまま、その先を照らした。
北側の見張り所を確認する。
異常はなかった。
外周を回り、戻りの道へ入る。
途中、もう一つ夜光草の多い場所があった。
今度は、斜面の向こうまで淡い光が続いていた。
光の色も、さっきとは少し違っている。
エルナが止まる。
隣の兵士も止まった。
誰も何も言わない。
しばらくして、エルナが先に口を開いた。
「……そろそろ行きましょうか」
「はい」
夜風が斜面を渡った。
夜光草の淡い光が、草葉と一緒にゆっくり揺れた。
◇
翌朝。
執務室では、ガレスが前夜の北側巡回記録を見ていた。
「いつもより少しかかりましたね」
エルナも記録をのぞき込む。
「……やはり、巡回路を外へずらした分でしょうか」
ガレスが顔を上げた。
小さく息をつく。
「それだけではなさそうですね」
エルナは困ったように笑っていた。
俺が開かれる。
エルナがペンを取った。
俺は一文だけ残した。
『夜光草の見頃には、北側巡回を急がせないこと。』
エルナはその一文を見る。
「……そうですね」
窓の外では、朝の日差しが中庭の石畳へ落ちていた。
石垣の根元には、夜光草が何株か混じっている。
まだ、花はついていない。
風が通り抜ける。
細い葉だけが、静かに揺れていた。




