ep.27 夏に負けないように
午後の日差しが、中庭を白く照らしていた。
日除け布の下に置かれた水樽のまわりを、訓練を終えた兵たちが行き来している。
風は入ってくる。
それでも、涼しいとは言いにくかった。
今年の夏は、まだ長そうだった。
執務室の扉が叩かれた。
「失礼します」
カイルが入ってきた。
手には、すでに開けられた小さな包みと、一通の手紙を持っている。
「どうしました?」
「さっき、グレン殿の定期便で届いたんですが」
包みを机の上へ置く。
「兄貴からです」
「お兄様から?」
「はい。南方で貿易商をやってます」
包みの中には、小さな袋がいくつか収められていた。
どの袋からも、同じ馴染みのない香りがした。
「この前の行商で山わさびの漬物を見つけたんで、兄貴が好きだったなと思って送ったんです。そのお返しです」
カイルが手紙を広げた。
「この前の荷、届いた。久しぶりに北のものを食べた。懐かしかった。ありがとう、って」
わずかに笑う。
続きを読む。
「返しに、こっちの香辛料を送る。今年は北もずいぶん暑いと聞いた。暑い時は食欲も落ちる。こういうものなら食べやすいだろう」
エルナが机の上の袋を見る。
「夏に負けないよう、支部の皆さんでどうぞ」
「それは、ありがたいですね」
「まだあります」
カイルが手紙へ目を戻した。
「そっちじゃ全部は揃わないだろうから、何種類か混ぜてある」
もう一行。
「家に帰った時に作っていたやつだ。使い方はわかるな?」
カイルが黙った。
エルナが見る。
「分かるのですか?」
「食べたことはあります」
間があった。
エルナは袋と手紙を見比べた。
「……支部の皆さんで、ということは、これは寄付になるのでしょうか」
ガレスが口を開いた。
「経理局にも確認しますか?」
エルナの肩が、わずかに上がった。
ガレスはそれを見て言った。
「受領したことだけ残しておけばよいでしょう」
「……そうですか」
「今回は」
エルナの肩が戻った。
香辛料はいったん食品庫を通し、厨房へ回すことになった。
「私も見に行ってよいですか?」
カイルはうなずいた。
◇
食堂には、遅い休憩に入った兵がまだ何人か残っていた。
昼食の山は、もう越えている。
厨房では遅い昼食への対応を続けながら、厨房の者たちも順番に休憩を取り、残った者が夕食の下ごしらえを始めていた。
作業台には、今夜使う山羊肉と芋、玉ねぎ、それに夏野菜が並んでいる。
厨房長が香辛料の袋を手に取った。
手の空いた者が、珍しそうにそちらへ目を向けた。
エルナは邪魔にならない場所に立ち、俺は配膳口の脇、水の飛んでこない棚へ置かれた。
厨房長は、まずカイルから料理の形を聞いた。
肉と芋と玉ねぎを使った煮込み。
肉は赤身で脂が少なく、骨はない。煮込むと柔らかくなったという。
作業台を見る。
「山羊の肩でいけるな」
芋を一つ手に取った。
「これは煮崩れしにくい。玉ねぎは多めだな」
ほかの具について聞かれると、カイルは考えた。
「作る時期によって違ってました」
夏には夏の野菜。
冬には根菜。
厨房長は短くうなずいた。
「旬のものを使ってたんだな」
今夜使う予定だった野菜を見渡し、いくつか選んでいく。
「お兄様も、こんなふうに作っていたのですか?」
エルナが聞いた。
「作ってるところは、あんまり見てません」
「そうなのですか?」
「食べる方に夢中だったんで」
厨房の端で笑い声がした。
炊いた米にかけたり、パンにつけたりして食べていたらしい。
厨房長はうなずき、鍋へ向き直った。
まずは小鍋だった。
今夜の煮込みに使う予定だった材料から、少しずつ取り分けていく。
肉が切られ、鍋に火が入る。
表面を焼いた肉を一度上げ、その鍋で玉ねぎを炒める。
火の通りにくい野菜から順に加え、芋はあとに回された。
小鍋が煮えるのを待つ間も、厨房の仕事は止まらない。
遅い昼食の器が下げられ、洗われていく。
休憩へ出る者と戻ってくる者が入れ替わり、作業台では今夜の煮込みの下ごしらえが進んでいた。
やがて肉が柔らかくなり、野菜にも火が通った。
火を落とす。
「カイル。ここからだ」
香辛料の袋が開かれた。
強い香りが、一気に厨房へ広がった。
まずは少量。
混ぜて、煮る。
カイルが小皿で味を見る。
「まだ違います」
もう少し加える。
近くにいた者にも小皿が回る。
辛さも増す。
一人が黙って水を飲んだ。
それでもカイルは首を横に振った。
少し加える。
また煮る。
味を見る。
それを何度か繰り返した。
「近いです」
鍋の色は、いつの間にか濃くなっていた。
最初とはまるで違う香りが、厨房いっぱいに広がっている。
何度目かの味見だった。
カイルが小皿を口へ運ぶ。
今度は、すぐに顔を上げた。
「……これです」
「これか」
「はい」
カイルはもう一口食べた。
口元が緩む。
「兄貴が帰ってきた時に、作ってくれたやつです」
厨房長も小皿を取った。
一口。
しばらく黙る。
「……アレを出すか」
横で味見していた一人が、強くうなずいた。
「ですが……満月までは、まだ少しありますよ」
手が止まった。
小鍋を見つめる。
それから、邪念を振り払うかのように頭を振った。
アレが何かは分からない。
厨房長の顔を見る限り、かなり魅力的な組み合わせらしい。
「よし。今夜はこれでいく。大鍋を出せ」
「肉と野菜は予定通りだ。玉ねぎは増やせ」
返事が飛ぶ。
「米は今ある分を全部炊け。パンも多めに焼け。水も冷やしておけ」
「今日は忙しくなるぞ」
「では、夕食を楽しみにしています」
エルナが言った。
カイルも一緒に厨房を出ていく。
俺は棚に残された。
◇
今夜のために仕込まれていた肉と野菜が、そのまま大鍋へ回されていった。
香辛料は一度には加えない。
小鍋の味を追いながら、途中で何度も確かめていく。
その傍らでは米が炊かれ、パンの準備も進んでいた。
水差しも、いつもより多く並べられていく。
厨房の窓から差し込む光は、まだ明るかった。
ただ、床に落ちる窓枠の影は、いつの間にか長く伸びていた。
大鍋から上がる湯気が、厨房の中を流れていく。
最後の味を見る。
短くうなずいた。
残った香辛料を指す。
「そっちは食品庫へ戻しておけ」
やがて配膳口の向こうに、人が集まり始めた。
夕食の時間だった。
◇
大鍋の中身が、次々によそわれていく。
炊いた米の上にかける者もいれば、パンを添える者もいる。
いつもの食事とは、匂いからして違った。
人の流れの中に、カイルの姿があった。
少し遅れて、エルナとガレスの姿も見えた。
あちこちで、匙が口へ運ばれた。
しばらくして、声が上がった。
「……辛い」
一人が水を取りに立つ。
その後ろに、また一人。
給水の前に列ができた。
わさびとは違う。
鼻ではなく、口が熱い。
そんな声があちこちから聞こえる。
エルナも水を一口飲んだ。
額に汗が浮いていた。
「かなり辛いですね」
「無理をなさらなくても」
ガレスが言う。
「でも、おいしいです」
エルナはまた一口食べた。
やがて、別の場所にも列ができ始めた。
「……あちらは?」
「おかわりでしょう」
鍋の前だった。
水の列。
おかわりの列。
両方に並んでいる者もいる。
「辛い」
「ならやめろよ」
「いや、もう一杯」
厨房から笑い声がした。
米もずいぶん減っていた。
パンを取りに行く者も絶えない。
厨房長は、水の列と鍋の列を交互に見ていた。
カイルは、その騒ぎの中でゆっくり食べている。
「カイル」
エルナが声をかけた。
「懐かしい味ですか?」
カイルは器を見た。
「はい」
それだけ言って、また食べた。
食事を終えたエルナが、席を立つ前にもう一度カイルを呼ぶ。
「このあと、少しだけ執務室へ寄っていただけますか」
「分かりました」
◇
食堂から人が減った頃、エルナが厨房へ戻ってきた。
棚の上の俺を見て、足が止まる。
それから、俺を持ち上げた。
「……忘れていたわけではありませんよ」
俺は執務室へ戻された。
ほどなくして、扉が叩かれる。
「失礼します」
カイルだった。
エルナは机の端にあった便箋の包みから、一枚抜き取った。
縁に細い模様が入っている。
「よろしければ、これを」
カイルが目を落とした。
「……いいんですか?」
「お礼を、お伝えください」
しばらく黙っていた。
それから、両手で受け取る。
「ありがとうございます」
一礼し、便箋を折らないように持って執務室を出ていった。
窓の外は、もう暗かった。
中庭には灯りがいくつか残り、食堂の方からは片づけをする音が聞こえている。
開いた窓から入る風にも、昼の熱がまだ残っていた。
空には、まだ満ちきらない月が浮かんでいた。
南から届いた香りは、まだ廊下に残っていた。




