ep.26 門の此方に、商いあり
交換訓練から戻って、数日が過ぎた。
報告書の提出も終わった。
出張経費の精算も済んでいる。
ラメールから持ち帰った荷も、それぞれの場所へ戻った。
数日前まで机の上を占領していた書類の山はなくなり、執務室もいつもの様子に戻っていた。
窓は開いている。
外から、訓練場を行き来する兵たちの声が聞こえた。
夏の日差しは、ラメールへ出発する前より強くなった気がする。
エルナは机の上を見回した。
急ぎの書類はない。
何を見るともなく、端に置かれていた勤務表を手に取った。
門衛。
巡回。
訓練。
宿直。
何枚かめくる。
一枚のところで、指が止まった。
「……多いですね」
その日だけ、交代の印がいくつもある。
休憩時間を入れ替えた者もいた。
前の日を見る。
次の日も見る。
そこまで多くない。
やはり、その日だけだった。
エルナが顔を上げる。
ガレスの席は空いている。
今日は休暇だった。
勤務表へ視線を戻す。
理由までは書いていない。
エルナがそれを机へ置いたところで、扉が叩かれた。
「支部長」
受付の兵士だった。
「お客様です」
「私にですか?」
「はい。行商人だそうです。ご相談があると」
「行商人?」
「街道馬車の待合所に来る者です」
エルナが少し考える。
「応接室へお願いします」
◇
正門棟の応接室には、一人の男が座っていた。
日に焼けた顔。
使い込まれた上着。
足元には大きな鞄が置かれている。
エルナが入ると、男はすぐに立った。
「急にすみません。ローデンと申します」
「エルナ・グレイヴェインです。どうぞ、お掛けください」
「ありがとうございます」
二人が座る。
俺も机の端へ置かれた。
ほどなくして、給仕係が茶を運んできた。
ローデンの前へ一つ。
エルナの前へ一つ。
「いや、茶まで出してもらって」
「お客様ですから」
給仕係はにこりと笑って、一礼した。
扉が閉まる。
エルナが茶へ手を伸ばした。
「それで、ご相談というのは?」
「商売をする場所のことでして」
「場所?」
「いつも、街道馬車の待合所を使わせてもらってます」
ローデンは続けた。
「ここへ来る時は、支部の皆さんがほとんどのお客さんなんです」
「そうなのですか」
「ええ。ただ、勤務の時間が合わない人も多いようで」
「勤務中では、待合所まで来られませんね」
「そうなんです」
ローデンが頭をかく。
「こっちも、せっかくここまで来たなら見てもらいたい。できれば、支部の中で商売させてもらえないかと思いまして」
エルナはすぐには答えなかった。
「中で、ですか」
「門の近くでも、中庭でも。邪魔にならないところで構いません」
「これまでにも、そのような相談をされたことは?」
「ありません」
ローデンはあっさり答えた。
「商売で中に入れてもらえるとは思ってませんでしたから」
「なるほど」
エルナが少し考える。
「明日、商売をされるのですよね」
「ええ。相方が荷を持って来ます」
ローデンは一足先に来て、翌日露店を出す場所の確認などをしているらしい。
「すぐにはお返事できません」
「もちろんです」
「こちらでも確認してみます」
「お願いします」
ローデンが頭を下げた。
◇
執務室へ戻る。
エルナが勤務表を開いた。
さっき気になった日を探す。
明日。
小さく予定が書き込まれていた。
行商。
「……これですか」
俺が開かれる。
過去の記録をめくる。
行商人の販売場所は、街道馬車待合所。
春にも一度来ている。
その記録の余白に、一行だけ別の字があった。
前任者の字だ。
『行商が来る日は、交代希望が増える。』
エルナが勤務表を見る。
俺を見る。
「気づいていたのですね」
その先には何も書かれていなかった。
◇
午後。
エルナは何人かに話を聞いた。
まず門番。
「行商の日に交代をお願いすることがありますか?」
門番が少し目を逸らした。
「……あります」
「買い物のために?」
「はい」
別の兵士にも聞いた。
「勤務が終わってからでは、間に合わないのですか?」
「帰ってることもありますから」
厨房では、
「昼どきは抜けられませんね」
別の兵士は、少し困ったように笑った。
「石鹸なら支給されていますよね」
「されてますけど、行商のは匂いがいいんですよ」
「……なるほど」
紙や糸を頼む者もいた。
菓子を楽しみにしている者もいた。
自分では行けず、買い物を頼むこともあるらしい。
エルナは執務室へ戻った。
勤務表を開く。
ローデンは、見てもらえる人が少ないと言った。
兵士たちは、買いに行けないと言った。
同じ日の話だった。
◇
翌朝。
休暇を終えたガレスが戻ってきた。
朝の報告が一段落したところで、エルナが昨日の話をした。
ローデンから相談を受けたこと。
勤務表の交代希望。
兵士たちから聞いた話。
ガレスは黙って聞いていた。
「中庭まで入ってもらえれば、交代の希望も減ると思うのですが」
エルナが言う。
「受付票で、一時入構はできますよね」
「できます」
「では――」
「ただ、今回は商売です」
エルナが止まった。
「鮮魚の搬入とは違いますか」
「違います。支部の業務に必要な入構ではありません」
「……そうですね」
ガレスが勤務表を見る。
「許可するなら、別に条件を決めた方がいいでしょう」
「はい」
「その前に、一度見てきてはいかがですか」
「行商を?」
「今日です」
エルナが勤務表を見る。
昨日、何度も見た日だった。
「実際に見てからでも遅くありません」
「分かりました」
◇
街道馬車の待合所の横に、幌付きの荷車が止まっていた。
ローデンがいる。
その隣では、もう一人の男が荷台から箱を下ろしていた。
「支部長さん」
ローデンが気づいた。
「見に来てくれたんですか」
「はい。少し様子を見せてください」
「どうぞどうぞ」
荷台には品物が並んでいた。
石鹸や櫛。
針と糸。
紙やインク。
菓子や干した果物。
小さな鏡や飾り物もある。
北方支部の兵が何人か来ていた。
一人は石鹸を手に取っている。
その隣では、紙切れを見ながら品物を集めている者がいた。
「糸が一巻き。石鹸が二つ。それと蜂蜜菓子が三つ……」
ローデンが笑う。
「ずいぶん頼まれたな」
「今日来られない連中の分です」
「自分の分は?」
「蜂蜜菓子」
「四つだな」
「そうなります」
隣で別の兵士も蜂蜜菓子を手に取った。
「またそれか」
「これ、うまいんだよ」
「前も買ってただろ」
「もうない」
相方が笑いながら袋を包む。
「今度は二つ買っとけ」
「そうする」
やがて一人の兵士が小走りでやってきた。
「蜂蜜菓子、まだあります?」
「あるよ」
ローデンが袋を一つ取り出す。
「ほかは?」
「今日はいいです」
兵士は中も確かめずに代金を渡した。
「もう戻らないと」
「来たばっかりだろ」
「休憩、これだけなんだよ」
袋を抱えて、そのまま支部へ走っていった。
エルナはしばらく、その背中を見ていた。
やがて客が途切れる。
エルナも荷台へ近づいた。
紙の束がいくつか並んでいる。
普段支部で使っているものより少し厚いものもあった。
縁に細い模様が入ったものもある。
エルナの足が止まった。
「これは?」
「便箋です」
ローデンがすぐに一束取った。
「手紙なら、こっちがよく出ます。少し丈夫で、折っても傷みにくい」
「こちらは?」
エルナが隣を指す。
「そっちは薄いですね。その分、枚数が多いです」
二つが並べられる。
エルナは見比べた。
「値段は?」
ローデンがそれぞれの額を答える。
エルナはもう一度見た。
「模様のある方を、一つください」
「ありがとうございます」
ローデンが紙を包み始める。
「インクもいります?」
「そちらはあります」
「では、便箋だけですね」
「はい」
包みが渡された。
視察に来たはずだった。
まあ、問題はない。
エルナが包みを受け取り、ローデンを見る。
「昨日のお話ですが、中庭で販売していただく場合は、使用料をお願いすることになると思います」
「なるほど。分かります」
「支部として、それで利益を出すつもりはありません」
高すぎれば、待合所で商売を続けた方がましになる。
安すぎれば、中庭をただで使わせるのと変わらない。
ローデンが相方と顔を見合わせた。
短く言葉を交わし、一つの額を示す。
「それなら、このくらいでどうでしょう」
示された額は、安すぎず、高すぎなかった。
二人がどういう商売をしてきたのか、それだけで少し分かった。
エルナが数字を控える。
「ありがとうございます。参考にさせてもらいます」
◇
執務室へ戻る。
エルナが便箋を机の端へ置いた。
ガレスが一度だけ見た。
何も言わなかった。
その横に、既存の受付票が置かれる。
「通常の一時入構とは、分けた方がよさそうですね」
ガレスが言う。
「はい」
エルナが紙を一枚取った。
「販売する場所は決めておく必要がありますね」
「中庭の一角がよいでしょう」
「時間も」
「荷の確認は正門で」
「執務棟や宿舎には入らない方がいいですね」
「ええ」
いくつか書き出したところで、エルナの筆が止まった。
「先に、何を決まりにするのか決めた方がよさそうですね」
俺が開かれる。
俺は一文だけ書いた。
『商用で入構する者は、事前に許可を得ること。』
エルナがそれを見る。
「では、その許可を受けるための申請が必要ですね」
新しい紙を手元へ寄せる。
名前、商売の内容、希望する日、販売時間。
荷車の有無と、主な取扱品。
そこまで書いたところで、扉が叩かれた。
カイルだった。
「支部長、巡回報告です」
「ありがとうございます」
エルナが受け取る。
カイルが机の上を見る。
「何してるんですか?」
「行商人に、中庭で商売をしてもらうための手続きを作っています」
「中庭で?」
カイルの耳が動いた。
「はい」
「それ、いいですね」
声が少し大きくなった。
「そう思いますか?」
「待合所まで行けない日、ありますから」
カイルは試案を覗き込んだ。
「いつやるんです?」
「そこも、今から決めるところです」
「訓練が終わってからがいいと思います」
「午後ですか?」
「はい。訓練が終われば、日除けの下も空きます」
エルナが顔を上げる。
「あれを使うのですか?」
「せっかくありますし。食べ物を置くなら、日に当てない方がいいですよ」
「なるほど」
「終わったら、残ったものとか、ごみは持って帰ってもらった方がいいです」
「匂いですか?」
「はい。寄ってくるのがいるので。虫も来ます」
エルナが書き足す。
販売終了後の清掃。
ごみと食べ物のくずは持ち帰る。
カイルはまだ試案を見ていた。
「前の日に来る人がいるなら、場所だけ先に決めておけばいいんじゃないですか」
「場所を?」
「はい。準備できるものだけやって、邪魔にならないよう端に寄せておけば」
ガレスが考える。
「訓練の邪魔にならない場所なら問題ないでしょう」
「では、準備日も申請に入れます」
エルナが欄を増やす。
準備日と販売日。
準備に使う場所。
「ほかにはありますか?」
エルナが聞く。
カイルが少し考えた。
「今のところは」
満足そうだった。
それから、ようやく自分の報告書を指した。
「こっちは昨日の巡回です」
「後で確認します」
「お願いします」
ガレスが試案を見直す。
「中庭の使用料については、経理に確認しておいた方がいいですね。ルヴィア殿に書簡を出しましょう」
カイルが振り返る。
「ルヴィア殿?」
「死神殿です」
「ああ」
すぐに分かった。
エルナは何も言わず、試案へ視線を戻した。
◇
経理局への書簡は、その日のうちに用意された。
ちょうどグレン殿が来る日だった。
裏の発着場では、定期便の荷受けが始まっている。
書簡は、グレン殿に託すことになった。
商用入構の申請書は、まだ試案だった。
エルナが紙を見ながら言う。
「これも、一度ローデンさんたちに見てもらった方がよいでしょうか」
「その方がいいでしょう」
ガレスが答える。
「実際に書くのは向こうです」
「では、分かりにくいところがないか確認してもらいましょう」
試案の写しを作る。
短い書簡を添えた。
試案の写しと書簡は、次の街道馬車に預けることになった。
次の行商までには、まだ時間がある。
◇
翌朝。
見張り塔から、短い鐘が鳴った。
定期便の日ではない。
エルナが窓の方を見る。
ほどなくして、裏の発着場へ小型ワイバーンが降りた。
竜運の速達だった。
しばらくして、兵士が一通の書簡を持ってくる。
「経理局からです」
エルナが封を見る。
「……もうですか?」
昨日出したばかりだった。
ガレスは特に驚いていない。
封を開く。
返事は短かった。
『中庭使用料は雑収入として処理してください。
金額は支部判断に任せます。』
「これだけですね」
「十分でしょう」
その下に、まだ文字があった。
追伸。
エルナが読む。
『中庭での行商の件、魔王様に気づかれました。
当日、ふらっと寄られるかもしれませんので。』
エルナの手が止まった。
「……魔王様が?」
顔から、さっと色が引く。
久しぶりに白い顔を見た気がする。
ガレスが書簡を覗いた。
「来られると決まったわけではありません」
「はい」
エルナは返書を机の端へ置いた。
それから、商用入構の申請書を手元へ戻す。
「続けましょう」
開いた窓から、夏の風が紙の端をわずかに揺らした。




