ep.25 潮風の届かない場所で
初日のあとも、訓練は続いた。
船に乗る日もあれば、浜を歩く日もあった。
工兵は港の設備を回り、整備班は修理場へ通った。
そうして六日目。
最後の訓練が終わった夜、北方支部から来た者たちは港沿いの食堂に集まっていた。
ラメール側の者もいる。
卓上には、大皿に載せられた魚や貝。
それから、酒。
俺もエルナの隣に置かれていた。
俺も慰労してくれるという意味だろうか。
「訓練の方はこれで終わりだ。お疲れさん」
沿岸警備隊の責任者が杯を上げた。
北方支部の兵たちも続く。
木の杯に注がれたエール。
その間に、小さな杯がいくつも並んでいる。
北方支部の兵士が、その一つを手に取った。
「これ、酒か?」
「そうだ」
「少なくないか」
「飲めば分かる」
一口飲む。
杯がすぐに卓上へ戻った。
「……強いな」
「だから少ないんだよ」
周りで笑いが起きる。
ラメールでは、こういう強い酒も珍しくないらしい。
色も匂いも、一つずつ違っていた。
エルナも、小さな杯を一つ手にしている。
一口飲む。
「強いですね」
責任者が笑った。
「苦手でしたか?」
エルナも笑う。
「おいしいです」
杯が空になった。
すぐに次が注がれる。
離れたところにいた北方支部の兵士が、それに気づいた。
「支部長、まだ飲まれるんですか?」
「え?」
「いえ……」
エルナは杯を見た。
「おいしいですから」
隣にいた兵士が小声で言う。
「花見の時も普通に飲んでたぞ」
「そうだったか?」
「たぶん大丈夫だ」
エルナの杯はまた空になった。
料理も酒も減っていく。
声だけは、少しずつ大きくなった。
ただしエルナは、いつまで経っても普通に座っていた。
違うのは、よく笑うことくらいだった。
しばらくして、明日の話が始まった。
「お前ら、休みはどうするんだ?」
ラメールの兵が尋ねる。
「港を見る」
「魚を食う」
「寝る」
返事はいろいろだった。
その中で、一人が言った。
「海にも行きたいな」
ラメール沿岸警備隊の女性工兵が笑った。
「じゃあ浜に来ればいい。明日は天気も悪くなさそうだ」
それからエルナへ向き直る。
「支部長も来ませんか?」
「私も、ですか?」
「せっかく海まで来たんですから。泳がなくても、浜にいるだけでいいですよ」
エルナが考える。
北方支部の兵士が口を挟んだ。
「支部長も行きましょうよ」
「皆さんも?」
何人かがうなずいた。
エルナは杯を持ったまま、しばらく考えていた。
やがて笑う。
「では、行ってみます」
海へ行く。
泳ぐ。
なるほど。
明日は、少し楽しみになった。
◇
翌朝。
集合の声はなかった。
詰所の前にも列はできていない。
訓練道具を抱えて歩く者もいなかった。
七日目は、休暇だった。
エルナも朝食を終えると、俺を抱えて宿を出た。
作業浜を離れ、入江の反対側へ向かう。
しばらく歩くと、砂の多い浜が見えてきた。
水際では子どもたちが走っている。
浅いところには、何人かがもう入っていた。
沖には小舟が一隻。
訓練で使った港とは、ずいぶん雰囲気が違う。
北方支部の兵たちも、すでに何人か来ていた。
ラメールの者たちも、何人か来ている。
服装が違うだけで、別の集まりのように見えた。
「支部長、こっちです」
昨夜の女性工兵が手を上げる。
その近くには、小さな木造の建物があった。
「ここは?」
「着替えるところです」
エルナの足が止まる。
女性工兵も止まった。
「支部長、水着は?」
「水着?」
「……持ってきてないんですか?」
「持っていません」
女性工兵が笑った。
「本当に見るだけのつもりだったんですね」
周りにいた女性たちも笑う。
「じゃあ、貸しますよ。予備がありますから」
「よいのですか?」
「もちろんです」
エルナは少し迷ってから、頭を下げた。
「では、お借りします」
俺も一緒に建物へ入った。
入口の脇には、戸のついた物入れが並んでいる。
その先で通路が二つに分かれていた。
エルナが物入れの一つを開ける。
「これなら大丈夫ですね」
俺は中へ置かれた。
嫌な予感がした。
「濡れると困りますから」
戸が閉まった。
暗くなった。
……またか。
女性たちの足音が奥へ遠ざかっていく。
やがて、声が聞こえてきた。
「これなら合うんじゃない?」
「そっちは少し大きいですよ」
「じゃあ、こっち」
エルナの声もする。
「そんなに違うものなのですか?」
「違いますよ」
「こっちの方が似合いますって」
笑い声が重なった。
何が選ばれたのかは分からない。
しばらくして、足音が戻ってきた。
入口の戸が開いた。
女性たちが外へ出ていく。
入れ違いに、北方支部の兵たちが入ってきた。
「支部長、意外と……」
「シッ。聞こえるぞ」
声が止まった。
◇
外から声が聞こえる。
遠い。
「冷たい!」
誰かが叫んだ。
笑い声。
水の跳ねる音。
しばらくして、別の声が聞こえた。
「もう少しこっち!」
「ここですか?」
エルナだ。
たぶん。
また水音。
誰かが大きく笑った。
その中に、エルナの声も混じっている。
楽しそうではある。
俺には見えない。
しばらく静かになる。
遠くで鳥が鳴いていた。
波の音だけは、ここまで届く。
昨日まで、あれほど海を見ていた。
今日に限って、何も見えない。
◇
物入れの戸が開いた。
明るい。
エルナがいた。
いつもの服を着ている。
髪だけが湿っていた。
「お待たせしました」
エルナが俺を抱え上げる。
外へ出ると、浜にはまだ何人か残っていた。
水際を歩く者。
砂の上に寝転がる者。
日陰で何かを食べている者もいる。
北方支部の兵士がこちらへ来た。
「支部長、どうでした?」
「楽しかったです」
エルナはすぐに答えた。
「泳ぐのは難しいですね」
「初めてだったんですか?」
「海では、ほとんど」
昨夜の女性工兵が後ろから言う。
「でも普通に泳げてましたよ」
「少しだけです」
「十分ですって」
エルナが笑った。
そうらしい。
◇
昼は港沿いの店に入った。
訓練中にも魚は何度か食べた。
今日は少し違う。
焼いた魚。
貝を煮たもの。
薄く切った燻製。
小さな甲殻類を殻ごと焼いたものまである。
兵たちは好きなものを取り、空いたところへ座っていった。
「明日の朝には出るんだろ?」
「その予定だ」
「じゃあ今日くらい食っとけ」
北方支部の兵士の皿に魚が追加された。
「多いな」
「海の町だからな」
理由になっているのかは分からない。
エルナの前にも、いつの間にか料理が増えていた。
その横に、小さな杯が置かれる。
昨日と同じ酒だった。
エルナの顔が明るくなった。
「これもいただいていいのですか?」
「休みですからね」
「午後は、もう海には入りませんよね」
「入りませんよ」
「では」
迷いはなかった。
北方支部の兵士が気づく。
「また飲んでる」
「放っとけ。たぶん俺らより強い」
昨夜、最初の一杯で黙った兵士は何も言わなかった。
エルナは楽しそうに笑っていた。
◇
午後は、何の予定もなかった。
港を歩く者。
浜へ戻る者。
宿で寝る者。
土産を探す者。
エルナは港沿いの店をいくつか覗いていた。
店先には乾燥させた魚や、貝殻を使った小物が並んでいる。
細い綱を編んだ腕輪の隣には、見慣れない酒瓶もあった。
船で運ばれてきた品も多いらしい。
酒瓶が並んだ店の前で、エルナはしばらく動かなかった。
結局、一本買った。
何に使うのかは聞くまでもない。
港を歩けば、網を繕う老人や、魚を抱えて走る子どもがいる。
家の軒先には、綱や浮きが干してあった。
夕方になると、港へ戻ってくる船が増えていった。
水面を低い光が滑っている。
明日は出発する。
宿へ戻った兵たちは、それぞれ荷物をまとめ始めた。
◇
翌朝。
北方支部の一団はラメールを出た。
荷物の多くは荷馬車へ。
人は歩く。
来た時と同じだった。
港を離れ、坂を上る。
振り返れば、入江が少しずつ小さくなっていった。
海が見えなくなってからは、またいつもの街道だった。
昼前。
二番標の近くで休憩を取ることになった。
木陰へ荷物を下ろす。
水筒が回り、兵たちが腰を下ろした。
街道の向こうから、一団が近づいてくる。
見覚えがあった。
北方支部で一週間を過ごした、ラメール沿岸警備隊の者たちだった。
向こうもこちらに気づく。
「おお!」
声が上がった。
結局、同じ木陰で休むことになった。
北方支部の兵士が尋ねる。
「山はどうだった?」
ラメールの兵が水を飲んでから答える。
「静かだな」
「それだけか?」
「声出すなって何回言われたか分からん」
北方支部側から笑いが起きた。
今度は向こうから聞かれる。
「海は?」
「足元が動く」
「船だからな」
「歩いてるだけで笑われた」
「それは仕方ない」
また笑いが起きる。
少し離れたところでは、工兵たちも話していた。
ラメールの工兵が声を掛ける。
「港の杭はどうだった?」
「山じゃあんな打ち方はしないな」
「そっちは?」
「斜面での荷車の扱いだな。あれは面倒だった」
「それは見たかったな」
エルナも笑っていた。
一週間前は、ここで別れた。
今は同じ木陰で水を飲んでいる。
休憩が終わった。
荷物を背負い直す。
「じゃあ、また来年」
「次は山で待ってる」
「海でも待ってるぞ」
手を上げる者がいた。
二つの一団は、また別々の方向へ歩き出した。
◇
北方支部が見えてきたのは、陽が傾き始めたころだった。
街道の先に、見慣れた壁がある。
正門の前では、門番が交代の準備をしていた。
こちらに気づくと、一人が手を上げる。
「お帰りなさい!」
誰かが返した。
「ただいま!」
門をくぐる。
中庭には荷車が一台。
倉庫の前では、セルディンたちが何かを運び込んでいる。
厨房の方から、夕食の匂いが流れてきた。
荷馬車が中庭へ入り、兵たちが荷物を下ろし始める。
「支部長」
ガレスがこちらへ歩いてきた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
エルナが答える。
「問題はありませんでしたか?」
「こちらは特にありません。そちらは」
エルナが考える。
「……いろいろありました」
そう言って笑う。
ガレスは一拍置いた。
「報告は明日で構いません。今日は休んでください」
「ありがとうございます」
兵たちも、それぞれ宿舎へ向かっていった。
荷物を運ぶ声。
中庭を横切る足音。
厨房から聞こえる鍋の音。
いつもの北方支部だった。
エルナは俺を抱えたまま、執務棟へ入った。
廊下。
階段。
見慣れた扉。
執務室が開く。
机。
書類棚。
窓際の椅子。
出発した時と、ほとんど何も変わっていない。
俺は机の上へ戻された。
一週間ぶりの場所だった。
窓の外では、戻ってきた兵たちの声がまだ聞こえている。
海も悪くなかった。
次に行く時は、棚の外から見たい。




