ep.24 浜へ戻るまでが、海の訓練です
朝の港は、もう動き始めていた。
詰所の前から坂を下りると、海が近い。
入江の奥には桟橋が伸び、その脇には荷を積んだ小舟が並んでいる。
「そっち、先に持ってけ!」
「綱、外すぞ!」
朝から声が飛び交っていた。
浜寄りでは、広げた網を直している者がいる。
その向こうには木造の修理場。
海へ下る二本のレールが、朝の光を受けていた。
昨日、高い場所から見下ろした入江。
今日は、その水際に立っている。
北方支部から来た者たちは、沿岸警備隊の詰所前に集まっていた。
一週間の合同訓練。
今日は、その初日だった。
簡単な説明のあと、それぞれの組に分かれる。
工兵は港の浜側と崖沿いへ。
整備班は修理場へ。
一般兵は桟橋へ向かった。
「今日は兵の方を見てもらいます。船の上と、救助です」
沿岸警備隊の責任者がエルナへ言った。
よく日に焼けた男だった。
声が大きい。
別に怒っているわけではないらしい。
「工兵と整備班は、それぞれ別の場所で?」
「ええ。工兵は港の設備と浜側、整備は修理場です。日によって中身を替えます」
「今日は基本から、ということですね」
「そういうことです」
エルナは一般兵の訓練を見ることになった。
俺も一緒だ。
桟橋の先には、潮に合わせて上下する浮き桟橋がある。
その脇に、小型の船が三隻並んでいた。
帆は張られていない。
櫂や綱、救助用の浮具。
船底には木桶も積まれている。
「今日は入江から出ません!」
責任者の声が桟橋に響いた。
北方支部の兵たちが答える。
「はい」
男が少し首を傾げた。
「もう少し声出していいぞ!」
何人かが顔を見合わせる。
「……はい!」
さっきより大きい。
「山の連中は静かだな」
ラメール側から笑いが起きた。
北方支部の兵士の一人が言う。
「これで普段どおりなんですが」
「海じゃ聞こえんぞ!」
また笑いが起きた。
去年も参加した兵士たちは、特に構える様子はない。
その中で、一人だけ船と水面を交互に確かめている者がいた。
北方支部ではベテランで、山道の巡回や魔獣への対処にも慣れている。
ただ、ラメールへ来るのは今回が初めてだった。
船上のラメール兵が声を上げる。
「まず歩いてもらうぞ!」
「歩くだけですか」
「歩ければな!」
去年参加した兵士が少し笑った。
係留綱が外される。
三隻がゆっくり浮き桟橋を離れた。
エルナと責任者は、桟橋に残った。
岸から少し離れたところで声が飛ぶ。
「立て!」
経験者は先に立つ。
足を少し開き、船の揺れに合わせている。
初参加の兵士も腰を上げた。
船が揺れた。
本人も揺れた。
船縁へ手が伸びる。
隣にいたラメールの兵は、特に動かなかった。
もう一歩。
今度は反対側へ身体が傾いた。
桟橋から笑い声が聞こえた。
「山道より難しいな」
「山道は動かんだろ!」
船から返事が飛んできた。
去年参加した兵士は、もう船首まで歩いている。
それでもラメールの者ほど自然ではない。
船首から船尾へ。
今度は船尾から船首へ。
綱をまたぎ、櫂を避け、人とすれ違う。
同じ歩くでも、地面の上とはずいぶん違うらしい。
◇
次は綱だった。
船と船の間で受け渡す。
岸へ投げる。
浮具へ結ぶ。
結び方そのものは、北方支部でも使うものが多い。
違うのは足元だった。
綱を引けば、自分だけでなく船も動く。
初参加の兵士が少し強く引いた。
向こうの船が寄る。
こちらも寄る。
「あ」
船同士が軽くぶつかった。
乾いた音がする。
「傷なし!」
ラメールの兵が初参加の兵士へ言った。
「今のも覚えとけ!」
「はい!」
返事だけは早かった。
陽が高くなり、水面の照り返しが強くなっていた。
浮き桟橋の影も、朝より短い。
入江に、藁を詰めた人形が浮かべられた。
「落水者一名!」
北方支部の兵たちの動きが変わった。
人形の位置が示され、櫂と綱もすぐに動いた。
さっきまでとは違い、ほとんど声を交わさず役割が分かれていく。
「こういう時は早いですね」
責任者が言う。
「山では、声を出さない方がいいことも多いので」
エルナが答えた。
「魔獣ですか」
「それもあります」
人を助ける動きそのものは、初めてではなかった。
船が寄る。
一度目は届かず、綱を引き戻す。
二度目。
浮具が人形の脇へ落ちた。
船を少し回す。
初参加の兵士を含め、三人が同じ側へ寄った。
船が大きく傾く。
「寄りすぎだ!」
エルナの隣から声が飛んだ。
それまでより、さらに大きい。
三人が止まる。
反対側にいた兵士が身体を移した。
傾きが戻る。
水面は、まだ船縁のすぐ近くにある。
やがて揺れも収まった。
「陸では、救助する側が集まった方が力を掛けやすいですが」
「海では、それで船が傾きます」
船上では、初参加の兵士が人形と足元を交互に確かめていた。
「助ける方だけ見るな!」
ラメールの兵が声を掛ける。
「自分らが落ちたら、一人増えるぞ!」
誰かが笑った。
今度は二人だけが身を低くする。
反対側にも一人残った。
人形が船縁へ寄る。
「上げるぞ!」
声を合わせる。
藁の詰まった身体が、船の中へ転がった。
そこで終わりではなかった。
人形が転がったぶん、船内が急に狭くなった。
濡れた綱も足元に残っている。
初参加の兵士が船尾へ移ろうとして止まった。
足を置く場所がない。
ラメールの兵が人形の位置を少し変える。
「帰りは行きより狭いぞ!」
エルナが息を吐いた。
「できましたね」
隣の責任者は、まだ船を見ていた。
「まだです」
今度の声は、それほど大きくなかった。
船の上では人形を固定し、使った綱と浮具をまとめている。
綱と浮具が片づくと、ようやく船首がこちらを向いた。
一隻目が浮き桟橋へ近づく。
綱が受け取られ、船が固定された。
初参加の兵士が立ち上がる。
「まだ降りるな!」
止まった。
人形と救助具を先に上げ、綱と櫂も順に戻していく。
最後に乗員が降りた。
人数を数える。
道具も確認する。
「全員います」
そこで初めて、責任者がうなずいた。
「助けた人を上げても、それで終わりではないのですね」
エルナが言う。
「そうです」
男が船へ顎を向けた。
「浜へ戻るまでが、海の訓練です」
初参加の兵士も、船を振り返っていた。
◇
昼の休憩は、港の端にある作業浜の日陰で取った。
船を降りた兵たちが、パンを食べている。
エルナは俺を膝の上に置いていた。
少し離れたところでは、工兵たちが係留杭の周りに集まっている。
「あっち持て!」
「違う、根元だ!」
ここまで声が聞こえてくる。
ラメールの工兵と何かを測りながら話していた。
修理場では、整備班の一人が引き上げられた船の下へ潜り込んでいる。
別の一人は、外された滑車を手にしていた。
「工兵は、あの杭も見るのですか」
「港のものは海と陸の両方を見ます。片方だけでは持ちません」
責任者が答える。
修理場の方へ顎を向けた。
「整備も同じです。船だけ見ていればいいわけじゃありません」
日陰から、兵たちが一人ずつ立ち上がった。
水面には、昼の強い光が揺れている。
一般兵たちは、もう一度船へ乗った。
二度目の船上移動は、朝より早い。
初参加の兵士も、もう船縁へ手をつかない。
綱を投げる。
船を寄せる。
人形を引き上げる。
今度も、人形が船の脇へ寄った。
初参加の兵士が身を乗り出しかける。
途中で止まった。
反対側を確かめる。
「一人、そっちに残ってくれ」
兵士が一人移動する。
それを確認してから、二人で人形へ手を伸ばした。
船は少し傾く。
朝ほどではない。
人形が引き上げられる。
初参加の兵士は、すぐには立たない。
濡れた綱を端へ寄せ、人形の脇に通れる場所を一つ作った。
責任者がうなずいた。
「それでいい!」
去年参加した兵士が笑う。
「覚えたな」
「一回傾けばな」
今度は本人も笑っていた。
エルナも小さく笑う。
帰りの船は、朝より静かだった。
◇
最後の船が浮き桟橋へ戻ったころには、陽が西へ傾き始めていた。
乗っていた兵たちが順番に降りる。
人数を確認する。
道具も揃っている。
初参加の兵士が大きく息を吐いた。
「終わった……」
「今日はもう一つあるぞ。船を上げる」
「引き揚げも訓練ですか」
「せっかく工兵と整備も来てるからな。最後までやる」
作業浜から工兵たちが戻ってくる。
修理場にいた整備班も姿を見せた。
船に残っていたラメールの兵が係留綱を外す。
空になった船は浮き桟橋を離れ、港の端にある引き揚げ場へ回っていった。
そこには海の中まで二本のレールが伸びている。
レールの先では、船を載せる船台が水中へ沈んでいた。
「こっち合わせろ!」
ラメールの兵が船を水中の船台へ合わせる。
船体を固定すると、工兵たちが巻き上げ機についた。
北方支部の工兵も、教わった位置へ入る。
「よし、上げるぞ!」
巻き上げ機が動いた。
張った綱が軋む。
船を載せた船台が、レールの上をゆっくり上がってくる。
水面から船底が現れ、水が筋になって流れ落ちた。
陸まで上がると、整備班が船体へ寄る。
午前中に修理場で見ていた者が船底の継ぎ目へ指を当てた。
別の者は濡れた綱を受け取る。
海水のついた綱と救助具を真水で洗う。
櫂を確認し、船底に溜まった水を木桶で掻き出す。
朝は別々だった工兵と整備班も、船の周りへ戻ってきていた。
初参加の兵士も、濡れた綱を広げている。
「浜へ戻るまでではなかったのですか」
兵士が尋ねる。
「浜へ戻らないと、片づけもできんだろ」
責任者が返した。
少し間があった。
周囲で笑いが起きる。
聞いた本人も笑った。
「なるほど」
笑いながら、濡れた綱を広げる。
洗った綱が並べて干される。
救助具も所定の場所へ戻った。
引き揚げた船の確認も終わる。
責任者が周囲へ声を飛ばした。
「本日はこれで終了!」
誰も動かなかった。
何人かが男を見る。
「本当だ!」
ようやく肩の力が抜ける。
エルナも笑っていた。
海から風が吹いていた。
干された綱が、ゆっくり揺れる。
引き揚げ場では、船底から落ちる水がレールを濡らしていた。
入江の向こうでは、夕方の光が水面に長く伸びている。
沖を、小さな漁船が一隻通っていった。
波の音に混じって、どこかで綱が小さく軋んでいた。




