ep.23 海へ行く者、山へ来る者
朝から空が青かった。
執務室の窓は開け放されている。
訓練場では日の出とともに始まった訓練が続いていた。
日除けの下には蓋をした水樽が置かれ、兵たちの掛け声に混じって夏の虫が鳴いている。
風は入る。
それでも涼しいとは言いにくい。
今年の夏は朝から暑かった。
扉が叩かれた。
「失礼します」
受付の兵士が書簡を持って入ってきた。
少し厚い。
封にはラメール沿岸警備隊の印がある。
ラメールからだった。
待っていた名簿と日程表。
エルナが封を切ると、折り畳まれた紙が三枚出てきた。
一枚目が日程。
残り二枚には、今回こちらへ来る者たちの名前が並んでいた。
「来週から一週間ですね」
ガレスが日程表を見る。
「例年通りです」
ラメール沿岸警備隊との合同訓練。
北方支部からは海へ。
ラメールからは山へ。
互いに人を出すらしい。
ラメールへ向かう兵は船上での行動や海上救助。
工兵は浜や崖での作業。
整備班は船や索具の応急修理。
反対に北方支部へ来る者たちは、山道の移動や陸上戦闘。
魔獣への対処も含まれている。
海でしか覚えにくいこと。
山でしか覚えにくいこと。
それなら、人を入れ替えた方が早い。
エルナが机の端から別の紙を持ってくる。
北方支部側の候補者名簿。
こちらは数日前から準備してあった。
「では、これで確定しましょうか」
「はい」
兵士。
工兵。
整備班。
それぞれの欄に名前が並んでいる。
エルナが上から順に確認し、最後まで見た。
「こちらからは、この人数で」
ガレスは返事をしなかった。
名簿を見ている。
「ガレスさん?」
「整備班が薄くなります」
エルナも名簿を見る。
ラメールへ出す整備担当は三人。
船体修理を学ばせたい者。
索具を扱える者。
木工修理のできる者。
どれも向こうへ行かせる理由があった。
「三人とも必要ですよね」
「向こうでは」
ガレスが別の帳面を開いた。
今週の整備予定。
荷馬車の車軸点検。
倉庫裏の荷車修理。
訓練用具の補修。
夏場に入って使用量の増えた水樽も、いくつか木栓を交換することになっている。
三人を出せば、それらを受け持つ者が一人しか残らない。
エルナの指が一人の名前へ動いた。
「では、この方を残して」
「その者を残すと船体修理を学べる者がいません」
指が止まった。
別の名前を見る。
「こちらは」
「車輪を扱える者がいなくなります」
また止まる。
工兵も同じだった。
海岸で学ばせたい者を優先すると、こちらで斜面や山道を教えられる者が減る。
兵士も。
海へ行かせたい者を選ぶほど、ラメールから来る者を受け持つ側が薄くなった。
カイルは残る。
魔獣への対処を教えるためだ。
ガレスも残る。
支部全体を預かる。
それでも足りない。
人数は合っていた。
役目が合っていなかった。
エルナは二枚の名簿を見比べた。
「人数は合っているのですが」
「人数だけなら」
俺は机の上で開かれていた。
白紙の頁に文字が走る。
『行く者を決める前に、残る者を数えましょう。』
エルナが俺を見る。
少しして息を吐いた。
「そうですね」
名簿が作り直された。
今度は行かせたい者からではない。
先に残る者を決める。
正門。
厨房。
倉庫。
整備。
工兵。
巡回。
それからラメールから来る者たちを受け持つ人員。
必要なところを埋めたあとで、海へ行ける者を選んだ。
整備班が一人変わった。
工兵も一人。
兵士も何人か入れ替わる。
人数は同じ。
名前だけが変わった。
エルナは新しい名簿を見た。
ガレスも確認する。
「これなら」
「問題ありません」
署名が入った。
海へ行く者が決まった。
同時に。
山に残る者も決まった。
ガレスが机の上へ目を落とした。
俺がいた。
「引継ぎ書は、置いていかれてもよいのでは」
エルナも俺を見る。
「でも……」
「持っていくなら荷物になります」
荷物。
俺は黙っていた。
俺も海は見てみたい。
「どうしましょう」
聞かれても困る。
さっき一文書いたばかりだ。
頁は白いままだった。
ガレスが少し待った。
「返事はないようです」
違う。
書けないだけだ。
エルナは少し考えた。
「連れていきます」
よし。
俺も海へ行くことになった。
人数には含まれなかった。
◇
出発の日も晴れていた。
まだ日が高くなる前。
正門の外には手配していた荷馬車が一台待っていた。
荷台には一週間分の荷物。
個人装備に工兵の道具。
整備班の工具箱。
訓練で使う装備も積まれている。
兵たちはその前後に集まっていた。
荷台はほとんど荷物で埋まっている。
エルナも歩く。
俺はいつものように腕の中。
荷物ではあるらしい。
見送りにはガレスとカイルが出ていた。
今日の午後には、今度はラメールから来る者たちを迎えることになる。
「留守をお願いします」
「承知しました」
「こちらは任せてください」
カイルが言った。
御者が手綱を取る。
車輪がゆっくり動き始めた。
一行は北西街道を二番標へ向かった。
夏の街道は冬とはまるで違っていた。
雪の下にあった草は伸び、木々は濃い緑に覆われている。
道の脇を流れる水は細く、日向では地面から熱が上がっていた。
歩くには暑い。
それでも朝のうちはまだ風がある。
荷馬車の速さに合わせて進み、坂を越えるたびに短い休憩を取った。
水を飲む者。
荷台の縄を締め直す者。
少し休んではまた歩く。
午前の半ばを過ぎた頃。
道の先に石の標が見えた。
北西街道、二番標。
その先でラメールへの枝道が分かれている。
枝道の方から車輪の音がした。
「来ましたね」
木々の間から荷馬車が一台上がってくる。
その前後にも人影があった。
こちらとは少し装備が違う。
巻いた綱。
短い外套。
荷台の脇には、海辺で使うらしい道具が括りつけられている。
ラメールから来た一行だった。
向こうもこちらに気づいた。
二台の荷馬車が止まる。
二番標の前で、二つの一団が向かい合った。
先頭の男が一歩出た。
「北方支部の方々ですね」
「はい」
エルナが答える。
「ラメールから、お疲れさまです」
「そちらも。ここから海までは下りです」
男が枝道を見る。
「行きは楽ですよ」
北方支部の兵士が一人、少し安心した顔をした。
男は続けた。
「帰りは上りですが」
安心した顔が消えた。
周囲から笑いが起きる。
ラメールの者たちも笑っていた。
北方支部の兵たちは向こうの荷物を見る。
向こうもこちらの荷物を見る。
同じ一週間分でも、荷物の中身はずいぶん違うらしい。
「では、一週間後に」
「はい。お気をつけて」
二台の荷馬車が、それぞれ動き出した。
ラメールから来た者たちは北西街道へ。
俺たちは枝道へ入る。
振り返れば、山へ来る者たちの背中が少しずつ遠くなっていた。
海へ行く者と。
山へ来る者。
二つの一団は、二番標で入れ替わった。
◇
枝道へ入ると道は少しずつ下り始めた。
初めのうちはまだ山の景色だった。
林の間を抜けて斜面に沿って進む。
細い沢の脇を、荷馬車が乾いた音を立てながら下っていった。
昼頃。
道脇の開けた場所で休憩を取った。
荷馬車を木陰へ寄せ、兵たちは腰を下ろす。
パンと干し肉。
水。
エルナも石に腰を下ろした。
俺は膝の上。
ここまで来ると、北方支部はもう山の向こうだった。
午後。
また歩き始める。
道はさらに下る。
林の木が少しずつ低くなり、風も変わってきた。
湿っている。
山の匂いとは違う。
少しして塩の匂いがした。
兵士の一人が顔を上げる。
「海、近いですね」
歩く足が少しだけ早くなった。
やがて枝道の先が明るくなった。
先頭の兵士が足を止める。
荷馬車もゆっくり止まった。
後ろを歩いていた者たちも前を見る。
エルナも立ち止まった。
斜面の下から風が吹き上がる。
髪が揺れた。
しばらく前を見て。
「ラメールですね」
視界の先には海が広がっていた。
斜面のずっと下。
陽を受けた水面が細かな光を散らしている。
海岸線は大きく内側へ入り込み、その奥に入江があった。
赤茶けた屋根の家々が斜面から浜まで続いている。
水際には長い桟橋。
その周りには小さな漁船や帆船がいくつも浮かんでいた。
少し離れたところには荷を扱う広場が見える。
人も荷車も、ここからではまだ小さい。
少し沖では、船よりずっと大きな影が水面をゆっくり横切っていた。
ときどき背が浮かび、そのあとを長い尾が追う。
竜運の海竜らしい。
近くを進む小舟は特に避けるでもなく、その脇をいつものように通り過ぎていった。
さらに向こうには白い帆。
海と空の境は、夏の光の中に薄く霞んでいた。
ラメールはまだずっと下にある。
ここからもうひと下り。
海へ向かう道が、斜面を縫うように続いていた。
荷馬車がまた動き出す。
道を曲がるたびに海が近くなる。
やがて道沿いにも家が増え始めた。
斜面に沿って建つ家々の間を抜ける。
坂道はいつの間にか石敷きに変わっていた。
船を修理する音。
浜から上がる声。
縄の擦れる音。
魚を運ぶ者や荷車を押す者が行き交っている。
さっきまで高いところから見下ろしていたラメールの中を、今は歩いている。
坂を下った先に少し広い場所があった。
港を見下ろすその一角に、沿岸警備隊の詰所が建っている。
詰所の前では数人がこちらを待っていた。
荷馬車に気づき、一人が手を上げる。
エルナも応えた。
御者が馬を止める。
兵たちが荷物を下ろし始めた。
一日の移動は、そこで終わった。
俺はエルナの腕の中から、その向こうを見る。
傾き始めた陽が、入江の水面を長く照らしていた。
桟橋の先では船がゆっくり揺れている。
遠くで縄を引く声がして、その合間に波の音が聞こえた。
潮を含んだ風が、詰所の前まで上がってくる。
海の上には、まだ夏の日差しが残っていた。
明日から。
この海が、訓練場になるらしい。




