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ep.22 午後の予定は、ありません

午後の予定表には、何も書かれていなかった。


昼食を終えて執務室へ戻ると、エルナは机の上の書類をもう一度確かめた。


午前の訓練報告。


正門からの引継ぎ。


倉庫の受払記録。


署名の必要なものには署名があり、戻すべき書類はすでに担当者へ返されている。


未処理の書類はない。


扉も叩かれない。


開いた窓から、夏の虫の声だけが入ってくる。


エルナは予定表へ目を戻した。


日の出とともに訓練開始。


訓練報告。


物資受入の確認。


昼食。


そこから先は、空白だった。


「次は、何でしたか」


書類棚の前にいたガレスが振り返る。


「本日分は終わっています」


「終わっている……」


「明日の分を、先に確認しましょうか」


「まだ揃っていません」


明日の補給報告には、倉庫側の確認印がない。


数日後の予定も、担当からの返答待ち。


ラメールとの合同訓練についても、沿岸警備隊からの名簿が届いていなかった。


今開いても、待つものが増えるだけだった。


エルナは伸ばしかけた手を引っ込める。


しばらくして、また立ち上がった。


「少し、支部内を見てきます」


俺は抱え上げられた。ガレスも書類棚を離れ、その後に続いた。


厨房では昼食の片づけが終わり、夕食の仕込みにはまだ早かった。


道具保管庫では、セルディンが棚の現品札を確認していた。


「何か、手伝えることはありますか」


エルナに聞かれたセルディンは、しばらく棚を見た。


札を見る。


エルナを見る。


もう一度棚を見る。


「現在は、ございません」


「そうですか」


仕事を探して歩いても、仕事は増えなかった。


執務棟へ戻る途中、中庭から木のぶつかる乾いた音がした。


訓練場の端には、午前中に使った日除けが一つだけ残されている。


その下に、早朝からの勤務を終えた兵士たちが集まっていた。


低い台の上に、升目の刻まれた盤。


その上を、形の違う木の駒が行き来している。


世界のどこにでも、似たような遊びはあるものらしい。


周囲の者たちは、冷たい井戸水を飲みながら勝負を眺めていた。


一人が駒を進める。


見ていた兵士が、わずかに顔をしかめた。


向かいの兵士が、その駒を取る。


駒を失った方はしばらく盤を見つめたあと、頭をかいた。


周囲から小さな笑いが起きた。


エルナも、少し笑った。


一人がこちらに気づき、何人かが軽く姿勢を正す。


「続けてください」


エルナが言う。


勝負はそのまま続いた。


やがて一人が負け、盤の上の駒を集め始める。


ガレスが盤へ目を向けた。


「一局、いかがですか」


エルナが振り返る。


「私が、ですか」


「はい」


エルナは盤を見る。


それから、執務棟の窓へ目を向けた。


「ですが、私はまだ勤務中ですので」


「本日分は終わっています」


「それでも、遊んでいるわけには……」


ガレスの視線が、エルナの腕の中の俺へ落ちた。


「引継ぎ書にも、聞いてみますか」


エルナは少し迷った。


俺を抱えたまま、表紙を開く。


開かれた白紙の頁に、文字が走った。


『兵たちの相手も、支部長の仕事です。』


エルナが一文を見下ろす。


ガレスがうなずいた。


「ごもっともです」


日除けの下でも、何人かが静かにうなずいた。


エルナは俺とガレスを交互に見た。


それから、小さく笑った。


「では、一局だけ」


日除けの下に場所が空けられた。


先ほど勝った兵士が、盤の向こうへ座る。


エルナは俺を膝の上に置き、並べられた駒を見た。


「動かし方は、ご存じですか」


「基本的には…。北方の決まりなどがないか、念のため確認をお願いできますか」


対戦相手が駒を指していく。


歩兵駒は前へ進み、騎馬駒は大きく回り込む。


砦駒は進路を塞ぐ。


盤の奥には双方の本陣があり、相手の本陣を落とせば勝ちだった。


簡単な遊びではなさそうだった。


駒が並べ直される。


エルナは歩兵駒を一つ進めた。


対戦相手も動かす。


数手。


木の駒が、乾いた音を立てる。


「支部長、覚えるの早いですね」


後ろから声がした。


「俺なんか、先月やっと覚えたのに」


エルナは盤を見ながら笑っている。


次の駒を置いた。


見ていた兵士の一人が、水杯を口元まで持ち上げたところで止まった。


そのまま盤を見る。


杯を下ろす。


もう一人が、少し前へ出た。


対戦相手の顔からも、笑みが消えていた。


エルナだけが、楽しそうだった。


相手の駒が進めば受け、空いた場所には別の駒を置く。


急ぐ様子も、迷う様子もなかった。


しばらくして、相手の本陣の前が空いた。


エルナの騎馬駒が、そこへ入る。


対戦相手の手が止まった。


「終わり、でしょうか」


エルナが笑顔のまま尋ねる。


「……終わりです」


兵士が席を立った。


すると、その後ろにいた一人が、空いた場所へ座った。


誰も勧めてはいない。


エルナは少し目を丸くしたあと、また笑って駒を並べ直した。


二人目は、最初から慎重だった。


一人目より長く持った。


それでも負けた。


盤を挟んだ兵士は、しばらく動かなかった。


「どこで決まっていましたか」


エルナは盤上の駒を一つ指した。


「ここだと思います」


「そこですか」


「このあと、戻る場所がありませんでしたので」


兵士が盤を見る。


その肩越しに、周囲の者も見る。


しばらくすると、一人がその場を離れた。


エルナは気にせず、取った駒を並べ直している。


少しして、その兵士が戻ってきた。


別の班の兵士を一人連れている。


さらに、その後ろにも数人ついてきていた。


連れてこられた兵士は、盤とエルナを見比べた。


それから二人目へ目を向ける。


二人目が黙って席を譲った。


三人目が座る。


今度の勝負は長かった。


日除けの下で、誰も笑わなくなった。


駒が一つ。


また一つ。


盤の外へ出ていく。


普段なら、エルナは判断する前に一度は誰かを見る。恐らく自信がないのだろうと思っていた。


盤の前では、それがなかった。


相手が駒を置くたび、盤全体へ目を戻す。


そして、笑みを残したまま、決めた場所へ駒を置いた。


三人目も負けた。


後ろにいた兵士が、ガレスへ顔を向けた。


「副官殿は、ご存じだったのですか」


ガレスは盤を見た。


「いえ、これほどとは」


エルナは、取った駒を元の位置へ戻していた。


勝ち誇った様子はない。


「支部長は、どこで覚えられたのですか」


「小さい頃、父に……」


木の駒が、盤の上で小さく鳴った。


少なくとも、子どもの遊びには見えなかった。


水を飲んでいた兵士が、そっと杯を置いた。


盤の前に座っていた兵士も、エルナを見る。


少し離れたところにいた者まで、こちらを見た。


兵士たちの間に、小さな戦慄が走った。


しばらくして。


今度は、何人かの視線がガレスへ向いた。


一人が、妙に真剣な顔で口を開く。


「副官殿」


ガレスが見る。


「仇を取ってください」


周囲で、何人かが深くうなずいた。


まだ三人しか負けていない。


「お願いします」


もう一人増えた。


何の仇なのかは、俺にもよく分からない。


ガレスは盤を見る。


次に、エルナを見る。


エルナは最後の歩兵駒を、元の位置へ戻していた。


「今日は、皆に譲りましょう」


兵士たちは、そろって肩を落とした。


エルナが顔を上げる。


「ガレスさんとも、いつかお願いしますね」


「……機会があれば」


ガレスの返事が、ほんの少しだけ遅かった。


その横で、一人の兵士が盤の前へ座った。


仇討ちは、まだ終わっていないらしい。


エルナは、また駒を並べ直した。


その後ろにも、一人。


さらにもう一人。


気がつけば、日除けの下には最初よりずいぶん人が増えていた。


誰が先なのか分からなくなったらしい。


いつの間にか、薄い木札が持ち込まれていた。


一人が名前を書く。


日除けの柱へ下げる。


次の兵士も、自分の木札に名前を書く。


その次も。


エルナは次の相手を待ちながら、柱を見る。


ガレスも見た。


「午後の予定ができましたね」


「これは、予定に入れるものなのでしょうか」


「非公式でよいでしょう」


エルナは困ったように笑った。


その前では、もう次の兵士が駒を並べている。


執務室の予定表は、最後まで空白のままだった。


日除けの柱には、対局を待つ者の木札がいくつも並んでいる。


風が通るたび、札が小さく揺れた。


その下では、また新しい一局が始まっていた。


夕暮れの虫の声が、どこか遠くから聞こえている。


木の駒の乾いた音が、まだ明るさの残る中庭に響いていた。


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