ep.21 いつもどおりでは、足りません
北方の夏は短い。
暑さを理由に、訓練の予定を変えるほどではなかった。
少なくとも、去年までは。
執務室の窓は、朝から開いていた。
風は入ってこない。
窓の外。
訓練場の石敷きが、白く照り返している。
まだ午前の訓練が終わる時刻ではない。
扉が叩かれた。
「失礼します」
入ってきた訓練担当の兵は、首元まで汗で濡れていた。
「本日の訓練を、途中で切り上げました」
エルナが椅子から立ち上がる。
「負傷者ですか」
「負傷者はおりません。ただ、一名が途中で座り込みました。意識はあります。治療係がついています」
「ほかの者は」
「二名ほど、足元が乱れていました。全員、水筒は持たせています。休憩も、いつもどおりに」
いつもどおり。
今年の暑さには、それが足りなかったらしい。
俺はエルナに抱えられ、訓練場へ運ばれた。
外へ出た途端、頁の間にまで熱が入り込む。
道具保管庫の壁際に、細長い影。
兵たちは、その中へ肩を寄せて座っていた。
全員は入れない。
日向に残った者は、外した胸当てを頭の上へ載せている。
空の水筒を逆さに振る者。
濡らした布を首へ当てる者。
壁に背を預け、目を閉じている者。
座り込んだ兵は、すでに訓練場の外へ移されていた。
治療係の隣で横になっている。
顔色は戻り始めていた。
エルナは、その前へしゃがんだ。
「気分はどうですか」
「もう大丈夫です、支部長」
答えはしっかりしている。
それでもエルナは、その日の訓練へ戻ることを許さなかった。
訓練担当へ向き直る。
「明日から、開始時刻を早めましょう」
「日の出と同時でよろしいでしょうか」
「はい」
訓練担当がうなずいた。
エルナは続ける。
「その分、終了も早めてください」
「終了も、ですか」
「開始だけを早めては、訓練時間が増えます」
エルナは、壁際で休む兵たちを見た。
「暑さを避けるための変更です。働く時間を増やすためではありません」
ガレスがうなずく。
「それがよいでしょう」
エルナは、まだ訓練場を見ていた。
壁際の細い影。
空になった水筒。
首へ当てられた濡れた布。
エルナが俺を開いた。
白紙の頁に文字が走る。
『時刻だけでは、足りなさそうです。』
エルナは俺を見て、それからもう一度訓練場を見た。
「そうですね。ほかも見てみましょう」
主要な訓練は、日の低いうちに行う。
日差しが強くなったあとは、軽い確認と片づけだけ。
訓練組の起床と朝食も、開始時刻に合わせて前へ動かす。
食堂と当直へは、その日のうちに連絡が回ることになった。
訓練場には、全員が休める日陰がなかった。
例年は、道具保管庫の壁にできる影だけで間に合っていた。
日除けを用意したことはない。
野営用の天幕布と支柱、綱が道具保管庫から運び出された。
訓練担当は、大きな布を一枚張ろうとした。
全員を一度に休ませるなら、その方がよい。
訓練場の中央近くへ支柱を立てる。
綱を伸ばす。
一本が、道具保管庫と訓練場を結ぶ通路を横切った。
木剣を抱えた兵が、綱の手前で止まる。
「ここは通れませんね」
支柱を端へ動かした。
今度は、天幕布が道具保管庫の搬入口にかかる。
さらに動かすと、槍を扱う区画へ綱が伸びた。
影だけを置くことはできない。
支柱も綱も、場所を取る。
一つの大きな日除けは諦めた。
訓練場の両端へ、小さなものを二つ。
一方は、訓練を終えた組。
もう一方は、次に訓練する組の待機場所。
綱には、目印の布を結んだ。
通る場所を決めておけば、武具を抱えたまま綱をまたぐ者もいない。
次は、水。
飲み水には、支部の井戸水を使う。
夏でも冷たい。
蓋と木製の注ぎ口が付いた樽を木台へ載せ、水筒や杯へ直接注げるようにする。
身体を冷やす水は、別に必要だった。
布を濡らし、首筋や腕を冷やす。
飲める井戸水を、そのために使う必要はない。
冷却用には、近くの川の水を使うことになった。
こちらは、布を浸せる広口の樽。
使わないときは板蓋を載せる。
札だけでなく、形も違う。
川水は飲ませない。
柄杓も別。
水の搬送は、夏季の準備当番へ組み込むことになった。
日が傾き始めたころ。
初めての運用を確かめるため、エルナも俺を抱えて川まで同行した。
冷却用の空樽が、川岸へ運ばれる。
空なら、兵二人でも持ち上げられた。
樽を川のそばへ置き、桶で水を注いでいく。
一杯。
二杯。
何度も注ぎ、縁近くまで満たした。
「では、支部へ運びます」
兵二人が、樽の両側へ立つ。
持ち上がらない。
二人増えた。
樽が、わずかに傾いた。
持ち手を通す棒が運ばれてくる。
四人で持ち上げようとすると、棒が大きくしなった。
さらに二人が加わる。
樽は動かなかった。
誰かが、転がすことを提案した。
川岸から支部までの道には、石と木の根がいくつも出ている。
坂もある。
転がせば、樽より先に蓋が外れるだろう。
満たされた樽を囲み、相談が始まった。
しばらくして、兵の一人が言った。
「……空のまま運んだ方がよかったのでは」
全員が樽を見る。
エルナも見た。
「そうですね」
水は川へ戻された。
軽くなった樽を支部まで運び、日除けの脇へ置く。
通路を塞がない場所。
倒れても、訓練区画へ水が流れ込まない場所。
川からは、二人一組で桶を運ぶ。
足場を確かめながら歩調を合わせ、水をこぼさず決められた量を届ける。
その往復も、新しい朝の準備に加わった。
飲用の樽も、空のうちに木台へ載せられた。
水筒を差し出しやすい向きへ、注ぎ口を合わせる。
そのあとで、井戸から水を運び入れる。
満水の樽を動かす者は、もういなかった。
翌朝。
空が白み始めたころ、兵たちが訓練場へ集まった。
眠そうな者もいる。
日の出前に川へ向かう組。
日除けを張る組。
井戸水を飲用樽へ運ぶ組。
準備も、訓練の予定へ組み込まれていた。
日の出とともに、訓練開始。
涼しいうちに走り込み。
隊列の確認。
武具を使った訓練。
休憩の号令がかかる。
兵たちは二つの日除けへ、組ごとに分かれて入った。
注ぎ口から井戸水を水筒へ入れる者。
川水へ布を浸す者。
濡れた布を首へ当て、息を整える者。
昨日のように、壁際へ全員が集まることはない。
訓練担当は、休憩へ入った人数を数えた。
再開前にも、戻った人数を数える。
日が高くなるころには、主要な訓練は終わっていた。
残っているのは、軽い確認と片づけだけ。
昼を過ぎて間もなく、訓練担当が終了を告げた。
兵たちは、すぐには動かなかった。
一人が空を見上げる。
「本当に、今日はこれで終わりか」
冷却用の桶を持ち上げた兵が言った。
「まだ日が高いうちから飲めるな」
別の兵が、広口樽へ板蓋を載せる。
「井戸水で冷やしたエールが待ってるぞ」
「食堂が混む前に行ける」
片づけの動きが、急に速くなった。
天幕布が畳まれる。
支柱が抜かれる。
柄杓が洗われる。
広口樽は空にされ、板蓋が戻された。
満たしたまま動かそうとする者は、もういなかった。
エルナは、足早に片づける兵たちを眺めていた。
「明日も、日の出からですからね」
兵たちが一斉に振り返る。
「承知しております、支部長!」
今日一番、よく揃った返事だった。
執務室へ戻ったエルナは、夏季訓練の注意事項を書き始めた。
開始と終了の時刻。
日除けの位置。
二つの水樽の用途。
川へ向かう組の順番。
どれも、去年までの予定表にはなかった。
今年だけで済むのかは、まだ分からない。
開いた窓から、ようやく風が入ってきた。
片づけの終わった訓練場。
石敷きには、運んだ水の跡が細く残っている。
食堂へ向かう兵たちの声が、まだ明るい空の下へ遠ざかっていった。




