ep.3 竜の顔も三度まで
北方支部の中庭は、朝の雪を薄くかぶって静まり返っていた。
俺が置かれた執務机からは、窓越しにその一部が見える。
低木には雪囲いが施され、井戸の脇には板囲いが立っている。外階段の手すりには凍結防止の布が巻かれていた。
先日、魔王様が口にしていた雪囲いというものを、エルナは今になって実感として見ているようだった。
雪を避け、風を防ぎ、凍らせないための工夫。
そういう細かな手入れの上に、この支部の一日は始まっている。
エルナは窓辺に立ち、まだ足跡の少ない中庭を眺めていた。
その静けさの上に、ふいに影が差した。
エルナが顔を上げる。
雲が流れたのかと思ったのかもしれない。
だが次の瞬間、低く重い羽ばたきが空気を打った。
窓ガラスがかすかに震え、中庭の雪が白い煙のように巻き上がる。
赤い鱗を持つ竜が、空から降りてきた。
広げられた翼は朝の光を受けて鈍く輝き、畳まれるたびに熱を帯びた風が中庭を撫でた。
竜はすぐには降りなかった。
一度、中庭の上で大きく旋回する。
雪かきをしていた兵が慌てて壁際へ下がり、薪を運んでいた兵が荷を抱えたまま足を止める。
その動きを見届けるように、赤い竜は翼を傾けた。
それから、空いた石畳の中央へ静かに降りる。
爪が石畳に触れた。
そのまわりの雪がじわりと溶け、薄い湯気を立てる。
竜の吐息は白くならなかった。
かわりに、冬の空気そのものが揺らいで見えた。
中型の飛竜。
そう分類するには、あまりにも大きく見えた。
エルナは思わず窓枠に手をついた。
竜運の発着場は裏庭にある。
飛竜が降りるための石畳も、荷下ろしの標識も、誘導灯も、そちらに整えられている。俺は直接見たことはないが、少なくとも支部の記録にはそうある。
しかし竜は、裏庭ではなく中庭に降りていた。
首元に竜運の紋章が入った筒を一つ下げている。
俺はその筒を見た。
荷札ではない。
書類だ。
「ガ、ガレス副官!」
エルナが振り返るより先に、執務室の扉が静かに開いた。
ガレスはすでに窓の外を見ていた。表情はいつも通り落ち着いている。けれど眉がほんのわずかに動いた。
「荷がないようです」
「荷が、ない」
中庭では兵たちが次々と足を止めていた。雪かきの途中だった者、薪を運んでいた者、厨房へ向かっていた者。皆が赤い竜を見上げ、どうしてよいかわからず固まっている。
竜はただ静かに翼を畳んだ。
その動作だけで舞い上がった雪がまた地面へ落ちる。
溶けた雪が石畳の隙間を細く流れた。
竜は首を上げ、執務室の窓を見た。
目が合った。
エルナの背筋が反射的に伸びる。
「我は竜種運送組合、北方航路担当、グレンである」
中庭の空気がさらに静まった。
竜は、首元の筒をわずかに揺らした。
「本日、荷の配送ではなく、正式な申し立てのため参った」
エルナの喉が小さく動いた。
ガレスが静かに言う。
「支部長。お迎えを」
「は、はい……」
エルナは慌てて机の上の書類を押さえ、外套を手に取った。
その拍子に、俺の表紙がぱたりと小さく開いた。
ほとんど白紙の余白に、以前から書かれている前任者の文字が見える。
『ドラゴン便
定期便を待たせるな。竜が怒れば空が落ちる』
エルナの顔から、さらに血の気が引いた。
俺もまた、何も言えなかった。
そもそも俺は、一度に一文しか書けない。
そして今はまだ、その一文を使うべき時ではない気がした。
中庭へ向かう廊下は、いつもより長く感じられた。
窓の外では赤い竜が静かに待っている。中庭の雪は、彼の爪のまわりだけ丸く溶けていた。雪囲いの縄が羽ばたきの余韻でかすかに揺れている。
エルナは外套の前を整えながら何度か息を吸った。
ガレスはその半歩後ろを歩く。急かすことも慰めることもしない。ただ必要な距離で支部長の背を支えている。
扉が開かれると、冷たい空気が廊下へ流れ込んだ。
だが中庭の中心だけは、わずかに温かいように見えた。
グレンの赤い鱗が、白い朝の中で鈍く光っている。
近くで見ると、彼はさらに大きかった。中型の飛竜といっても、それは竜の中での話である。エルナが見上げなければならないほどの首が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
兵たちは道を空けていた。
誰も声を出さない。
エルナは一歩進み、両手を前で揃えた。
「魔王軍北方支部長、エルナ・グレイヴェインです。グレン殿、本日は……」
そこで言葉がわずかに詰まった。
「……ご足労いただきありがとうございます」
グレン殿は低く頷いた。
「礼は不要である。我は定められた経路を来た」
エルナの肩がほんのわずかに揺れた。
ガレスが静かに口を開く。
「グレン殿。恐れながら、竜運の発着場は裏庭にございます」
「承知しておる」
返答は即座だった。
グレン殿の声は低い。怒気はない。ただ、石畳の上に置かれた重い鐘のように響いた。
「我は裏庭の発着場へ、すでに三度降りた」
エルナの指先が外套の布を強く掴んだ。
「三度、でございますか」
グレン殿は首元の筒を器用に外し、前脚の爪で支えた。筒には竜運の封がある。赤い封蝋に、翼と荷札を組み合わせた紋章が押されていた。
「貴殿らが受けるべき荷は、三度持ち戻りとなった。荷受担当者不在。不在票への反応なし。再配達申請未提出」
グレン殿はそこで一度言葉を切った。
羽ばたきで溶けた雪が、石畳の隙間を細く流れている。その音が聞こえるほど中庭は静かだった。
「再配達そのものは、規定の範囲内である。ゆえに、それを咎めるものではない」
エルナの肩が、ほんの少しだけ下がった。
「ただし」
すぐに戻った。
「空を飛べば腹も減る。一山越えれば、山羊一頭分である」
「三度で三頭分」
グレン殿の声は静かだった。
「経費では落ちぬ」
重大事項だった。
「よって本日、我は荷を持たずに来た」
グレン殿の眼がエルナを見た。
「貴殿らは、荷を受け取る意思があるのか」
エルナは唇を結び、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。事実を確認し、ただちに対応いたします」
「確認は必要である」
グレン殿は言った。
「我もまた、確認のために来た」
ガレスが一歩前へ出る。
「不在票はどちらに」
「裏庭発着場。北側壁面」
「北側壁面……」
ガレスの眉がわずかに寄った。
予定通り受け取る限り、不在票など使われない。だからこそ、見落とされていた場所だったのかもしれない。
北側壁面。
裏庭の発着場。
白く塗られた風除けの壁。
今朝の雪。
「確認して参ります」
「お願いします」
エルナが頷くと、ガレスは近くの兵に目配せをした。
兵が一人、裏庭へ走る。
しばらくして戻ってきた兵は、三枚の紙を持っていた。
白い紙だった。
雪に濡れ、端が少しだけ反っている。遠目には、確かに壁の一部と見分けがつかなかっただろう。
兵はそれをガレスに渡した。
ガレスは紙面を確認し、エルナへ差し出す。
「支部長。不在票です」
エルナは受け取り、目を通した。
文字は丁寧だった。
竜運北方航路の規定文。配送時刻。荷番号。再配達申請期限。貼付場所。担当竜名。
そして末尾に小さくこう記されている。
『降着確認を得られなかったため、荷を持ち戻りました』
エルナは不在票を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
白い紙。
白い壁。
白い雪。
それでも、そこに記されている事実は白くならない。
「……こちらの確認不足です」
エルナは言った。
「荷受担当の不在についても、不在票の確認漏れについても、我々の不備です」
グレン殿は黙って聞いていた。
エルナは続ける。
「ただちに原因を確認し、再発防止策をまとめます。竜運には正式に謝罪と報告をいたします」
「よろしい」
グレン殿は短く言った。
エルナの肩からほんの少しだけ力が抜けたように見えた。
再発防止の対策会議は、関係者を集めてすぐに行われることになった。
ただし、会議室は使えなかった。
グレン殿が中に入れなかったため、中庭が急遽会議室になった。
兵たちが慌てて雪を払い、折り畳みの卓を運び、椅子を並べる。厨房からは茶器と焼き菓子が運ばれてきた。中庭の石畳にはまだ薄く雪が残っていたが、グレン殿の爪のまわりだけは丸く溶けている。
屋外だが中庭はほんのりと暖かかった。
俺は卓の端に置かれていた。
風で頁がめくれないよう、文鎮代わりの小さな魔石が上に載せられている。少し重いが文句を言うほどではない。
エルナは席につく前に、グレン殿へ深く頭を下げた。
「改めて、お詫び申し上げます」
「受領する」
グレン殿は短く答えた。
ガレスが卓上に不在票を並べた。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
どれも白い紙だった。
三枚の不在票が、冬の中庭の卓に置かれている。
それだけで、すでに少し見づらい。
「……これは」
エルナが小さく言った。
ガレスが頷く。
「白いですね」
荷受担当の兵が、縮こまったまま肩を落とした。
「申し訳ありません。貼られていたことに、まったく気づきませんでした」
「責任の確認は後にします」
エルナは静かに言った。
「今は、なぜ見落としたのかを確認しましょう」
その言葉に、荷受担当の兵が顔を上げる。
焼き菓子の皿が卓に置かれた。
小麦と木の実を焼いた、丸い菓子だった。人の指でつまむにはちょうどいい。獣人の兵なら二つまとめて食べるかもしれない。竜に出すには、さすがに小さすぎる。
エルナもそう思ったのだろう。
「あの、グレン殿。こちらは……」
「いただこう」
グレン殿は言った。
大きな爪の先が、皿の上の焼き菓子を一つだけ器用につまむ。潰れない。割れない。欠けもしない。
そのままグレン殿は、焼き菓子を口に運んだ。
中庭にいた全員が、それを見た。
竜の口に、小さな焼き菓子が消える。
しばらく沈黙があった。
「香ばしい」
グレン殿が言った。
「保管状態もよい」
「……ありがとうございます」
エルナは、少し遅れて頭を下げた。
俺も驚いた。
あの爪で焼き菓子をつまめるのなら、不在票を白い壁に貼ることなどいくらでも器用にできるだろう。
問題は、そこではない。
見えるかどうかだ。
ガレスが不在票の一枚を持ち上げた。
「一度目の不在票です。貼付場所は裏庭発着場北側壁面。時刻は第二鐘半。荷受担当はカイル」
「はい……」
カイルが肩を丸めた。
獣人族の耳が、分かりやすく伏せている。
「第二鐘半の時点で、どこにいましたか」
「発着場にいました。ただ、誘導灯の魔石が弱っていたので、予備を取りに倉庫へ……」
「代替者は」
「立てていません。除雪隊に人を出していて、発着場には自分しか」
ガレスは何も言わず、記録用の紙に書き込んだ。
エルナは責めなかった。
「誘導灯の件は、我も一枚目で指摘している」
グレン殿が静かに言った。
エルナの視線が、不在票へ落ちる。
「……確認しました。カイル、予備を取りに行った判断自体は間違いではありません」
カイルの耳が、ほんの少しだけ動いた。
「除雪対応で人手が薄かったことも、事情としては分かります。ですが、発着予定時刻に持ち場が無人になったことは問題です」
「はい……」
「次からは一人で判断せず、代替者を立ててください」
「はい」
ガレスが記録に加える。
「二度目は」
カイルとは別の兵が口を開いた。
「発着場の除雪確認中でした。白壁側の雪が吹き込んでいて、そちらを払っている間に……その、見落としました」
グレン殿が低く喉を鳴らした。
「白い壁に白い紙。周囲は雪」
グレン殿は卓上の不在票を見た。
「我は以前より申しておる。北方航路の不在票は色紙にせよ、と」
「組合へ、ですか」
赤い竜の尾が、石畳の上でわずかに動いた。
「だが様式変更には審査が必要であり、審査には会議が必要であり、会議には議題登録が必要である」
エルナは何かを言おうとして、言えなかった。
俺の余白が、かすかに熱を持った。
今かもしれない。
慰めではない。
叱責でもない。
俺は頁の端に、一文を書いた。
『見つける努力より、見える場所を決めましょう。』
エルナの視線が、その文字に落ちた。
少しだけ目が開かれる。
それから、エルナは顔を上げた。
「発着場に、不在票専用の掲示板を設置します」
声はまだ硬かった。
だが、さっきより少し前を向いていた。
「白壁ではなく、色のついた板にします。雪が積もっても見える高さに。朝と昼と夕方に確認する担当も決めます」
ガレスが頷く。
「荷受担当が離れる場合の代替者も必要です」
「はい。発着予定の前後は、必ず二名体制にします。一名が離れる場合は、もう一名が残る」
「誘導灯の魔石残量も日次点検に加えましょう」
「お願いします」
エルナは不在票を三枚重ねた。
「それから、竜運への再配達申請は、確認した者の名前を添えて提出します。見たかどうかではなく、誰が確認したかを残します」
「定期便の発着時刻は管理していました」
ガレスが静かに言った。
「ですが、不在時の扱いを明文化していませんでした」
グレン殿は黙って聞いていた。
「妥当である」
グレン殿は言った。
エルナの肩が、わずかに下がる。
「ありがとうございます」
「ただし」
下がった肩が、すぐに戻った。
「北方航路の不在票を色紙にする件については、貴殿らからも書面を出されたい」
「書面、ですか」
「組合内の様式変更には、利用拠点からの意見があるとよい」
グレン殿は三枚の不在票を見た。
「我は以前より申しておる。だが、竜が申すだけでは『竜の視認性の問題』として処理される」
「竜の視認性」
「我には見える」
グレン殿は重々しく言った。
「だが受け取る者に見えねば、不在票の意味がない」
エルナは深く頷いた。
「承知しました。北方支部として書面を提出します」
「よろしい」
会議はそこで一つ区切りがついた。
ガレスが記録をまとめ、カイルが発着場の確認表を作ることになった。裏庭発着場の管理担当は、色付きの板を探しに倉庫へ向かう。厨房係は空になりかけた皿を見て、少しだけ目を丸くしていた。
エルナはその皿を見て、ふと思いついたように顔を上げた。
「グレン殿。もしご迷惑でなければ、焼き菓子をお持ちになりますか」
「持ち帰りか」
「はい。竜運の方々で召し上がっていただければと」
グレン殿は少し考えた。
「受領する」
厨房係が慌てて包みを用意した。人の手には少し大きい紙包みだったが、グレン殿の荷としてはあまりにも小さい。
それでもグレン殿は、首元の筒とは別に、その包みを丁寧に受け取った。
「この焼き菓子は、竜の爪でも扱いやすい」
中庭に、少しだけ空気の緩む気配があった。
カイルの耳が、ほんのわずかに立ち直る。
エルナも一瞬だけ困ったように目を瞬かせた。
「厨房に伝えておきます」
「頼む」
グレン殿は頷き、翼を広げた。
羽ばたきが中庭の雪を巻き上げる。卓の上の紙が浮きかけ、ガレスがすばやく押さえた。俺の頁も少しだけめくれたが、文鎮代わりの魔石がどうにか踏みとどまってくれた。
赤い竜はゆっくりと空へ昇っていく。
雪囲いの縄が揺れ、溶けた雪が石畳の隙間を細く流れた。
やがてグレン殿の姿が、白い雲の向こうへ消える。
中庭に、ようやく冬の静けさが戻った。
誰もすぐには動かなかった。
エルナはしばらく空を見上げていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……終わりましたね」
「はい」
ガレスが答える。
「正式な申し立てへの一次対応は完了しました。再発防止策も記録済みです」
エルナの肩から力が抜ける。
その直後だった。
エルナの表情が、ふと止まった。
「……ガレス副官」
「はい」
「先ほどの焼き菓子ですが」
「あれは、交際費でしょうか」
中庭の空気が、別の意味で静まった。
俺も、先日の応接室を少しだけ思い出した。
金貨二千六百七十枚。
領収書なし。
ガレスは少しも動じなかった。
「いいえ、会議費です」
「会議費」
「苦情対応に伴う再発防止会議の茶菓子代として処理します」
エルナは瞬きをした。
「……持ち帰り分は」
「会議提供品の残分です」
ガレスは淡々と記録用紙に書き加えた。
再発防止会議茶菓子代。
焼き菓子一包。
会議提供品残分。
エルナはそれを見て、小さく息を吐いた。
「……業務なのですね」
「業務です」
その言葉は、今日一番迷いがなかった。
中庭では、兵たちが卓と椅子を片づけ始めていた。
白い不在票は、三枚とも記録用の革挟みに収められている。
白い壁に紛れる心配は、ひとまずなくなった。
グレン殿が降りた場所だけ、雪が丸く溶けていた。
石畳の隙間を細く流れた水は、やがて縁の雪に吸われて見えなくなる。
竜の影はもうない。
それでも、そこに降りた跡だけは、しばらく残っていた。




