ep.2 じゃがいものスープ
翌朝、雪はやんでいた。
窓の外は昨日より白い。
積もった雪が朝の光を受けて、支部の中庭を静かに照らしている。兵たちの足跡が何本も伸び、除雪された道の端には雪の壁が低く積まれていた。
執務室では暖炉の火が穏やかに燃えていた。
壁際を走る魔導パイプから、かすかな熱が部屋に広がっている。床近くでは魔導パイプの一部が低く立ち上がり、小さな保温台の上でやかんが湯気を上げていた。細い白い湯気は、窓から入る光の中ですぐにほどけて消えていく。
机の上には昨日からの書類が並んでいた。
除雪隊出動記録。
街道復旧状況報告書。
そして俺。
俺は相変わらず机の上に開かれている。自分で頁をめくることはできない。動くこともできない。できるのは見て、聞いて、考えることだけだ。
出動記録には昨夜の動きが簡潔に書かれていた。
『夕刻、除雪隊出動』
『夜半、北西街道三番標付近にて仮道確保』
『ハルザ村の安否確認。大きな損壊なし』
『再雪崩警戒のため、夜間作業を中止』
『未明、帰投』
文字は淡々としている。
その短い記録の向こうに、冷えた街道と夜の雪と、黙って鍬を振るう兵たちの姿があるはずだった。紙の上にはそこまで残らない。
扉が叩かれた。
エルナが顔を上げる。
入ってきたのはガレスだった。いつも通り姿勢は乱れていない。手には新しい報告書を持っている。
「除雪隊は、早朝より復旧作業に戻っています」
エルナは小さく頷いた。昨日の夕方より顔色は戻っている。少し眠れていないようにも見えるが、背筋は伸びていた。
「報告では、多少の混乱はあるものの、村人は落ち着いていたとのことです。敵対意思はなく、救援標識を確認後、村長立ち会いのもとで道を開けています」
エルナの指が机の端に触れた。
「村人に負傷者が三名。いずれも命に別状はありません」
その言葉を聞いた瞬間、エルナの肩がわずかに下がった。
息を吐いた音は小さい。
それでも部屋の空気が少しだけ緩んだ気がした。
「……そうですか」
エルナはしばらく目を伏せてから、報告書へ視線を戻した。
「負傷者数も、報告書に記載するよう除雪隊長へお伝えください」
「承知しました」
ガレスは短く答えた。
エルナは出動記録の端に小さく丸をつける。
「それから、もう一点」
ガレスが続けた。
「ハルザ村より、復旧作業への協力物資が届いています」
「協力物資」
エルナがその言葉を繰り返す。
王国側の村から、魔王軍北方支部へ。
昨日、救援に向かったばかりの村から。
その事実を飲み込むまでに、ほんの少し時間がかかったようだった。
「……それは、受け取ってよいものなのですか」
「よく頂いております」
ガレスの答えは迷いがない。
その時、扉の向こうで重い足音がした。
「失礼します」
カイルが重そうに麻袋を抱えて入ってきた。扉の外にも同じ麻袋が一つ、壁にもたせてある。
袋の口は藁で丁寧に詰められ、凍らないように布で巻かれていた。
カイルは机の前まで来ると、床に麻袋を下ろした。
ごと、という鈍い音がした。
暖炉の火が小さく揺れる。
「現物です」
窓の外では、朝の光を受けた雪が白く輝いている。その白い景色の向こうから届いたものだと思うと、麻袋は少し場違いに見えた。
少なくとも、雑に押しつけられたものではない。
「内容は」
「じゃがいもです」
執務室が静かになった。
保温台の上のやかんから、湯気だけが細く上がっている。白い窓の光の中で、それはすぐにほどけて見えなくなった。
エルナは麻袋を見ていた。
それから、添えられた報告書を開く。
別紙の受領記録には、すでに細い字で記載があった。
『ハルザ村より、街道復旧作業に伴う協力物資としてじゃがいも二袋を受領』
エルナは内容を確認し、報告書の承認欄に印を押した。
朱の跡が紙に残る。
その赤は、昨日の緊急出動命令に押された印よりも少し柔らかく見えた。
ガレスはそれを見届けてから言った。
「食堂の保管庫へ運びます」
「お願いします」
ガレスが扉脇の麻袋を持ち上げる。
カイルも床の麻袋を抱え直した。
そのまま二人は執務室を出ていく。
扉が閉まる直前、カイルの尻尾の先だけが、ほんの少し揺れていた。
扉が閉まる。
暖炉の音が戻った。
床には麻袋の置かれていた跡が残っている。
報告書の承認欄に押された朱の印は、まだ少し濡れていた。
エルナはしばらくそれを見ていた。
やがて顔を上げる。
「次の書類を確認します」
午前中の仕事はそこから始まった。
除雪隊の補給申請。
魔導パイプ三番支線の温度低下報告。
蓄熱魔石の交換予定表。
街道復旧に伴う人員配置の修正。
紙の山は少しずつ崩れていく。崩れた分だけ、別の場所に新しい紙の山が作られていく。
支部長の仕事とは、おそらくそういうものなのだろう。
終わるのではなく、形を変える。
エルナは必要なところに印をつけ、分からないところをガレスに確認していった。
「三番支線の温度低下は、昨日の雪崩の影響でしょうか」
「可能性はあります。ただ、先週あたりから数値が下がってきています」
ガレスが言い、エルナは少し考えた。
「では雪崩だけを理由にはできませんね」
「はい。場合によっては、再刻印の手配を」
エルナは報告書の余白に細い字で書き込む。
『原因確認。雪崩影響、経年劣化、刻印摩耗を分けて報告のこと』
その字は前任者の乱暴な字とはまるで違っていた。
細く、整っている。
迷いながらも途中で止まらない字だった。
窓の外では、除雪された中庭を兵たちが行き来している。
薪を運ぶ音が遠くから聞こえた。
エルナは一度だけ顔を上げて、窓から見える食堂棟の煙を眺めたが、何も言わず次の書類を取る。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
今朝のカイルとは違う。
軽い。
そして、乱れている。
扉が叩かれるより早く、若い門番の声がした。
「支部長」
エルナが顔を上げる。
「どうしました」
扉が開く。
立っていた門番は、兜が少しずれていた。
「正面門に、魔王様が」
部屋の空気が止まった。
暖炉の火だけが小さく鳴る。
「……魔王様」
「はい。お一人で」
エルナは慌てて立ち上がった。
窓際へ向かい、焦った手つきで少しだけ窓を開ける。冷たい空気が執務室に入ってきた。
俺からは見えない。
エルナには見えたらしい。
血の気が引いていくのが、横顔だけで分かった。
「……ガレス副官」
「はい」
「黒炎の鎧をお召しです」
「応接室に火を入れます」
ガレスの返事は早かった。
慌てていない。
というより、慌てるところをもう何度か済ませているように見えた。
「出迎えます」
エルナはそう言って外套を手に歩き出した。
ガレスが続く。
門番は兜を直しながら廊下へ下がった。
扉が閉まる。
少しの間、執務室には俺だけが残された。
窓は開いたままだった。
遠くから声が聞こえる。
「今年は枝が折れたか」
「北側の一本だけでございます、魔王様」
「雪解けまで持つか」
「雪囲いを直せばなんとか」
魔王様。
確かにそう呼ばれていた。
聞こえてくる内容は、どう考えても庭木の話だったが。
しばらくして扉が開く。
先に戻ってきたのはガレスだった。
ガレスは何も言わず、開いたままの窓を閉めた。
冷たい空気が細く切れ、暖炉の熱が部屋に戻ってくる。
程なくして戻ってきたエルナに、ガレスが言った。
「支部長、引継ぎ書を」
「……必要ですか」
「気休めにはなります」
エルナは机に戻り、俺を閉じた。
両手で抱えられる。
視界が動いた。
俺は初めて机を離れた。
廊下は執務室より冷えていた。石の床に靴音が響く。エルナの手には力が入っている。
歩きながら、彼女は俺を開いた。
『魔王様来訪時の対応』
項目はあった。
そこまではよかった。
『魔王様は割と寒がりだ。』
エルナの足が一瞬止まる。
「……割と」
次の行には、前任者らしい太い字が続いていた。
『用件は聞いてから考えろ。先に考えても当たらない。』
エルナは真っ白な顔で俺を閉じた。
応接室の中から、低い声が聞こえる。
「雪囲いは早めに直したほうがよい」
エルナは小さく息を吸った。
「入ります」
応接室には、すでに火が入っていた。
執務室より大きな暖炉で薪が燃えている。卓には茶が二つと、焼き菓子の皿が置かれていた。
俺は卓の端に置かれた。
正面に、魔王様が座っている。
黒炎の鎧。
そう聞いて想像したものより、ずっと静かな鎧だった。黒い金属の奥に、消えかけの炎のような光が揺れている。
それを身にまとったまま、魔王様は茶を見ていた。
「久しいな」
低い声だった。
エルナは深く頭を下げる。
「……覚えておいででしたか」
「灰角氏族の娘だ。よく覚えている」
エルナの頬に、かすかに色が戻った。
下げていた顔を上げる。いつもより少し遅い。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
「うむ。急に寄ってすまぬな」
魔王様は茶を一口飲んだ。
それから焼き菓子に手を伸ばす。
「そう硬くなるな」
「はい」
硬い返事だった。
魔王様は焼き菓子を口に放り込み、右手を軽く上げた。
応接室の音が消えた。
暖炉の火も、茶の湯気もそのままなのに、音だけが遠くへ退く。
いや、音だけではない。色も消えていた。
魔王様の指先の先で、何もない空間に白い線が走った。
裂け目だった。
世界の綴じ目。
そんな言葉が浮かんだ。
空間そのものに刃を入れたように、応接室の一部が縦に裂けている。
裂け目の奥には、見てはいけない暗さがあった。
魔王様は何でもないことのようにそこへ手を入れた。
何かを引き抜こうとしている。
古の武具か、伝説の聖杯か、あるいは世界の理を曲げる何かか。
次の瞬間、暖炉の火が思い出したように爆ぜた。同時に音と色が世界に戻っていく。
卓の上には、引き抜かれた書類の束があった。
白い紙の上で、赤だけがやけにはっきり見えた。
『差戻し』
「三回目だ」
今この部屋で一番恐ろしいのは、この赤い印だろう。
エルナは書類を見た。
「拝見します」
一枚目。
『金額記載なし』
その下に金額が追記されている。
二枚目。
『内訳記載なし』
その下にも内訳が追記されている。
三枚目。
『領収書未添付』
赤い印が、そこで止まっていた。
直した先に、別の赤い印。
終わったはずの仕事が、別の顔をして戻ってきている。
昼前に見た紙の山と少し似ていた。
魔王様は苦々しげに息を吐いた。
「経理部長め。死神みたいな顔をしおって」
比喩のようで比喩ではない気がした。
エルナは申請書本体をめくった。
『経費精算申請書』
申請額。
『金貨二千六百七十枚』
エルナの血の気が引いた。
先ほど戻った分まで、また失われていく。
「会議に伴う支出、ですか」
「そうだ」
「どちらとの会議でしょうか」
「竜運だ」
エルナはペンを取り、申請書の余白に書き足した。
『竜種運送組合』
相手が竜なら、金額が大きいこと自体は不思議ではないのかもしれない。
不思議ではないことと、通ることは別だ。
エルナは内訳を見た。
『手土産代 金百五十枚』
『昼食代 金千枚』
『夕食代 金千五百枚』
『その他 金二十枚』
これでは通らない。
俺にも分かった。なぜ分かるかは分からなかった。
「まず手土産代です」
「山羊だ。十頭」
「……山羊十頭」
エルナは少しだけ目を閉じた。
開いた時には、支部長の顔に戻っていた。
「交渉先への贈答として整理します」
魔王様の眉がわずかに動いた。
「山羊は必要だった」
「はい。必要な贈答です」
魔王様はしばらく黙った。
必要と贈答。
二つの言葉が同じ場所に置かれることに、納得しきれていない顔だった。
エルナは次の行を見る。
「昼食代。金千枚」
「昼だ。昼に食べた」
「はい」
「会議中だ」
「会議中の提供食として整理します」
魔王様の顔が少し明るくなった。
「うむ」
「金千枚です」
「竜がいた」
「補記します」
エルナのペンが動く。
「参加者、目的、場所、所要時間。竜種を含むため通常より食費が高額になった旨を記録します」
「そうか」
「次に夕食代です」
「夕方まで続いた。連中は会議が長いのだ」
魔王様は少し遠い目をした。
竜の会議。
きっと人間や魔族の会議とは、時間の感じ方が違うのだろう。
「会議中でも、夕食は接待として整理するのが妥当かと」
「会議中でもか」
「夕食まで続いた会議は、だいたい接待になります」
魔王様は茶を見た。
焼き菓子を見た。
申請書を見た。
「そうか」
次の行。
『その他 金二十枚』
「その他だ」
「内容は」
「覚えていない」
エルナのペンが止まった。
暖炉の薪が小さく崩れる。
「こちらは現時点では処理できません」
「少額だ」
「はい」
「金二十枚だぞ」
「はい。ですが、その他です」
金額の問題ではない。
その他。
その言葉がよくない。
エルナは余白に整理を書き込んだ。
『手土産代 交際費。贈答品』
『昼食代 会議費。補記必須』
『夕食代 接待交際費』
『その他 内容確認まで保留』
魔王様は腕を組んだ。
黒炎の鎧がかすかに鳴る。
「領収書は」
エルナが差戻し理由に戻った。
「必要か」
「必要です」
「余は魔王ぞ」
黒炎の鎧が影を帯び、空気が変わる。
「必要です」
終わった。そう思った。
茶の湯気だけが、二人の間でほどけていく。
やがて魔王様は天を仰ぐように言った。
「失くした」
終わらなかった。
魔王様のひどく堂々とした宣言。
領収書が必要だった。
魔王様は魔王様だった。
そして領収書は、ここにはなかった。
エルナは白い顔で、何かにすがるように俺を開いた。
頁がめくられる。
『経理処理について』
項目はあった。
あってよかった。きっとここに手掛かりがある。
『経理とは仲良く。』
それだけだった。
魔王様もなぜか真剣に俺を覗き込んでいる。
「……なるほど」
エルナの声は、分かっていない時の声だった。
たぶん、正しいことだけは分かっている声でもあった。
領収書はない。
経理とは仲良く。
申請書の内訳は、このままでは通らない。
本当に何も残っていないのだろうか。
俺は余白に一文を浮かべた。
『領収書の代わりになる証跡はありますか。』
エルナがその文字を読む。
「証跡」
魔王様も俺を見る。
「余が直々に注文した」
それは証跡ではない。エルナもそう言いたそうな顔だ。
その時、ガレスが口を開いた。
「竜運側に注文控えが残っているかと」
エルナの目が上がる。
「山羊は」
「厩舎の搬出記録がございます」
「昼食と夕食は」
「給仕記録と応接室使用簿を照合できます」
ガレスは淡々と続けた。
「領収書がない以上、支出の事実と用途を別の記録で示す必要があります」
魔王様がわずかに眉を寄せる。
「そこまで必要か」
「必要です」
ガレスの声は変わらなかった。
「陛下の支出であれば、なおさらです」
短い沈黙が落ちた。
エルナの手が動き始めた。
差戻し書類。
経費精算申請書。
注文控え。
搬出記録。
給仕記録。
応接室使用簿。
領収書はない。
何もないわけではなかった。
エルナは書きかけの整理に目を戻す。
『その他 内容確認まで保留』
最後の一行だけが、まだ宙に浮いている。
「その他、金二十枚について確認いたします」
「うむ」
「内容は」
魔王様は少し考えた。
思い出したように口を開く。
「土産だ」
「どなたへの」
「本部の魔王室の連中だ。いつも世話になっている」
エルナのペン先が止まった。
「……本件の交渉相手ではありませんね」
「違う」
「そうなると、今回の経費には含められません」
「必要だった」
「お気持ちは分かります」
エルナは魔王様をまっすぐ見た。
「ですが、私費です」
「余は魔王ぞ」
ガレスが静かに口を開いた。
「陛下」
「なんだ」
「連邦税務と揉めると厄介です」
魔王様は鼻を鳴らした。
「ふん。その前に、あの死神が通さん」
その声に、不思議と怒りはなかった。
エルナは申請書を見た。
それから、最後の一行にペンを置く。
「では、私費で」
エルナは最後の一行を消し、書き直した。
『その他 私費。精算対象外』
その時、扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
食堂の給仕係だった。
ガレスが扉を開ける。
給仕係は盆を持っていた。木椀が三つ並んでいる。白い湯気が立っていた。
何故か懐かしく感じる匂いが、応接室に満ちる。
じゃがいものスープ。
白く、少しとろみがある。
上には刻んだ香草が落とされていた。
給仕係は魔王様、エルナ、ガレスの前に椀を置いた。
俺の前にはない。
当然だ。
紙はスープを飲まない。
湯気だけが、表紙の端を少し温めた。
給仕係は盆を胸の前で持ったまま、少しだけ口を開きかけた。
何も言わなかった。
魔王様の前で、言葉を選びきれなかったのかもしれない。
魔王様は木椀を手に取る。
黒炎の鎧の指先が、湯気の向こうで静かに動いた。
ひと口。
ふた口。
椀が卓に戻る。
魔王様はしばらく白いスープを見ていた。
「……よい時代になったものだ」
小さな声だった。
部屋には、はっきり聞こえた。
給仕係の盆がほんの少し傾く。
すぐに持ち直された。
顔は伏せたままだった。
伏せた目元に光るものがある。
魔王様はそれ以上言わない。
エルナも目を伏せている。
給仕係の目元を、見ないでおくように。
俺には、その一言の意味が全部分かったわけではない。
細かい事情は分からない。
けれど、これは味だけの話ではなかったのだろう。
魔王様は、それ以上何も言わなかった。
それからの時間は、思っていたより長かった。
竜運側の注文控え。
厩舎の搬出記録。
給仕記録。
応接室使用簿。
会議目的の補記。
参加者の記録。
領収書紛失に関する事情書。
紙が増え、卓に並び、差戻し書類は少しずつ差戻しではなくなっていく。
昼食代には、会議中の提供食である旨。
手土産代には、竜運との交渉に必要な贈答である旨。
夕食代は接待交際費へ。
その他金二十枚は削る。
朝には白かった中庭の雪が、夕方の色を含んでいる。応接室の暖炉には薪が足された。
魔王様の茶は三度替えられ、焼き菓子の皿は二度空になった。
最後の一枚に、エルナが補記を書き終える。
『領収書原本は紛失。代替証憑として竜運注文控え、厩舎搬出記録、給仕記録、応接室使用簿を添付。費目を再整理のうえ再提出。』
エルナはペンを置いた。
「こちらで再提出可能です」
「助かった」
魔王様の声は短かった。
エルナの肩が少し下がる。
魔王様が立ち上がった。
「エルナ」
「はい」
「よく務めよ」
「はい」
エルナの声はまっすぐだった。
魔王様は書類の束を手に取る。
卓上の空になった木椀を見た。
何も言わない。
一度だけ、目を細めたように見えた。
応接室の扉が開く。
廊下の向こうで門番の慌てた声がした。きっと兜がまたずれている。
正面門が開く音が、遠くから響いた。
魔王様は帰っていった。
三回目の差戻し書類を抱えて。
応接室には静けさが残った。
茶器。
空になった木椀。
赤い差戻し印の書類は、もうない。
湯気の名残が薄く漂っていた。
「……終わりましたね」
エルナが言った。
「はい」
ガレスが答える。
「本日分の決裁はまだ残っております」
「……そうですね」
エルナは小さくうなずいた。
俺は再び抱えられ、執務室へ戻った。
窓の外は夕方だった。
赤い夕陽が、積もった雪の稜線を薄い金色に染めている。
エルナはしばらく黙っていた。
それから俺を開く。
『魔王様来訪時の対応』
朝読んだ項目だ。
『魔王様は割と寒がりだ。』
『用件は聞いてから考えろ。先に考えても当たらない。』
エルナはペンを取った。
前任者の乱暴な字の下に、整った細い字を足す。
『差戻し書類をお持ちの場合、領収書が必要であることをお伝えし、温かいものと証跡を用意すること。』
「……業務手順でしょうか、これは」
「必要な記載かと」
ガレスが答える。
エルナは小さくうなずいた。
俺は何も書かない。
今日の一文は使ってしまった。
余白に新しい文字が増えている。
前任者の字。
俺の字。
エルナの字。
この書類は、少しずつ引継ぎ書になっていくのかもしれない。
廊下を、食堂へ向かう兵たちの足音が通り過ぎていく。
誰かの小さな笑い声が、扉の向こうで一度だけ弾んだ。
今日の食堂には、じゃがいものスープがある。
窓の外では、雪が静かに青くなっていた。




