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ep.1 着任

 暖炉の火が、小さくはぜた。


 その音で、俺は自分がそこにあることを知った。


 机の上に、擦れた革表紙と、厚い紙を束ねる綴じ糸。どうやら、それが今の俺らしい。


 目も手もない。息もしていない。


 それなのに俺は俺だった。


 なぜそう分かるのかは分からないし、そもそも俺が何だったのかも思い出せない。


 動こうとしてみたが、もちろん動けなかった。声を出そうにも、その声が自分のどこにあるのかすら分からない。


 表紙と紙、それを束ねる綴じ糸。


 それが今の俺の全部だった。


 では、俺とは何なのだろう。


 この表紙なのか、中の紙なのか。そこに書かれた文字なのか。


 考えても答えは出なかった。焦ったところで紙は一枚も動かない。


 暖炉の赤が、部屋の石壁に淡い影を揺らしている。


 その揺れを追うように、俺は周囲へ意識を向けた。


 見える、というのとは少し違う。


 目はない。それでも机の上に置かれている間、俺にはこの部屋の中が分かった。


 暖炉の火。窓の外に降る雪。壁際を走る魔導パイプと、その途中に据えられた蓄熱魔石の台座。


 台座の上では、やかんが湯気を上げている。


 知らないはずなのに、それぞれの名前は分かった。


 暖炉。魔導パイプ。蓄熱魔石。


 それが俺自身の知識なのか、この書類に染みついたものなのかまでは分からない。


 ただ、一つだけ確実に読めるものがあった。


 俺自身の表紙だ。


『魔王軍北方支部 支部長業務引継ぎ書』


 どうやら、それが俺の名前らしい。


 名前なのか、題名なのか、それとも役目なのか。


 やっぱり、よく分からなかった。


 その時、扉の向こうから足音が近づいてきた。


 扉が開き、銀灰色の髪をきちんとまとめた女性が入ってくる。黒い軍服の上から北方用の外套を羽織り、その斜め後ろには大柄な男が続いていた。


 女性は机の前まで来ると、姿勢を正した。


「エルナ・グレイヴェイン、着任いたしました」


 大柄な男が短く頭を下げる。


 エルナは一度室内を見回してから、机の上の俺へ目を落とした。


「……これが、前任者殿からの引き継ぎですね」


 表紙に掛けた指が、一度止まる。


 それから俺を開いた。


 一枚目には、折り畳まれた北方支部の管轄図が挟まれていた。


 エルナはそれを取り出し、俺の隣へ広げる。


 主要街道。補給所。橋。村。魔導パイプの敷設区間。蓄熱魔石の交換所。


 地図の余白には、大きく乱れた字があった。


『冬は地図を信用しすぎるな。道はだいたい動く。』


 エルナが眉を寄せた。


「道が……動く」


「雪で埋まります。迂回路もできます。村人が踏み固めた道のほうが使えることもあります」


 後ろにいた男が答えた。


「比喩ではないのですね」


 男は、広げられた地図の街道へ目を落とした。


 エルナはしばらく地図を見てから、俺の次のページをめくった。


『蓄熱魔石の交換は三日前倒し。帳簿どおりにやると凍る。』


 もう一枚。


『食堂のじゃがいもは切らすな。雪の日ほど減る。』


 さらにもう一枚。


『人間の村と魔族の村を、雪は区別しない。こちらも急ぐ時は区別するな。』


 ページをめくる手が止まった。


「……ガレス副官」


「はい、支部長」


 ガレスというらしい。


「これは、正式な引き継ぎ書なのですよね」


「正式です」


「業務手順は」


「各項目の行間に」


「行間……」


 ガレスは開かれた頁へ目を落とした。


 エルナも同じ頁を見下ろす。


「……なるほど」


 たぶん、分かっていない時の声だ。


 俺も何も分かっていないので、少し親近感が湧いた。


 暖炉の明かりが紙面の端を照らしている。


 エルナは、もう一度前任者の字を読んでいた。


『人間の村と魔族の村を、雪は区別しない。』


 乱暴な字だった。


 けれど、どうでもいいことを書き散らしたようには見えない。


 廊下の向こうから、速い足音が近づいてきた。


 扉の前で止まり、一拍置いてから叩かれる。


「失礼します」


 入ってきたのは獣人の兵だった。外套の肩と耳の先に、払いきれなかった雪が残っている。


「兵卒カイル、報告します。北西街道三番標付近で雪崩です」


 エルナの手が止まった。


「被害は」


「街道が塞がっています。戻ってきた馬車が一台。今のところ、連絡はそこまでです」


「その先は?」


 カイルが机の上に広げられた地図へ目を向ける。


「ハルザ村があります」


 エルナの視線が地図へ落ちた。


「……王国側の村ですね」


「はい」


 人間の村。


 その言葉がどれほど重いのか、俺にはまだ分からない。魔王軍と王国がどんな関係なのかも知らなかった。


 ただ、ハルザ村の文字に置かれたエルナの指が、そのまま止まっている。


 雪崩で街道が塞がれ、その先には王国側の村がある。


 彼女はすぐには答えなかった。


 背筋は伸びたままで、声も乱れていない。それでも、地図から指が離れないことだけは分かった。


 俺にも雪崩の対処法は分からない。


 北方の流儀も、軍の判断も知らない。


 ただ、開かれたページの余白を見ているうちに、そこへ何かを書けるような気がした。


 意識を向ける。


 細い文字が、ゆっくりと紙の上へ浮かんだ。


『少し、温かいものを飲みませんか。』


 エルナの目が止まった。


 ページを押さえていた指も、そのまま動かない。


 その横では、ガレスとカイルが三番標付近の状況を確認していた。


 エルナは余白に浮かんだ一文を、もう一度見る。


「……今、ですか」


 俺にも、今でいいのかは分からない。


 ガレスが地図の一点を指した。


「二日前の雪が重かったため、三番標付近は警戒していました。昨夜から気温も緩んでいます」


 指先は、報告のあった場所と重なっている。


「除雪隊は、いつでも出せます」


 それだけ言って、ガレスは手を引いた。


 エルナは地図を見る。


 北西街道、三番標、その先のハルザ村。


 そして、開かれた俺のページに残る前任者の字。


『人間の村と魔族の村を、雪は区別しない。こちらも急ぐ時は区別するな。』


 やがて、エルナが顔を上げた。


「除雪隊を出します」


 声は大きくなかったが、ガレスとカイルがすぐに姿勢を正した。


「軍旗は掲げず、救援標識のみ。武装は最低限。名目は街道復旧。ハルザ村の状況確認を優先してください」


「承知しました」


 ガレスが短く頭を下げる。


「カイル」


「はい」


「戻ってきた馬車の方から、分かる範囲で状況を聞いてください。村側に怪我人がいる可能性もあります」


「承知しました」


 二人が部屋を出ていった。


 扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 しばらくすると、厚い壁越しに中庭の音が聞こえ始めた。


 金具が触れ、扉が開き、雪を踏む足音が重なる。


 大きな掛け声はない。


 それでも、何かが動き出したことは分かった。


 エルナはしばらく、広げられた地図を見ていた。


 やがて机の上の出動記録を引き寄せた。


 ペン先が紙に触れる。


『北西街道三番標付近、雪崩発生。街道復旧のため除雪隊を派遣。』


 そこまで書いて、手が止まった。


 エルナが俺を見る。


 正確には、余白に増えた一文を見ていた。


『少し、温かいものを飲みませんか。』


 暖炉の薪が、小さく鳴った。


 エルナは壁際のやかんへ目を向ける。


「……そうですね」


 立ち上がってやかんを下ろし、茶器に湯を注いだ。


 茶器を両手で包んでから、エルナはまた机へ戻ってくる。


 一口飲み、俺を見下ろした。


「……あなたは、何者なのですか」


 俺は答えようとした。


 引き継ぎ書です。


 いや、それは表紙に書いてある。


 私にも分かりません。


 たぶん、それが一番正しい。


 さっきと同じように余白へ意識を向けた。


 けれど、文字は浮かばなかった。


 何度やっても同じだった。


 さっきは書けたのに。


 エルナはしばらく待っていたが、やがて茶器へ口をつけた。


「……答えられないのですね」


 俺はもう一度書こうとした。


 やっぱり何も出ない。


「私も、まだ分からないことばかりです」


 俺もです。


 そう書ければちょうどよかったのだが、それも無理だった。


 エルナは机に戻り、出動記録の続きを書き始めた。


『救援標識を使用。武装は最低限。ハルザ村の状況確認を行う。』


 ペン先が紙の上を進んでいく。


 窓の外では、雪が降っていた。


 暖炉の明かりと、机の上に広げられた地図。湯気を上げる茶器。その向こうで、新しい支部長が出動記録を書いている。


 俺はまだ、自分が何なのか分からない。


 エルナも、分からないことばかりだと言った。


 とりあえず今は、それでいいのかもしれない。


 雪は、静かに降り続いていた。


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