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ep.18 彼は一体誰なんですか

 春季の台帳整理は、午前中で終わる予定だった。


 朝の報告書に異常はなく、巡回班も予定どおり出発している。


 開けた窓から訓練中の兵士たちの声が聞こえ、執務室の机には備品台帳と文書台帳が並んでいた。


 いつもと変わらない朝だった。


 ガレスは筆記具や印章の数を確かめ、エルナが答えるたびに台帳へ印をつけていった。


 確認を終えた品が、机の端へ移されていく。


 やがて、ガレスの手が止まった。


 その視線の先には、開かれた俺がいた。


「ところで、彼は一体誰なんですか」


 エルナも俺を見た。


「引継ぎ書の方です」


 エルナは困ったように俺の表紙へ目を落とした。


 表紙には題名がある。


 魔王軍北方支部。


 支部長業務引継ぎ書。


 名前らしいものは、それだけだった。


 エルナは時折、俺を「この方」と呼んだ。ほかの者は、たいてい引継ぎ書と呼んでいる。


 これまでは、それで十分に話が通じていた。


 ところが台帳には、呼びかければ通じるという項目がないらしい。


「どの台帳へ登録するかを決める必要があります」


 ガレスは空いている欄を指した。


 文書なら、文書番号と保管場所。


 魔導具なら、管理番号と整備担当者。


 職員であれば、そもそも備品や文書として登録してはいけない。


 俺が文書なのかどうかは、俺にも分からなかった。


 表紙があり、頁があり、そこには文字が書かれている。少なくとも、見た目は文書だった。


 だが、普通の文書は話を聞き、自分で文章を書き加えたりはしない。


 その指摘には反論できなかった。


 反論するとしても、一文ではとても足りなかった。


「まずは、魔導具かどうかを確認しましょう」


 何も起きる予定のなかった一日は、そこで予定を変えた。


 魔導具整備係の作業場へ着いても、エルナはすぐには俺を渡さなかった。


「検査で、表紙が傷むことはありませんか」


「測定器を近づけるだけです。傷つけるようなことはしません」


「強く押さえないでください」


「分かっています」


 数回の問答のあと、エルナはようやく作業台へ置いた。


 整備係が、細い針のついた測定器を取り出す。


 それが表紙へ近づくと、エルナも動きを追うように身を乗り出した。


「触れても大丈夫なものですか」


「まだ触れていません」


「もし反応があった場合は?」


「その時に調べます」


「危険はありませんか」


 整備係は手を止めた。


「支部長。少し離れていただけますか」


 エルナは一歩だけ下がった。


 視線は俺から離れなかった。


 測定器が表紙と背へ順番に近づけられた。


 針は動かない。


 整備係が俺を裏返そうとした時、エルナの手がわずかに動いた。


 手を出しかけて、途中で止めたらしい。


 魔石も刻印も見つからなかった。


 革も紙も綴じ糸も、一般に使われているものだった。


「魔導具ではないということですか」


「魔導具である証拠が見つからない、です」


 整備係はそう答えた。


 検査が終わると、エルナはすぐに俺を抱え直した。


 俺としては、文書でも魔導具でも大きな違いはなかった。


 エルナにとっては、無事に戻ったことの方が重要だったらしい。


 執務室へ戻ると、今度は俺の頁が最初から調べられた。


 もともと記されていた業務上の注意や手順は、すべて前任支部長の筆跡だった。


 その後に俺が浮かべた文字は、前任者のものとは違っている。


 そもそも、筆で書かれたものではなかった。


 最初の頁には、前任支部長が俺を使い始めた時の記録が残っていた。


 保管庫にあった古い白紙の綴じ本を、支部長業務引継ぎ書として使用する。


 大きさがちょうどよいため。


 俺の始まりは、思っていたより簡単な理由だった。


 前任者が保管庫で見つけた時には、すでに古い本だったらしい。


 だが、誰が作ったのかは書かれていない。


 なぜ白紙のまま保管されていたのかも、俺がいつから考えるようになったのかも分からなかった。


「前任支部長へ確認してはどうでしょう」


 エルナが言った。


「現在は連邦へ出向中です」


 ガレスは人事記録を確かめた。


「照会はできますか」


「本部と、連邦側の窓口を通す必要があります」


「返答はいつ頃になりますか」


「早くても一年後くらいかと…」


 ガレスは、今日中に整理する予定だった台帳を見た。


「間に合いませんね」


 前任者の返答を待たず、その日のうちに扱いを決めることになった。


 昼を過ぎる頃には、俺の身元を調べているという話が支部内へ広まっていた。


 広まるのが早い。


 少なくとも、俺の正体が判明するよりは早かった。


 最初に問題になったのは、名前だった。


 表紙の題名を名前として扱う案は、毎回すべて読み上げるには長すぎるという理由で退けられた。


 カイルは「引継ぎさん」を提案した。


 急に近所に住んでいる親戚のようになった。


 ガレスは分類上の名称として、


 自律記載式業務補助冊子。


 と紙へ書いた。


 俺は急に、倉庫の奥へ眠る複雑な器具になった気がした。


 名前の次は、正体についての説が集まり始めた。


 歴代支部長の誰かの魂が宿っているのではないか、という説も出た。


 俺の中へ、知らない支部長を勝手に入れないでほしい。


 古い魔術師が作った本だという説もあった。


 長く保管されているうちに、自然と意思を持ったのだという説もあった。


 何者かが死んだあと、この本へ転生したのではないかという者もいた。


 それは、俺自身も疑ったことがある。


 だが、以前の記憶は一つもなかった。


 転生したのか、最初から本だったのか、俺にも確かめる方法はない。


 どの説にも根拠はなかった。


 根拠がないという点だけは、すべての説で一致していた。


 午後には、厨房長まで執務室へやってきた。


 申請書を置きに来ただけだったが、机に広がる人事記録や測定器を見て、俺が職員に当たるかどうかを考え始めた。


 給金は支給されていない。


 部屋は執務室。


 食事も取らない。


 これだけなら、職員ではないように見える。


 だが、ガレスも昼食を取らないことがあるとエルナが指摘したため、食事の有無は判断材料から外された。


 休暇についても尋ねられた。


 俺は休暇を取ったことがない。


 閉じられて棚に置かれている時間を休みと呼ぶなら、かなり休んではいる。


 厨房長は結論を出さないまま、申請書を残して戻っていった。


 人が来るたび、説と呼び名だけが増えた。


 俺が何者なのかは、分からないままだった。


 夕方が近づく頃、ガレスは備品台帳を閉じた。


「備品としては登録しません」


 代わりに、文書台帳が開かれた。


「分かる範囲で、重要文書として登録します」


 名称は、魔王軍北方支部支部長業務引継ぎ書。


 保管場所は、支部長執務室。


 管理責任者は、北方支部長。


 ガレスは備考欄で筆を止めた。


「意思があることも記載しておきます」


 備考欄へ、新しい一文が加えられた。


 意思あり。


 重要な取扱変更に際しては、可能な限り本人の意向を確認すること。


 文書として登録されたのに、本人でもあるらしい。


 分類として正しいのかは分からなかったが、これ以上調べても空欄が増えるだけだった。


「これで、台帳上の扱いは決まりました」


 ガレスは記入した内容を読み返した。


「ですが、彼が誰なのかは分かっていません」


 朝と同じ問いだった。


 一日かけて資料と候補だけが増え、答えは一つも増えていない。


 俺が誰なのかは、結局分からなかった。


 それでも、俺の保管場所が支部長執務室であることに異議を唱える者はいなかった。


 俺の意向を確認することにも、誰も反対しなかった。


 名前も出自も分からないまま、皆は俺を北方支部の仲間として扱ってくれていた。


 今は、それでよかった。


 エルナは俺をいつもの場所へ戻し、頁を開いた。


「いつもの引継ぎ書の方ではないでしょうか」


 名前ではない。


 正体でもない。


 けれど、今の俺を示すには十分だった。


 頁に文字が浮かんだ。


『それで構いません。』


 エルナはその一文を見つめ、ほっとしたように微笑んだ。


 ガレスは文書台帳の備考欄へ印をつけた。


「本人の意向を確認しました」


 そして台帳を閉じる。


「では、これまでどおりで」


 エルナはうなずいた。


 それから俺の頁へ少し顔を寄せ、小さな声で言った。


「これからも、よろしくお願いします」


 俺はもう返事を書けなかった。


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