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ep.17 お花見をしましょう

『お花見をしましょう。』


 朝、エルナが俺を開いた時、頁にその一文が現れていた。


「お花見、ですか」


 エルナは一文を読み上げ、窓の外へ顔を向けた。


 北方支部の中庭が見える。


 石畳の中央に立つ木は、枝いっぱいに淡い花をつけていた。


 冬には雪を載せていた枝が、今は花に覆われている。


 朝の風が通るたび、枝先の花が小さく揺れた。


「花を見る、ということでしょうか」


 俺は続きを書けなかった。

 理由を書こうにも、特に理由もない。


 ただ、そう思っただけだった。


 エルナはしばらく木を眺めたあと、俺を抱えたままガレスの机へ向かった。


 ガレスは一文を読み、中庭の木を見た。


「皆を集めるのですか」


「せっかくですから」


「全員が同時に持ち場を離れることはできません」


 エルナは勤務表へ目を落とした。


「では、交代で見られるようにしましょう。花を見ながら皆で休憩できたらいいなと思います」


「誰が交代表を作るのですか」


 エルナはガレスを見た。


 ガレスは小さく息をつき、勤務表を手元へ引き寄せた。


「開催出来ると決まったわけではありません」


「はい」


 エルナは素直にうなずいた。


 ガレスはすでに、勤務表の余白へ交代時間を書き始めていた。


 第一組は昼前。


 第二組は昼過ぎ。


 第三組は遅い午後。


 門番と伝令係は、その間をさらに細かく交代する。


「昼をまたぎますね」


 エルナが勤務表を見ながら言った。


「食事の時間も組み込む必要があります」


「それなら、食事も中庭で取れるようにしましょう」


 ガレスの手が止まった。


「花を見るだけではなかったのですか」


「食堂へ戻っていたら、ゆっくり見られませんから」


 ガレスは少し考え、勤務表へ新しい線を引いた。


 エルナが各持ち場への連絡事項を書き出し、ガレスが交代表を整えているうちに、時刻は昼前になっていた。


 厨房長が献立表を持って執務室へやってきた。


「中庭へ料理を運べばいいんですね」


「昼食を取れるようにお願いします」


 エルナが答えた。


「花を見るために料理を外へ出すのは、初めてですね」


 厨房長は献立表を開いた。


「いつもの昼食をそのまま運ぶと冷めます。外で食べやすいものに変えましょう」


 焼きパン。


 春の山菜を詰めた包み焼き。


 薄く切った保存肉。


 魚の燻製。


 豆と根菜の煮込み。


 厨房長の手が、献立表の下まで進んだ。


「甘い焼き菓子もつけますか」


「昼食ですよね」


 ガレスが確認した。


「外で食べるなら、少しくらいあってもいいでしょう」


 エルナが言った。


 厨房長は焼き菓子を書き加えた。


「飲み物は香草茶と果実水で。酒は出しますか」


「花を見るだけなら必要ないでしょう」


 ガレスが勤務表から目を離さず答えた。


「麦酒ならいつものエールと…氷室仕込みを開けても良いですが」


 ガレスの手が勤務表の上で止まった。


「毎年、春に開ける試し仕込みの中樽があります。いつもは厨房の連中だけで味見に使うんですが、せっかくなら」


「状態は」


「今日のうちに確かめます」


「このあと勤務がある者には出せません」


「非番の者と、勤務を終えた者には?」


 ガレスはまた勤務表へ目を落とした。


「その範囲なら構いません」


「昨年の葡萄酒の樽も残っています」


 厨房長が言った。


 エルナは何も言わなかったが、献立表へ目を向けた。


「それも同じ条件で」


 ガレスは赤い印を付ける欄を作り始めた。


「追加の食材と酒は、福利厚生費に計上します」


「福利厚生費ですか」


「こういう時に使う費目です」


 厨房長が執務室を出る頃には、昼食の予定だった献立表に料理と酒が隙間なく書き込まれていた。


 花見は、最初に俺が提案した二日後に開かれることになり、その日のうちに予定が支部全体へ広まった。


 第二巡回班は昼前に戻れる。


 門番は交代を半刻早めれば、全員が一度は中庭へ行ける。


 伝令係は、急ぎの書状がなければ第二組へ入れる。


 倉庫係は、食事をするなら長机と椅子が必要だと言った。


 別の者が、せっかく外で食べるなら木の下へ布も敷こうと言い出した。


 厩舎担当は、雪狼を連れてきてもよいか尋ねた。


 誰も宴会を開こうとは言っていない。

 それでも、必要なものは一つずつ増えていった。


 支部の者たちは、自分がどの組へ入り、何を持っていくかだけを話していた。


「花見のために勤務へ穴を空けないように」


 ガレスは花見のあとに勤務へ戻る者の欄には、赤い印を付けた。


「赤印の者は飲酒禁止です」


「一杯だけでも?」


「酒に一杯だけという区分はありません」


「水で薄めても?」


「酒です」


 赤い印の付いた兵士たちは、勤務表を見下ろした。


 誰かが、非番の者と勤務を代われないか相談を始める。


「飲酒を目的とした勤務交換は認めません」


 ガレスが勤務表から顔を上げずに言うと、相談はすぐに止まった。


 当直責任者には、酒を飲まない者が割り当てられた。


 夕方、完成した準備表がガレスの机へ置かれた。


 交代表。


 長机と椅子。


 中庭へ敷く布。


 料理。


 二種類の麦酒と葡萄酒。


 ガレスは上から下まで読み、エルナを見た。


「いつから宴会になったのですか」


 エルナは困ったような笑顔で準備表を見た。


 俺も答えを知らなかった。


 翌日は、朝から支部のあちこちに落ち着きがなかった。


 エルナは俺を抱え、支部の中を見て回った。


 厨房では料理の下ごしらえが始まり、廊下まで香辛料と焼いた肉の匂いが流れていた。


 倉庫では長机と椅子が一度すべて外へ出され、脚の緩んだものがないか確かめられている。


「普段の会議では、そこまで確認していませんよね」


 エルナが尋ねると、倉庫係は椅子の脚を揺らしながら答えた。


「会議中に壊れても、立って続けられますので」


「花見では?」


「酒を持ったまま転ばれると困ります」


 中庭へ敷く布は洗い直され、日当たりのよい場所へ並べて干された。


 厨房の奥から葡萄酒の瓶が運び出されると、通りかかった兵士が何人も足を止めた。


 勤務表の前にも人が集まっていた。

 自分の名を確認し、赤い印が付いている者が肩を落とす。


 印のない者は何も言わず、その隣で少しだけ姿勢を正していた。


 厩舎では、雪狼へ与える肉が人間用とは別の籠へ分けられた。


 中庭を横切る者は、用がなくても一度は木を見上げた。


 まだ花見は始まっていない。


 それでも支部の中には、明日を待つ気配が少しずつ増えていた。

           ◇


 当日、日が昇る前から中庭に人の出入りがあった。


 倉庫から長机と椅子が運ばれ、厨房からは食器や大鍋の入った籠が届く。


 木の下へ布を広げる者もいれば、酒を置く場所を相談する者もいた。


 厨房からは、いつものエールを入れた中樽と、冬に仕込んで氷室へ置いていた麦酒の中樽が運ばれてきた。


 まだ朝食の時間にもなっていないというのに、支部の者たちは普段より少しだけ早足だった。


 誰も急げとは言っていない。

 それでも準備は、予定より早く進んでいった。


 花見の責任者として今日一日非番とされたエルナは、俺を抱え中庭へ出てきて準備の様子を見ていた。


 庭師は木の下に立ち、花のついた枝を一本ずつ見上げていた。


「綺麗ですね」


 エルナが声をかけると、庭師は枝から目を離さずにうなずいた。


「北側の枝が一本折れましたが、残った枝は冬を越しました」


 庭師は幹へ手を添えた。


「冬に魔王様がお越しになった時、この木を気にされていたのです」


「魔王様が?」


「雪の重みで、枝が折れないかと」


 エルナも木を見上げた。


 淡い花が朝の風に小さく揺れている。


「では、しっかり花が咲いたことをお伝えしないといけませんね」


「ええ。その前に、今日は皆さんに見てもらえそうです」


 庭師の後ろを、カイルともう一人の兵士が長机を抱えて通り過ぎた。


「そこはもう少し右です」


 庭師が言う。


 二人は机を止めた。


「木の根がありますので」


 カイルたちは黙って机を持ち上げ直した。


 昼前になると、厨房から料理が運び込まれた。


 会議の時には地図や報告書が並んでいた机へ、今日は皿と杯が置かれていく。


 別の机には二種類の麦酒を入れた樽と、葡萄酒の瓶が並んだ。


 焼きパンの匂い。


 山菜と肉を焼いた香り。


 大鍋から立つ湯気。


 樽の栓が開けられると、非番の者たちから小さな歓声が上がった。


 最初の交代組が中庭へ入ってくる。


 エルナは俺を木の下の机へ置いた。


 厨房長が酒を注ぎ始めると、エルナは迷わず葡萄酒の杯を取った。


 非番の兵士の一人は、すでに麦酒の杯を口元まで運んでいた。


「まだ乾杯してないぞ」


 厨房長が止める。


「全員はそろわないんだろ?」


「第一組がそろうまで待て」


「門番は?」


「交代してから来る」


「巡回班は?」


「もう門を通ったってさ」


 全員がそろうまで待っていたら、先に来た者が持ち場へ戻る時間になってしまう。


 結局、門番と巡回班が中庭へ入ったところで、最初の杯が持ち上がった。


「春に」


 誰かが声を上げた。


「故郷に」


 カイルが続ける。


「冬を越した木に」


 庭師が言った。


「北方支部に」


 最初の乾杯は、少し改まったものになった。


 麦酒と葡萄酒。


 香草茶と果実水。


 それぞれの杯が触れ合う。


 エルナは葡萄酒を一口飲み、満足げに杯を光に照らして眺めている。


 中庭には料理の匂いと、人の声が広がっていった。


 非番の者たちは遠慮なく騒いだ。


 冬の巡回で誰が一番深い雪へ沈んだかを言い争い、葡萄酒の出来を勝手に採点する。


 保存肉の皿を抱え込んだ兵士は、厨房長に見つかり、次の組の分を戻すよう叱られた。


 巡回から戻った者は、装備を外す前に木を見上げた。


 伝令係は書状を抱えたまま中庭を横切り、呼び止められて焼きパンを一つ渡された。


 厨房の者たちも、料理を補充する合間に焼き菓子を口へ入れる。


 雪狼たちは厩舎担当とともに木陰へ伏せていた。


 花びらには興味を示さなかったが、保存肉の皿が動くたびにそろって顔を上げた。


 第一組が持ち場へ戻る頃、第二組が中庭へ入ってきた。


 新しい者が来ると、また杯が上がる。


「無事に戻った巡回班に」


「いつも戻ってるだろ」


「今日も戻ったことに!」


 言い直され、巡回班も杯を上げた。


 厨房長が少し遅れて席へ着くと、


「今日の料理に!」


 という声が飛んだ。


「まだ全部出してないぞ」


「残りの料理にも!」


「先に食べるな!」


 乾杯の理由は、少しずつ怪しくなっていった。


 何度目かの乾杯で、エルナの名が呼ばれた。


「支部長に!」


 急に杯を向けられ、エルナは葡萄酒の杯を持ったまま目を瞬いた。


「私ですか」


「花見を許可した支部長に」


「提案したのは、この方です」


 エルナが俺を示す。


 すると杯の向きが、机の上の俺へ移った。


「じゃあ、引継ぎ書に!」


 何人もの杯が、開かれた俺の頁の前で持ち上がった。


 俺は返事を書かなかった。


 その代わり、エルナが楽しそうに葡萄酒の杯を上げた。


 新しい交代組が来るたび、乾杯は続いた。


「明日の非番に!」


「俺、明日勤務なんだけど」


「じゃあ今日の非番に!」


「まだ残ってる葡萄酒に!」


「全部飲む気か!」


「雪狼に取られなかった保存肉に!」


「まだ狙われてるぞ!」


 また笑い声が上がった。


 途中から、何度目なのか分からなくなった。


 最後には、新しく来た者が杯を持つ前から声が飛んだ。


「とりあえず乾杯!」


 何に対する乾杯なのかを尋ねる者は、もういなかった。


 ガレスは中庭へ顔を出すたび、勤務へ戻る者が酒を飲んでいないことだけを確かめた。


 それ以外には何も言わなかった。


 やがて自分の交代時間になると、ガレスも中庭へ出てきた。


「ガレスさんの席はこちらです」


 エルナが空いている椅子を示した。


「私が決めた席ですか」


「私が空けておいた席です」


 ガレスは椅子へ座った。


 厨房長が二つの樽を指差す。


「いつものエールと、あっちが冬仕込みです」


「冬仕込みをお願いします」


 ガレスは差し出された杯を受け取った。


 近くにいた兵士たちが、すぐに自分の杯を持ち上げる。


「交代表を作ったガレスさんに!」


「勤務へ穴が空かなかったことにしてください」


「では、調整した全員に!」


 ガレスも一緒に杯を上げた。


 それから何度か交代の者が中庭へ入り、そのたびに新しい乾杯が行われた。


 日は少しずつ傾き、木の影が長机の下まで伸びてきた。


 枝を通り抜けた風が、料理の匂いと笑い声を中庭の奥へ運んでいく。


 ガレスの杯も、いつの間にか五杯目の麦酒で満たされていた。


「麦酒にはいくつか種類がありまして」


 ガレスが隣の兵士へ話し始めた。


「発酵の方法によって、味も香りも変わります。冬に仕込んで氷室へ寝かせていたものは――」


「ガレスさん、乾杯しましょう」


「今、発酵について説明しているところです」


「では、発酵に!」


 また杯が上がった。


 ガレスは少し納得していない顔をしながらも、乾杯には応じた。


 エルナは葡萄酒の杯を手に、その様子を笑いながら眺めていた。


 今日は俺の上に、地図も申請書も広げられていない。


 そばには葡萄酒の杯と、半分に割られた焼きパンがある。


 厨房長が葡萄酒の瓶を持って通ると、エルナは空きかけた杯をそっと差し出した。


 酒が注がれるのを見届けてから、俺の方へ顔を寄せる。


「これでよかったですか」


 俺は答えなかった。


 中庭には笑い声があった。


 杯が机へ置かれる音がした。


 誰かが葡萄酒をこぼし、別の誰かが布を取りに走った。


 同じ木の下を、仕事へ戻る者と、これから休む者が入れ替わっていく。


 枝の間を通った風が、何枚かの花びらを石畳へ落とした。


 遅い午後になると、最後の交代組が中庭へ入ってきた。


 厨房の者たちも仕事を終え、ようやく席へ座る。


 残してあった料理が並べ直され、最後の酒が杯へ注がれた。


 すでに何度も乾杯していた非番の者たちが、また杯を持ち上げる。


「残念ですが、これで最後です」


 ガレスが言った。


「乾杯がですか。酒がですか」


「両方です」


 誰かが笑った。

 皆、笑っていた。


 「では、明日に!」


 最後の乾杯は、それまでより少しだけ静かだった。


 日は中庭の壁へ傾き、木の影が石畳へ長く伸びている。


 枝にはまだ多くの花が残っていた。


 風が通るたび、何枚かが音もなく落ちていった。


 最後の組が食べ終えると、片付けが始まった。


 空になった皿が厨房へ戻される。


 杯が重ねられ、樽の栓が閉められる。


 長机から布が外され、椅子が一脚ずつ運び出された。


 長机や椅子のあった場所が、少しずつ空いていく。


 非番の兵士たちも、最後には机を運んだ。


 酔った者が二人で一脚の椅子を運ぼうとして、厨房長に一人で持つよう言われている。


 最後の樽が厨房へ戻された。


 ガレスも今日は何も言わず、空になった杯を二つ重ねて運んでいった。


 木の下に残っていた長机も、やがて倉庫へ戻された。


 昼間は人の声で満ちていた中庭が、元の静けさを取り戻していく。


 枝にはまだ花が残っている。


 だが、その下に座る者はもういなかった。


 エルナは木の根元に腰を下ろし、俺を膝の上で開いていた。


 一枚の花びらが俺の頁へ落ちた。


 エルナはそれを指先で拾い、そっと頁の間へ挟んだ。


「来年も、できるでしょうか」


 頁に文字が浮かんだ。


『定例行事として制定してください。』


 エルナはその一文を見つめ、静かに微笑んだ。


 暮れかけた空の下で、枝に残った花が揺れていた。


 人のいなくなった石畳へ、花びらが一枚ずつ落ちていた。


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