ep.16 雪下の墓標
三番標付近で、倒れた墓標が見つかった。
報告が届いたのは、北西街道の雪がほとんど消えた朝だった。
エルナが机の上へ報告書を広げる。
「雪崩の影響ですか」
「そのようです」
ガレスが、巡回兵の描いた見取り図を指した。
三番標は、王国へ続く道、ハルザ村へ続く道、北方支部へ続く道が分かれる場所にある。
共同墓地は、そこからハルザ村へ向かう道を少し外れた斜面にあった。
毎年、雪解け後の巡回で状態を確かめている。今年は雪崩が墓地の上を通り、中央に立っていた墓標を斜面の下まで押し流していた。墓地を囲っていた石も、一部が土砂に埋まっているという。
「墓地については、古い記録が残っています」
ガレスは台帳の写しを取り出した。
『戦没者収容のため日没まで交戦停止。双方の戦没者十七名を同所へ埋葬し、墓標一基を設置。日没後、降雪激化により双方撤退。』
それだけだった。
戦闘があったのは、五十年ほど前だった。
その時すでに戦争は五十年以上続いており、今もまだ終わっていない。
「王国側にも連絡が必要でしょうか」
エルナが言った。
「すでに照会書を用意しています。本日午後、竜運の定期便が参りますので預けるようにしましょう」
ガレスは書類を一枚、机の端へ置いた。
「現地へ行かれる際は、こちらからは護衛を二名付けます。古い記録は原本ではなく、写しを持っていってください」
「墓標は動かしても?」
「いったんはそのままです。遺品や装備片が見つかった場合も、勝手に回収せず、位置を記録してください」
「補修が必要だった場合は?」
「墓標の状態と、墓地の範囲を記録してください。必要な資材は現地を見て判断します」
ガレスは照会書へ日付を書き込んだ。
「何を直すか決まる前に石を買うと、合わない石だけが支部に残りますので」
王国側からの返事は、三日後に届いた。
北辺守備隊から、事務官一名と護衛二名を派遣するという。
指定された日の朝、エルナは俺を抱え、魔王軍の護衛二名とともに三番標へ向かった。
護衛の一人はベテランの兵長だった。周辺の巡回経験が長く、落ち着いた口調で若い兵士へ指示を出している。
もう一人は縄や小さなつるはしを背負った若い兵士だった。
三番標へ着くと、王国側の三人はすでに待っていた。
中央に立っていた女性が、革張りの書類箱を抱えたまま一礼する。
「王国軍事務官、リディアです」
「魔王軍北方支部のエルナです」
その両脇には、王国の兵長と若い護衛兵が立っていた。
双方は所属と名を順に告げた。
王国側の護衛が二名。
魔王軍側の護衛も二名。
互いに武器を携えていたが、剣へ手をかける者はいなかった。
「現地では、双方とも抜剣しないようにお願いします」
リディアが確認した。
「魔獣や崩落への対処が必要な場合を除きます」
エルナが答える。
王国の若い護衛兵は、魔王軍の若い兵士が持つつるはしを見た。
魔王軍の若い兵士は、相手が抱えている測量棒を見た。
今日は武器よりも、道具の方が役に立ちそうだった。
三番標からハルザ村へ向かう道を進み、途中で斜面へ入る。
ほどなく雪崩の跡が見えた。
斜面にはまだ汚れた雪が残り、その間から折れた枝や石が突き出している。
流された墓標は、斜面の下で横倒しになっていた。
人の腰ほどの高さがある、簡素な石だった。
中央から大きく割れ、表面の文字はほとんど読めなくなっている。左右には、王国軍と魔王軍の古い印が小さく残っていた。
「記録にある墓標で間違いありません」
リディアが石の表面を調べた。
「墓地は斜面の上です」
魔王軍の兵長がそう言った。
一行は足元を確かめながら斜面を上った。
土砂の下から、いくつもの石がのぞいている。
自然に転がった石にも見えたが、近づくと一定の間隔で並んでいた。墓地の範囲を示す囲い石だった。
魔王軍の兵長が、その場で足を止めた。
土から半分だけ出ている石を、しばらく見つめている。
やがて膝を折り、表面についた土を手で払った。
「……この石です」
遠い記憶を確かめるように、彼は言った。
「あの時、私もこれを運びました」
エルナが兵長を見た。
「この戦闘に参加していたのですか」
「はい。当時の私は、まだ若い兵でした。冬が始まる頃、雪が強く、遺体を連れて帰ることができなかったのです」
兵長は囲い石から手を離さなかった。
「日が沈む前に、埋葬することになりました。王国兵が斜面の西側から石を運び、私たちは東側から運びました」
「十七名を同じ場所へ…」
リディアが尋ねた。
「はい。墓標は一基だけでした。立て終えた頃には雪が激しくなり、双方とも、それぞれの陣地へ撤退しました」
古い記録の内容と、兵長の話は一致していた。
エルナたちは墓を掘り返さずに調査を進めた。
露出した囲い石の位置。
墓標が立っていた基礎。
雪崩で削られた斜面。
土の上に出ていた装備片。
一つずつ場所を記録していく。
王国側の古い留め具が一つ。
魔王軍の装備札が一つ。
錆びた金具と、革紐の切れ端。
どれも持ち主を特定できるほど完全ではなかった。
昼前には、双方の記録が墓地の脇へ広げられた。
王国側の記録では戦没者は九名だった。しかし、名前が確認できるのは五名だけだった。残る四名は、冬季補充兵としか記されていない。
魔王軍側の戦没者は八名。こちらも三名の名前しか残っていなかった。
「合計は十七名です」
エルナが言った。
「埋葬人数とは一致します」
「ですが、名前が分かるのは八名ですね」
リディアは二つの記録を見比べた。
王国兵が五名。
魔王軍兵が三名。
残る九名は、どちらの軍に属していたかまでは分かる。だが名前が記録されていなかった。
「覚えている名前はありませんか」
王国の若い護衛兵が尋ねた。
魔王軍の兵長は、少し考えてから首を横へ振った。
「顔を覚えている者はいます。呼ばれていた名も、幾つかは覚えています」
「では、それを記録すれば」
「それが本名だったとは限りません」
兵長は静かに答えた。
「別の者と取り違えていないとも言えません。私の記憶だけで墓標へ名前を刻むべきではないでしょう」
リディアがうなずいた。
「間違った名前を残せば、次に見る者はそれを事実だと思います」
名前が分からないからといって、適当な名を置くことはできない。
確認できないものを、確認できたことにはできなかった。
エルナが俺を開いた。
俺は一文だけ書いた。
『記録には、分からなかったことも記すこと。』
それ以上は書けなかった。
エルナは俺の一文を読み、リディアへ見せた。
リディアはしばらく黙ってから、書類箱から新しい用紙を取り出した。
「墓地台帳を作りましょう」
判明した八名の名前。
それぞれの所属。
名前を確認した根拠。
名前が残っていない者が九名いること。
個々の埋葬位置は分けられていないこと。
雪崩で墓標が流され、囲い石の一部が埋没したこと。
分かったことと、分からなかったことが、同じ台帳へ記されていった。
「新しい墓標が必要ですね」
エルナが、割れた石を見下ろした。
「元と同じように、一基でよいと思います」
魔王軍の兵長が言った。
「十七名は、同じ場所に眠っています」
リディアも同意した。
「個人名は台帳へ残し、墓標には、この場所が双方の戦没者を埋葬した墓地であることだけを記しましょう」
「大きなものにする必要はありませんね」
「はい。雪崩で流された墓標の代わりになるものです」
現地調査を終えると、一行はそれぞれの記録を持って三番標へ戻った。
王国側は王国へ続く道へ、エルナたちは北方支部へ続く道へ分かれた。
支部へ戻ったエルナは、墓地の状態と調査図をガレスへ報告した。
「新しい墓標は、どのくらいの大きさにしますか」
「高さは、このくらいです」
エルナは立ち上がり、胸より少し下へ手をかざした。
「横は、このくらいで」
そのまま両手を広げようとして、高さを示していた手まで動かしてしまう。
エルナは一度手を戻し、改めて横幅を示した。
ガレスはしばらく見守ったあと、定規を差し出した。
「数値でお願いします」
「……寸法を出します」
◇
翌朝には、寸法と簡単な図面が机へ置かれた。
ガレスは石材店の見積書を確認する。
「この大きさなら、北方支部の墓地復旧費で対応できます」
「では、発注できますか」
「石材と三番標までの運搬費はこちらで負担します」
王国側からも書状が届いていた。
リディアの署名があり、王国側で石工を手配すると書かれている。
「石の仕上げと刻字は、王国側の負担だそうです」
エルナが言った。
「では、文字数の制限は王国側の規則に従ってください」
「長い碑文ではいけませんか」
「費用次第です。石工は一文字ずつ刻みますので」
碑文については、王国側と魔王軍側の間で何度か書状が往復した。
王国軍の名を先に書くか。
魔王軍の名を先に書くか。
戦闘の日付を入れるか。
判明した八名の名前を刻むか。
名前の分からない九名を、どう表すか。
最終的に、碑文は短いものになった。
『この地で戦い、ここに眠る者たちのために』
個人名や所属は刻まない。
分かった名前も、分からなかった人数も、詳細は墓地台帳へ残す。
石材が届いたのは、それから十日ほど後だった。
北方支部が発注した石は、荷車へ積まれて三番標まで運ばれた。
現地へ向かったのは、エルナと魔王軍の護衛二名。
墓標へ固定の刻印を施すため、魔導具整備担当も同行した。
王国側からは、リディア、護衛二名、石工が来ている。
双方の護衛は、前回と同じ顔ぶれだった。
「今度は、武器より道具の方が多いですね」
王国の若い護衛兵が荷車を見て言った。
「墓標は剣では立ちませんので」
魔王軍の若い兵士が答えた。
最初に墓地の囲い石を戻した。
残っていた石の位置と調査図を照らし合わせながら、雪崩で押された石を掘り起こして並べ直す。
王国兵が石を持ち上げ、魔族兵が地面をならした。
次の石では、魔族兵が支え、王国兵が土を詰めた。
割れた古い墓標は、文字の残る面を上にして、囲い石の内側へ低く据えられた。
石工は古い墓標の基礎を調べ、崩れた部分へ砕石を入れた。その上へ、北方支部が発注した石材を据える。
表面を整え、文字を下書きする。
一文字ずつ槌を振るう音が、春の斜面へ響いた。
最後の文字が刻まれる頃には、日は西へ傾き始めていた。
石工が道具を片づけると、魔導具整備担当が墓標の表面と基部を調べた。
「石材に亀裂はありません。刻印を入れられます」
「次の雪崩でも動きませんか」
エルナが尋ねた。
「固定の刻印は、石を地盤へ結びつけるものです。斜面そのものが崩れれば、石も一緒に流れます」
「雪崩を止める刻印ではないのですね」
「そこまでできれば、三番標より先に山へ刻んでいますよ」
魔導具整備担当は墓標の基部へ膝をついた。
細い工具で、石と地面の境をなぞっていく。
石工が刻んだ文字へ触れないように、固定の刻印を一つずつつないだ。
最後の線が閉じると、淡い光が墓標の底を巡った。
光は一度だけ石の縁を照らし、地面へ沈むように消えた。
「終わりました」
同じく膝をついて固定位置を支えていた魔王軍の兵長が、新しい墓標を見上げた。
その視線は、やがて墓地を囲う石へ移った。
「これなら、もう場所を見失いません」
リディアは墓地台帳へ、墓標の設置日を書き加えた。
道具が一つずつ荷車へ戻されていく。
帰る準備が整うと、王国側は墓標へ王国式の敬礼を捧げた。
魔王軍側も、魔族式の敬礼でそれに続いた。
手の形も、礼を捧げる姿勢も違っている。
五十年前には互いに武器を向けていた二つの軍の礼が、今は同じ墓標へ向けられていた。
やがて敬礼が解かれた。
「台帳の写しは、王国側でも保管します」
リディアが言った。
「こちらにも、同じ内容を残します」
エルナが答える。
「では、これで」
三番標へ戻ると、リディアたちは王国へ続く道へ、エルナたちは北方支部へ続く道へ分かれた。
歩き始めて間もなく、背後の足音が途切れたような気がした。
エルナが俺を抱えたまま振り返る。
王国の兵長が、先を歩く魔王軍の兵長の背を見ていた。
剣の柄へ手を添え、もう一方の拳を胸元へ当てる。
墓前で捧げたものと同じ、王国式の敬礼だった。
声はかけなかった。
魔王軍の兵長も振り返らなかった。
その背へ向けられた敬礼を見た時、俺の頁の奥に、何かが静かに残った。
王国側の戦没者名簿には、あの兵長と同じ姓があった。
それが偶然かどうかは、俺には分からなかった。
王国の兵長は手を下ろし、王国へ続く道を歩き始めた。
エルナも前を向いた。
北方支部へ続く道には傾いた日が差し、林の影が長く伸びていた。
先を歩く兵長の背が、木々の間へ入っていく。
振り返っても、三番標も共同墓地の墓標も、もう見えなかった。
荷車の音と雪解け水の音だけが、西日の残る道を北方支部へ向かっていた。




