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ep.15 魔獣が静かに通る道

 机の上に、灰色の木箱が置かれていた。


 側面にはクロイゼンの職人印が押され、その隣に竜運の荷札が貼られている。


 エルナが蓋を開けると、布に包まれた灰色の塊が並んでいた。


 竜威香だ。


 竜の鱗を細かく砕き、灰と混ぜて固めた魔獣避けの道具である。


 クロイゼンの職人が加工した完成品を、北方支部が仕入れている。材料となる鱗は竜運から比較的安く卸されるため、街道や集落の周囲では珍しいものではなかった。


 形は先の丸い小さな円錐に近い。


 火を入れても炎は上がらず、内側がゆっくりと燻る。一つで一月以上は効力が続き、その間、周囲へ竜の気配を放つ。火を消せば再び使うこともできる。


 人間や魔族には、温めた石と灰が混じったような匂いしか分からない。


 だが、魔を帯びて野に暮らす獣の多くは、近くに竜がいるように感じるらしい。


 魔獣と呼ばれてはいるが、魔王軍に従うわけではない。人間と魔族を見分けて畑を荒らすわけでもない。


 暮らしの場所が重なれば、どちらにも同じように被害が出る。


 竜威香は、獣を傷つけず、人の暮らしへ近づけないための道具だった。


「街道設置用が十二。携帯用が六です」


 ガレスが納品書を読み上げた。


 街道設置用は石や金属の香台に据える。


 携帯用は通気穴の開いた耐熱容器へ入れ、山へ入る者が腰に下げるものだった。


 未使用品、設置中、貸し出し中、回収品は、それぞれ台帳で管理されている。


「注文数と合っています」


 エルナは箱の中を確認し、春季対策表を開いた。


 北西街道の路面確認。


 共同温泉の再開整備。


 その下に、魔獣避けの配置点検と書かれている。


「前年の本配置図と、今年の仮配置記録はありますか」


「こちらです」


 ガレスが二枚の地図を机へ広げた。


 どちらにも、北方支部から北西街道へ続く道と、その周囲の山や谷が描かれている。


 前年の本配置図には丸印が幾つも並び、今年の記録には冬の終わりに仮置きした場所が記されていた。


「この仮配置を、本配置へ切り替えるのですね」


 エルナが尋ねた。


「はい。その前に現地を見ます」


 壁際から答えたのはカイルだった。


 今日はいつもの剣のほかに、短い弓と巻いた縄を背負っている。腰には獣道を調べるための道具袋も下がっていた。


「仮配置の場所ではいけないのですか」


「いけないとは限りません。ただ、そのままでよいとも限りません」


 カイルは今年の記録を指した。


「雪解けで沢や斜面が崩れれば、獣の通り道も変わります。先に足跡を確認します」


「記録だけでは分からないのですね」


「記録は、その時点での正解だったとは思います」


 普段より口調が静かだった。


 温泉へ向かう時に、最初から手拭いを用意していた男と同じ人物には思えない。


「カイルに現地の指揮をお願いします」


 エルナが言った。


「分かりました」


「私は設置数と交換予定を記録します」


 カイルは箱から携帯用の竜威香を一つ取り出し、光に照らしてそれを眺めていた。


「持ち出し欄へ署名を」


 ガレスに言われ、カイルは手の中の竜威香と箱を見比べた。


「……まだ支部の中ですけど」


「箱から出しましたので」


 カイルはしばらく固まったあと、黙って署名した。


     ◇


 携帯用の竜威香は、手のひらに収まる金属筒へ入れられていた。


 筒には小さな穴が並び、内側には耐熱用の陶板が張られている。


 支部の外へ出たところで、カイルが竜威香の先端へ火を入れた。


 しばらく待つと、中心だけがかすかに赤くなる。


 炎も煙もほとんど見えなかった。


 カイルは蓋を閉じ、金属筒を腰へ下げた。


「雪狼は平気なのですか」


 エルナが尋ねた。


「支部の雪狼は、使役獣として幼い頃から弱い竜威香に慣らされていますからね。野生の雪狼なら避けますよ」


「同じ魔獣でも違うのですね」


「竜威香が区別しているわけではありません。獣の側が、竜の気配をどう受け取るかの違いです」


 エルナたちは北西街道を進んだ。


 同行した兵士は四名。


 荷車には竜威香の箱と香台、雨除け、設置用の工具が積まれている。


 カイルは先頭を歩き、ときおり道の脇へ視線を向けた。


「カイルは、以前から魔獣対策を担当していたのですか」


 エルナが尋ねた。


「北東部にいた頃からです」


「北東部のご出身なのですね」


「はい。あちらは雪が少ない代わりに、獣がよく里まで下りてきます」


 カイルは歩きながら、腰の竜威香を確かめた。


「子供の頃は畑を荒らされたり、夜中に家畜小屋を囲ったりしていました。鎧猪に芋畑を半分食べられたこともあります」


「鎧猪は芋を食べるのですか」


「よく食べます。芋も麦も木の根も」


「何でも食べますね」


「鎧猪も食べられます」


 エルナが少しだけ歩調を緩めた。


「食べられるのですか」


「外皮を剥ぐのが大変ですが、肉は悪くありません。秋の若い個体なら脂もあります」


「それで狩りを覚えたのですか」


「最初は、食べ物を取られたくなかっただけです」


 カイルは少し笑った。


「罠を覚えて、足跡を覚えて、獣がどこから来るのか調べるようになりました。気づいたら仕事になっていました」


「北方支部へ来たのも、そのためですか」


「はい。去年の春に配属されました」


「北西部へ来て、困ったことはありませんでしたか」


「雪解けです」


 答えは早かった。


「北東部では、春になっても山道そのものが変わることは多くありません。去年は、獣のことだけ見ていればよいと思っていました」


 カイルは道の先へ目を向けた。


「北西部では、冬を越すと地形まで変わります。最初は知りませんでした」


 それ以上は言わなかった。


 だが、今年のカイルが仮配置をそのまま本配置にしない理由は分かった。


     ◇


 最初の確認場所は、街道脇の岩場にあった。


 前年から使われている香台には、竜威香が一つ据えられていた。


「これは冬の終わりに、俺が仮置きしたものです。秋に回収した残りを使いました」


 雨除けを開けると、竜威香は半分ほどの大きさになっていた。


 カイルは指先を近づけて熱を確かめ、香台に結ばれた札を見た。


「まだ効いています」


「交換予定までは、あと九日です」


 エルナが記録する。


「これは動かします」


「まだ使えるのですよね」


「使えます。だから香台ごと移します」


「仮置きした時は、まだ雪が深くて、谷の奥まで確認できませんでした」


 カイルは街道から山側へ視線を向けた。


 雪の消えた斜面には、土が大きく削れた跡がある。


 折れた木が何本も重なり、その奥には崩れた石が溜まっていた。


「前年は、この谷が獣の通り道でした」


 前年の配置図では、竜威香の丸印が街道と谷の間に並んでいる。


 獣が街道へ出ず、谷の奥へ抜けるように置かれていたらしい。


「今は通れませんね」


「はい。雪解け水で斜面が崩れています」


 カイルは倒木の手前へ屈み込んだ。


 湿った土の上に、太い足跡が幾つも残っている。


 蹄の先は二つに割れ、土へ深く沈んでいた。


 近くの木には、硬いものが擦れた跡もある。


「鎧猪です。少なくとも四頭」


「先ほど話していた獣ですね」


 カイルは足跡を追い、斜面を下りていく。


 折れた枝。


 木の幹に付いた泥。


 掘り返された土。


 獣が残した跡を一つずつ拾って進む。


 やがて立ち止まり、街道の東側を見た。


 斜面の先には、まだ柵だけの放牧地がある。


 家畜の姿はない。


「ここまで来て、倒木を避けています」


「その後は?」


「放牧地側へ…。今はまだ何もいませんが、来週から春の放牧が始まります」


 仮配置をそのまま本配置にすれば、街道だけは守られる。


 だが、通れなくなった谷を避けた鎧猪は、放牧地へ向かう。


 記録の印だけを見ていては分からないことだった。


「では、放牧地側にも竜威香を置きましょう」


 エルナが言った。


「置きます。ただし、囲わないようにします」


「囲わない?」


 カイルは地面へ小枝を置いた。


 一本目は街道。


 二本目は放牧地の柵。


 その間に、小石を幾つか並べていく。


「街道側へ置けば、獣は街道へ出ません。放牧地側へ置けば、柵にも近づきません」


 最後に北側だけ小石を置かずに残した。


「ここは空けます」


「ここから山へ戻すのですね」


「少し遠回りですが、北の谷へつながっています。人の道にも放牧地にも出ません」


 エルナは、置かれなかった場所を見た。


「竜威香を増やして、もっと山奥へ追いやることはできないのですか」


「できます。ただ、しない方がいいです」


 カイルは鎧猪の足跡へ目を向けた。


「北の谷より先には、別の群れの縄張りがあります。奥まで追えば争いになります」


「罠で捕らえることは?」


「できます。ただ、安全に移せる場所がなければ、捕らえたあとに困ります」


「狩ることも?」


「できます」


 カイルの答えに迷いはなかった。


 足跡を読み、罠を張り、必要なら獣を仕留める。


 できないから避けるのではない。


「獣対策は、見つけた順に狩る仕事ではありません。餌になるものを遠ざけ、道を分ける。それでも人里へ入る個体は罠で捕らえます。安全に移せる場所がなければ、討伐が最後です」


 カイルは、小石を置かなかった北側の谷を指した。


「野生の獣とは、同じ場所で暮らせません。」


 声はいつもと変わらなかった。


「共生はできなくても、共存はできます」


 その言葉を聞いた時、俺の綴じ目の奥が、わずかに痛んだ。


 エルナもすぐには答えなかった。


 街道と放牧地。


 その間を通り、山の奥へ続く細い谷。


 三つとも同じ地図の中にある。


「分かりました」


 やがてエルナは頷いた。


「北側の通り道を残して配置します」


     ◇


 作業は、仮配置の竜威香を移すところから始まった。


 街道沿いの香台を二つ外し、新しい位置へ運ぶ。


 効力の残っている竜威香はそのまま使い、交換予定日も札へ残した。


 放牧地側には、新しい香台を三つ据える。


 兵士が地面をならし、石台を水平に置いた。


 その上へ竜威香を載せ、雨除けを固定する。


 カイルは香台ごとの間隔を確かめた。


「そこは、もう少し街道側へ」


「これくらいですか」


「あと二歩です」


 兵士が香台を抱えて移動する。


「こちらは?」


「そこには置きません」


「一つ空いていますが」


「空けています。先ほど説明したとおり」


 兵士は香台と谷を見比べた。


「なるほど」


 分かった顔をしたが、本当に分かったかどうかは分からなかった。


 エルナは新しい配置を地図へ書き込んでいく。


 設置位置には丸印。


 移設した竜威香には残り日数。


 新しいものには点火日と交換予定日。


 北側の谷には、何も印が付いていなかった。


「ここは、どう記録すればよいでしょう」


 エルナが尋ねた。


「魔獣の通り道と書いてください」


「竜威香を置いていない場所を、ですか」


「はい。何も書かなければ、次の担当者が空いていると思って埋めます」


 カイルは前年の本配置図を見た。


「去年の俺も、分かっているつもりで書きませんでした」


 地図には、竜威香を置いた場所だけが残っている。


 なぜそこへ置いたのか。


 なぜ別の場所には置かなかったのか。


 前年のカイルたちには分かっていたのだろう。


 だが、今年まで残ったのは丸印だけだった。


 エルナが俺を開いた。


 地図へ線を引くことはできない。


 それでも、次の担当者へ残すべきことは分かった。


 俺は一文を書いた。


『配置図には、竜威香を置かなかった道も記すこと。』


 文字を読んだエルナが頷いた。


 北側の谷へ点線を引き、その横に書き加える。


 魔獣通行路。


 竜威香設置なし。


 何も置かなかった場所が、初めて配置図の上に残った。


     ◇


 すべての竜威香を据え終えたあと、カイルは腰の携帯筒を外した。


 通気口を閉じて竜威香の火を消し、道具袋へ収める。携帯用の気配が、配置の確認へ影響しないようにするためだった。


 それからエルナたちは、街道から少し離れた高台へ移動した。


 日は傾き始めている。


 竜威香は目立った煙を出さない。


 香台の中で中心だけが赤くなり、竜の気配を静かに周囲へ広げている。


「本当に通るのでしょうか」


 エルナが小声で尋ねた。


「今日通るとは限りません」


 カイルも声を抑えていた。


「では、ここで待つのですか」


「日が沈むまでです。来なければ、明日から巡回で確認します」


 竜威香は獣を呼ぶ道具ではない。


 設置したその日に成果が見えるとは限らなかった。


 記録には、設置完了としか書けない日もある。


 山の間を風が通った。


 街道側からは、遠く荷車の車輪の音が聞こえる。


 北側の谷は静かなままだった。


 しばらくして、茂みの奥で枝が折れた。


 カイルが片手を上げる。


 全員が動きを止めた。


 斜面の下から、黒い影が現れた。


 鎧猪だった。


 人の腰ほどの高さがあり、肩から背にかけて硬い外皮が重なっている。


 その後ろから、少し小さな個体が三頭続いた。


 群れは倒木の前まで来ると、鼻先を地面へ向けた。


 街道側へ進もうとした一頭が足を止める。


 頭を上げ、何もない空気を警戒するように見回した。


 別の一頭が放牧地側へ向かう。


 そちらでも同じように動きを止めた。


 群れの中央で、最も大きな鎧猪が低く鳴いた。


 進む道を失ったように、その場を何度か回る。


 カイルの手が、腰の剣へ近づいた。


 必要なら、すぐに抜ける構えだった。


 エルナの腕にも力が入る。


 竜威香を置きすぎたのではないか。


 俺にもそう見えた。


 やがて、一頭が北側へ鼻を向けた。


 竜威香を置かなかった谷だ。


 数歩進み、立ち止まる。


 そこには竜の気配がない。


 最も大きな個体が後を追った。


 残りの二頭も続く。


 群れは街道にも放牧地にも向かわず、細い谷の奥へ入っていった。


 枝の揺れる音が遠ざかる。


 しばらくすると、山は再び静かになった。


「通りましたね」


 エルナが言った。


「はい」


 カイルは剣から手を離し、立ち上がった。


「明日の朝、足跡を確認します。何度か同じ道を通れば、あちらが新しい通り道になります」


「竜威香は、そのままで?」


「交換予定まではこのままです。ただ、放牧が始まる前にもう一度点検します」


 エルナは作業記録へ書き込んだ。


 設置完了。


 鎧猪四頭、北側の谷へ移動。


 街道および放牧地への侵入なし。


 俺はすでに一文を書いている。


 カイルの言葉を記録へ移すことはできなかった。


 それでも、忘れることはなかった。


     ◇


 帰り道、北西街道を一台の荷車が通っていった。


 御者は、街道脇の新しい香台へ気づくこともなく通り過ぎる。


 山側には、鎧猪の足跡が続いていた。


 人の車輪跡とは交わらず、北側の谷へ消えている。


「鎧猪を討伐せずに済んでよかったです」


 エルナが言った。


「その方が、後始末も少ないですから」


 カイルは普段の調子に戻っていた。


「そこなのですか」


「重要ですよ。討伐報告、周辺の安全確認、素材の分配。食べるなら解体場所と保存方法も決めなければなりません」


「書類が増えますね」


「でしょう」


 カイルは満足そうに頷いた。


 夕方の山の中を、荷車の音と枝を踏む音が、別々の方向へ遠ざかっていった。


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