ep.14 魚箱は待ってくれない
窓から入った風が、机の上の紙を一枚だけ持ち上げた。
紙の端はしばらく揺れ、重しに押さえられて元へ戻る。
中庭では、雪解け水が石畳の隙間を細く流れていた。
日の当たる場所はすでに乾き、壁際には小さな草の芽が並んでいる。
エルナは、春季準備予定表の次の項目を開いた。
ラメール村からの鮮魚直送便。
その欄には、前任者の字で短い注意書きが残されていた。
『鮮魚便の日は、受付と厨房へ早めに声をかけろ。魚箱は待ってくれない。』
「魚箱は待ってくれない」
エルナが読み上げた。
「鮮魚ですから」
ガレスが答えた。
机には、道路整備隊からの報告書も置かれている。
『ラメール村枝道の補修完了を確認。積載馬車の通行制限を解除する。』
以前、積載馬車の車輪が沈んだ日陰の区間には砂利が入り、排水も切り直されたらしい。
その下には、ラメール村からの発送通知が重ねられていた。
『春季最初の鮮魚便を、本日正午までに北方支部へ納品する。魚箱六箱。』
「六箱なのですね」
「本日と明日で使い切れる量です」
「初便だから、少なめに?」
「道の状態と、支部側の受入れ手順を試す意味もあるのでしょう」
受付、厨房、食品庫には、到着予定が伝えられている。
準備は早めに済んでいた。
◇
正午より少し前。
正門の外から、馬車の車輪が近づいてきた。
ラメール村の鮮魚便だった。
以前、積載試験で水樽を運んだ馬車が、今度は青い覆いを掛けた荷台を引いている。
車輪には新しい泥が付いていた。
だが、日陰の坂で深く沈んだ様子はない。
ラメール村の運送係が御者台から降り、送り状を差し出した。
「鮮魚、六箱です。受入れをお願いします」
受付係が送り状と荷札を見比べた。
荷台の箱数を確かめる。
「ラメール村発、北方支部行き。六箱」
送り状へ受入印が押された。
「受入れました」
「厨房の方は?」
「もう来ています」
門番棟の庇の下では、厨房担当の女性が鮮魚検査票を持って待っていた。
その隣には、ボルグと荷役を担当する兵士が二人いる。
食品庫にも到着予定が伝わっているため、検査を終えた箱をすぐ運べるようにしてあるらしい。
「始めましょう」
厨房担当が言った。
「急いでいただけると助かります」
運送係が青い覆いへ手を掛けた。
「魚ですからね」
厨房担当は短く答えた。
覆いが外される。
荷台には、六つの木箱が並んでいた。
箱の中には、ラメール村の氷室から運び出した砕き氷と、湿らせた海草が詰められている。
木の隙間から、冷たい水が荷台へ落ちていた。
潮と海草の匂いが、正門の内側へ広がる。
「輸送中は、この氷で冷やすのですね」
エルナが尋ねた。
「道中はこれで保ちます。ただ、着いた後まで長く置くことは考えていません」
荷役の兵士が一箱目を下ろし、庇の下の検査台へ置いた。
厨房担当が蓋を開ける。
海草の間に、銀色の魚が並んでいた。
魚の目を見る。
えらを開く。
身の張りと匂いを確かめる。
「青背魚。数量一致。傷みなし」
厨房担当が鮮魚検査票へ記入した。
検査を終えた箱は、ボルグと兵士がすぐに食品庫へ運ぶ。
二箱目が検査台へ置かれた。
「平魚。数量一致。状態良好」
二箱目も、ボルグたちへ引き渡された。
運送係は、荷台に残った箱へ青い覆いを掛け直した。
庇の下にも、春のぬるい風が入り込んでいた。
三箱目は貝類だった。
厨房担当は、殻が割れていないか念入りに見ている。
蓋が閉じたままのものを選び、匂いも確かめる。
「こちらは、少しかかります」
「急いでいただけると助かります」
運送係の視線は、荷台に残った三箱へ向いていた。
厨房担当の手は止まっていない。
ボルグたちも、正門と食品庫を往復している。
受付も厨房も食品庫も、予定どおり人を揃えていた。
誰も仕事を怠けてはいなかった。
むしろ、皆が魚箱を待たせないように動いていた。
エルナは、庇の下の様子を静かに見ている。
前任者の言葉どおりだった。
鮮魚便の日には、受付と厨房へ早めに声をかける。
届いた後は、できるだけ早く検査する。
鮮魚の受入れとは、こうして急いで行うものなのだろう。
俺は、荷台から落ちる水を見ていた。
魚を冷やしていた氷は、村を出た時から溶け続けている。
箱を開ければ、中の冷気も逃げる。
早く確かめることは必要だ。
今のやり方でも、皆が手を速く動かすことで魚は守られてきた。
だが、急ぐことだけが、魚箱を待たせない方法ではないはずだ。
厨房担当も、ここが鮮魚に向いた場所ではないことを知っている。
運送係も分かっている。
それでも、これまでの手順に合わせて、ここで急いでいる。
エルナが俺を開いた。
俺は余白へ意識を向けた。
『魚箱を、確かめる場所まで運びませんか。』
エルナは、その一文を読んだ。
「確かめる場所まで……」
貝を見ている厨房担当へ目を向ける。
検査済みの箱を抱え、食品庫へ向かうボルグを見る。
そして、荷台で順番を待つ三つの魚箱を見た。
「検査を終えた箱は、どこへ運んでいますか」
「食品庫です」
厨房担当が答えた。
「食品庫には、検品場がありましたね」
「付属の検品場があります。野菜や乾物は、そこで確認しています」
「魚は、なぜここで確認するのですか」
厨房担当は、貝箱の蓋を閉じた。
「ラメール村の直送便は、正門で受け渡す便として登録されています。そのままここで検査を済ませ、問題のなかった箱を食品庫へ運ぶ。それが、これまでの納品手順でした」
「以前から?」
「はい。春と夏だけの便ですので、納品先も変えられないままでした」
運送係も頷いた。
「正門脇が鮮魚に向いていないことは?」
「ええ。ですので毎回、受入れと検査をなるべく早めにお願いしていました」
「検品場所を変えてほしいとは、頼まなかったのですか?」
「そこまでは。こちらは荷を届ける側ですから、納品の手順まで変えてほしいとは言いにくくて」
現場の者が知らなかったわけではない。
それぞれが、自分の持ち場でできることをしていた。
前任者も、魚箱を待たせないよう、必要な者を早く揃える段取りを残していた。
その結果、皆が手を速くすることで間に合わせてきたらしい。
エルナは受付係へ振り返った。
「受付票があれば、馬車を一時入構させられますね」
「はい。支部長決裁があれば可能です。当日の受付票でも、行き先と用件を限定すれば通せます」
受付係が新しい受付票を取り出した。
入構目的。
鮮魚納品。
行き先。
食品庫前。
エルナは記載された内容を見て、支部長決裁欄へ署名した。
「一時入構を許可します」
受付票が運送係へ渡される。
「残りの魚箱は降ろさず、馬車ごと食品庫へ回してください」
「分かりました」
先の三箱は、すでに食品庫へ収められている。
残りの三箱を載せた馬車は、受付票を持って正門を通った。
◇
馬車は中庭を抜け、食品庫前の荷受け場へ入った。
食品庫内の入庫前区画は、正門前よりずっと涼しかった。
検査台が運び込まれ、床には水受けが敷かれる。
四箱目が台へ置かれた。
厨房担当が蓋を開ける。
「赤身魚。数量一致。傷みなし」
五箱目。
「青背魚。数量一致」
六箱目。
「平魚。状態良好」
最後の記録が鮮魚検査票へ書き込まれた。
「六箱、すべて問題ありません」
運送係が肩の力を抜いた。
「ここなら、外より落ち着いて見られますね」
「ですが、庫内を毎回検査場にするわけにはいきません」
ボルグが言った。
「水も出ます。ほかの食材から分ける必要があります」
「付属の検品場は使えますか」
エルナが尋ねた。
「使える広さはありますが…」
厨房担当が答えた。
「あちらも冷所ではありません」
「では、検品場の一画を冷やせませんか」
◇
その日の午後。
魔導設備係が、食品庫付属の検品場へ呼ばれた。
検査台の位置。
床の傾き。
壁と食品庫までの距離。
順に見ていく。
「検査台と未検査の箱を置く範囲だけなら、小型の蓄冷魔石一基で足ります」
「冷気が逃げませんか」
「厚い仕切り布を下げます。床には排水を追加しましょう。溶けた氷の水も流せます」
「検査済みの箱と、まだ見ていない箱も分けたいです」
厨房担当が言った。
「左右に台を置きます」
ボルグが答えた。
「これなら運び間違えません」
ガレスが、魔導設備係の書いた簡単な見積もりを確かめた。
「小型の魔石一基と、仕切り、排水の追加。春季修繕費の範囲に収まります」
「鮮魚を傷ませるより安いですね」
エルナが言った。
「正門と食品庫を何度も往復する手間も減ります」
ボルグも頷いた。
運送係は、毎回検査を急かさなくてよくなる。
厨房担当は、魚の状態を落ち着いて見られる。
ボルグたちは、箱を一つずつ正門から運ばなくてよい。
受付は受入れを終えれば、次の仕事へ戻れる。
魚のための小さな改修だった。
だが、楽になる者は一人ではなかった。
エルナは新しい納品手順を書き留めた。
正門受付では、送り状、荷札、箱数を確認し、受入印を押す。
受付票により一時入構を認め、馬車を食品庫前まで誘導する。
品質検査は、食品庫付属の検品場に設ける鮮魚用冷所検品区画で、厨房担当が行う。
前任者の言葉は間違っていなかった。
魚箱は待ってくれない。
前任者は、待たせないために人を早く揃えた。
エルナは、その先にある検品場まで馬車を通す手順を足した。
◇
その日の夕方。
開いた窓から、厨房の匂いが流れてきた。
魚の皮が焼ける匂い。
貝と香草を煮た湯気の匂い。
正門で受け取った六箱は、もう夕食と翌日の仕込みへ回っているらしい。
「献立は決まったのですね」
エルナが言った。
「青背魚は今夜の焼き物です」
ガレスが答えた。
「貝は汁物に。平魚と赤身魚は、明日の食事へ回します」
俺は食べることができない。
それでも、春の海が食堂まで届いたことは分かった。
◇
数日後。
検品場には、厚い仕切り布が下げられていた。
壁際には、小型の蓄冷魔石が金具で固定されている。
冷気は仕切りの内側に留まり、検査台と未検査の魚箱を置く区画を冷やしていた。
床の端には、新しい排水溝が切られている。
次の鮮魚便が正門へ到着した。
受付係が送り状、荷札、箱数を確かめ、受入印を押す。
事前に決裁された受付票も確認された。
「食品庫前へお願いします」
魚箱は正門で降ろされなかった。
馬車はそのまま構内を進み、食品庫前の荷受け場へ向かう。
鮮魚用冷所検品区画では、厨房担当とボルグが待っていた。
新しい設備の稼働確認のため、魔導設備係も立ち会っている。
最初の箱が検査台へ置かれた。
蓋が開けられる。
「青背魚。数量一致。状態良好です」
検査済みの箱をボルグが運び、次の箱が台へ置かれる。
誰も作業を急かすこともない。
だか、いつも通り作業は速かった。
運送係は、壁際の蓄冷魔石を感心した様子で眺めていた。
「こういう冷やし方が、運ぶ間にも使えたらな」
呟くような独り言。
設備の状態を見ていた魔導設備係が、その言葉に顔を上げた。
検品場の外に止まっている馬車と蓄冷魔石に交互に
目を向け、何かを思いついたように、その目がわずかに細くなった。
厨房担当は、最後の魚箱の蓋を開けた。
仕切り布の内側では、蓄冷魔石の冷気が床近くを静かに流れ、溶けた氷の水が、新しい排水溝を伝って外へ落ちていく。
検品場の外では、空になった馬車が食品庫前から正門へ向かっていた。
濡れた車輪の跡が、春の日を受けた石畳の上に二本続いている。
その脇で、壁際から伸びた若い草が静かに揺れていた。




