ep.13 非戦闘区画、湯加減は適正です
朝の光が、窓辺から机の端まで届いていた。
冬の間は薄暗かった執務室も、今は灯りを足さずに書類の文字が読める。
エルナは、その光の中で春季準備予定表を開いた。
排水溝の清掃。北西街道の路面確認。冬季装備の点検と返納。
その下に、少し広い欄があった。
共同温泉再開整備。
主担当、魔王軍北方支部。
「今年はこちらなのですね」
エルナが確認するように言った。
「昨年は王国側でした」
ガレスが別の書類を机へ置く。
前年の修繕記録だった。
屋根の補修。浴槽西側の石組み。脱衣所の床板交換。排水路の泥出し。
それぞれの項目の横に、担当した職人の署名が並んでいる。
人間の名と魔族の名が、同じ頁に書かれていた。
温泉。
温泉を中心とする谷の一帯は、非戦闘区画とされている。
地下を通る竜脈が、湯となって地上へ現れる場所だからだ。
竜に関わりの深い場所で争おうとする者はいない。
王国と魔王軍のどちらにも属さず、どちらも使い、どちらも壊してはならない。
冬の間は閉鎖され、春になると利用再開のための修繕を行う。
作業には双方が参加するが、日程を決め、必要な資材を揃え、記録を取りまとめる側は一年ごとに交代する。
今年は、こちらの番だった。
エルナは俺を開き、温泉の項目を探した。
前任者の字は、すぐに見つかった。
温泉。
今年がどちらの番か、最初に確かめろ。
その下には何もなかった。
「間違えることがあったのでしょうか」
「一度だけ、双方が資材を持たずに現地へ集まったことがあるそうです」
ガレスが答えた。
「互いに、相手が主担当だと思っていたと」
エルナは予定表を見直した。
今年の欄には、はっきりと魔王軍北方支部と書かれている。
「今回は、大丈夫ですね」
「王国側からも参加者名簿が届いています。こちらの設備係にも通知済みです」
ガレスは、さらに一枚を机へ置いた。
持参資材一覧。
木材。石材。釘。漆喰。交換用の魔石。再刻印用の粉末。予備の魔導弁。
温泉へ行く書類にしては、ずいぶん重そうな内容だった。
「支部まで非戦闘区画になるわけではありませんので」
ガレスは机の脇に積まれた報告書を見た。
「留守中に何かあれば、こちらで対応します。現地は支部長にお任せします」
エルナの背筋が、わずかに伸びた。
「分かりました」
今年の主担当は北方支部。
現地でそれを取りまとめるのは、エルナだった。
◇
共同温泉へ向かうことになったのは、翌朝だった。
エルナは必要な書類を鞄へ収め、最後に俺を抱え上げた。
机の上へ置いていかれる可能性も、少しは考えていた。
その必要はなかったらしい。
「現地で確認したほうがよいでしょうから」
エルナがそう言った。
俺も、そう思う。
共同施設の再開は、支部長業務に含まれる。
現地の様子を記録する者が同行することにも、何も不自然なところはない。
温泉そのものに興味があるわけではない。
業務である。
北西街道を進み、途中から谷へ下りる道へ入る。
道の両側には、まだ雪が残っていた。
日当たりのよい場所では、雪の下から黒い土が見えている。
湿った土の匂いに混じって、ときおり湯気が流れてきた。
谷の奥から、水とは少し違う音が聞こえる。
石の上を湯が流れている音なのだろう。
エルナは歩きながら、何度か俺を抱え直した。
揺れないようにしてくれているらしい。
俺は閉じられていたが、周囲の様子は分かる。
前を行く作業車の荷台には、設備係の工具箱と交換用の魔導パイプが積まれていた。
その後ろを、兵士たちが資材を担いで歩いている。
カイルの肩には、長い木材が二本載っていた。
「温泉というのは、もっと身軽に行く場所だと…」
「今日は入浴ではなく、再開整備です」
同行していた作業班長が答えた。
「それはそうですが…」
カイルの腰には、きれいに畳まれた手拭いが下がっていた。
しばらく進むと、道の先に石柱が見えた。
左右に一本ずつ。
片方には王国の紋章が刻まれ、もう片方には魔王軍の紋章が刻まれている。
二本の間には、古い文字で同じ文言が彫られていた。
ここより先、非戦闘区画。
石柱の向こうには、小さな預かり所と温泉へ続く通りがある。
道沿いの宿は、まだ戸を閉ざしていた。
人間の文字と魔族の文字で書かれた看板が、同じ通りで冬囲いに覆われている。
市の屋台も軒下に畳まれ、通りには作業者以外の姿がなかった。
王国側の作業者たちは、すでに到着していた。
兵士のほかに、大工、石工、配管職人らしい者たちがいる。
その中に、細い目盛りの刻まれた測り杖を持つ王国の女性が一人いた。
竜泉士だった。
地上へ現れた竜脈の状態を診る専門職である。
双方の作業者は、誰に促されるでもなく入口で武器を外した。
剣や槍が、番号札と引き換えに棚へ収められていく。
王国兵の一人が、斧を手に受付の前へ立った。
「斧、一丁」
受付係が斧を見た。
「武器ですか、工具ですか」
「今日は工具だ」
「では、工具札を付けます」
斧の柄に黄色い札が結ばれた。
その隣では、魔族の兵士が大槌を差し出している。
「こちらも工具です」
「用途は」
「石を割ります」
受付係は少し考えてから、同じ黄色い札を結んだ。
剣や槍は入口に置かれている。
それより重そうな物は、工具として中へ運び込まれていった。
ここでの扱いとしては、何も間違っていない。
◇
温泉施設は、冬囲いに覆われていた。
木板で塞がれた窓。
縄で固定された戸。
屋根の北側には、まだ雪が厚く残っている。
谷の奥からは、絶えず湯の流れる音が聞こえた。
源泉は冬の間も止まっていなかったらしい。
エルナは管理室の前に作業者を集めた。
王国側の現場責任者と並び、作業表を確認する。
「屋根と木部は王国側の大工班。浴槽と石組みは双方の石工。源泉と竜脈の確認は竜泉士。湯道と通常配管は王国側の配管班。魔導パイプと温度調整具は、こちらの設備班が担当します」
エルナは紙から顔を上げ、竜泉士を見た。
「竜脈と源泉の結果は、同じ欄でよいでしょうか」
「分けてください。地上の湯量と温度が正常でも、竜脈の流れに乱れが残っていることがあります」
「分かりました」
エルナは作業表の余白へ、確認欄を一つ増やした。
それから紙を一段下げた。
「冬囲いの撤去、資材運搬、清掃と泥出しは、双方の兵士で行います」
「承知しました」
王国側の現場責任者が答えた。
「男湯と女湯は同時に作業を進めます。修繕後の確認記録は、それぞれ提出してください」
双方の作業者が、それぞれの場所へ散っていく。
兵士たちは冬囲いの板を外し始めた。
王国側の大工が屋根へ上がり、魔族の兵士が下から梯子を押さえる。
浴場では石工たちが浴槽の縁を木槌で叩き、音の違いを確かめていた。
設備係は、壁沿いの魔導パイプに付着した白い汚れを削り落としている。
竜泉士は源泉の前に膝をつき、測り杖を湯の中へ立てていた。
杖の目盛りを確かめたあと、柄へ指を添えて目を閉じる。
しばらくして、湯から杖を引き上げた。
「竜脈に乱れはありません。湯量と源泉温度も昨年とほぼ同じで、範囲内です」
エルナは、竜脈と源泉の二つの欄へ、それぞれ結果を書き込んだ。
その後も俺を抱えたまま、順番に作業を見て回る。
王国側の配管職人は、魔導パイプの接合部を布で拭いていた。
その隣で、魔王軍側の設備係が薄れた刻印を削り直している。
「触らなかったのですか」
「読めなかったからな」
「正しい判断です」
設備係は古い溝へ銀色の粉末を入れ、指先から魔力を流した。
刻印が淡く光る。
配管職人は頷き、次の接合部へ移った。
少し離れた場所では、大工が戸を外していた。
魔族の技師が、その戸の端を見ている。
「補強刻印を入れれば、もう少し保ちます」
「入れないでくれ」
大工がすぐに答えた。
「なぜですか」
「来年、板を外せなくなる」
技師は戸と大工を見比べた。
「では、入れません」
短いやり取りのあと、それぞれの作業へ戻っていった。
誰がどちら側の者かは、作業着を見れば分かる。
だが、話している内容は、戸が外れるか、石が保つか、湯が漏れないかということばかりだった。
◇
昼を過ぎた頃、女湯の浴槽西側で作業が止まった。
王国側の石工が、壁際の石を指している。
石には細いひびが入り、中央まで伸びていた。
「これは交換したほうがいい」
石工が言った。
「ですが、その石には温度保持の刻印が通っています」
魔導設備係が屈み込む。
「石を交換すると、刻印も使えなくなるのですか」
エルナが尋ねた。
「この石だけに刻まれているものではありません」
設備係は、魔導パイプから浴槽の縁へ続く線を指でなぞった。
「一本につながった刻印です。石を外せば、ここで流れが切れます」
エルナは、ひびの入った石と刻印を見比べた。
「では、石工班だけでは直せないのですね」
「はい。石を交換したあと、こちらで刻み直します」
王国側の石工が、新しい石材を一つ運ばせた。
「同じ形に削る。刻印は、そのあとで入れられるか」
「入れられます。ただし、継ぎ目を避けて少し曲げます」
「石を固定する刻印は使うな。次に割れた時、外せなくなる」
「分かりました」
二人は浴槽の前に並んで座った。
石工が元の石の寸法を測る。
設備係が刻印の位置を薄紙へ写し取る。
削る音と、細い線をなぞる音が、交互に浴場へ響いた。
エルナは修繕記録を開いた。
「石材交換は、王国側石工班。刻印の再施工は、魔王軍側設備班」
「確認者は、双方から一名ずつですね」
王国側の現場責任者が言った。
「はい」
エルナは記録欄を二つに分けた。
新しい石が収まり、その表面へ刻印が彫り直される。
銀色の粉末が溝へ入れられ、魔力が通された。
淡い光が、魔導パイプから新しい石へ流れていく。
途中で消えることなく、浴槽の縁を一周した。
「接続、問題ありません」
設備係が言った。
王国側の石工は、石を木槌で軽く叩いた。
「こちらも問題ない」
エルナは、二つの確認欄に印を付けた。
浴場の奥では、塞がれていた湯道が開かれ始めている。
やがて、乾いていた浴槽の底へ細い湯が流れ込んだ。
カイルが手拭いの位置を直した。
「まだですよ」
エルナが言った。
「何も言っていません」
「顔に出ています」
浴槽には、少しずつ湯が溜まり始めていた。
◇
湯量は基準内。
温度調整具も正常。
湯口から離れた場所でも、大きな温度差はなかった。
排水路へ試験用の湯を流し、詰まりがないことも確認された。
修繕記録の項目が、一つずつ埋まっていく。
「では、あとは例年どおりですね」
王国側の現場責任者が言った。
周囲の作業者たちは、ためらうことなく工具を片づけ始めた。
カイルは腰に下げていた手拭いを外している。
エルナだけが、作業表と皆の顔を見比べた。
「例年どおり、というのは……」
「実際に入って確認します」
王国側の石工が、浴槽の縁を軽く叩いた。
「石組み、床、温度、排水。人が使った時に問題がないかを見るんです。毎年、全員で確認しています」
王国側の現場責任者が答えた。
「男女に分かれ、浴槽の定員に合わせて順に入ります」
エルナはもう一度、手拭いを用意している作業者たちを見た。
俺の頁にも、その手順は書かれていなかった。
皆が知っていることは、引継ぎ書には残らないことがある。
「……分かりました」
少し遅れて、エルナも書類を閉じた。
確認は、男女に分かれて行われることになった。
作業着を脱いだ者たちは、洗い場で泥と石粉を落としてから浴槽へ入ることになった。
◇
男湯と女湯の入口は、建物の中で左右に分かれていた。
王国側と魔王軍側で分かれるのではない。
人間も魔族も、男は男湯へ、女は女湯へ向かう。
カイルたちは男湯へ。
エルナは俺を抱えたまま、女湯と書かれた戸をくぐった。
ここまでは予想していた。
現地の主担当であるエルナが確認に参加する以上、記録を担う俺が同行することも自然である。
戸の先には、もう一つ小さな空間があった。
壁際に外套掛けが並び、その下には下駄箱がある。
反対側には、鍵の付いた小さな棚が幾つも設けられていた。
さらに奥の戸から、湯気が細く流れてくる。
その先が脱衣所らしい。
エルナは俺を片腕に抱いたまま、外套を脱いで壁へ掛けた。
まだ、俺を置く様子はない。
履物も下駄箱へ収めた。
それでも、俺は腕の中にいた。
ここまで来た。
外套を脱ぎ、履物まで置いたのだから、次はあの戸を通るのだろう。
紙が湯に弱いことは承知している。
だが、浴槽へ入れなければよい。
エルナなら、濡れない場所を選んでくれるはずだった。
何より俺は、支部長業務引継ぎ書である。
再開確認の記録を取る以上、実際の浴場を確認する必要がある。
隣で外套を掛けていた竜泉士が、俺を見た。
「それ、貴重品棚へ入れたほうがいいんじゃないですか」
エルナが、腕の中の俺へ目を落とした。
「ですが、確認の記録が」
「中へ持っていったら、記録する前にふやけますよ」
正しい。
非常に正しい。
だが、正しいことと、今ここで言う必要があることは別ではないだろうか。
エルナは少し迷った。
俺は、その迷いを支持した。
奥の戸の向こうから、湯が流れる音が聞こえている。
もう少し長く迷ってもよかった。
「そうですね」
迷いは終わった。
エルナは空いている貴重品棚を開いた。
底へ乾いた布を敷き、その上に俺を置く。
ずいぶん丁寧な扱いだった。
丁寧に扱われていることは分かる。
分かるが、俺が期待していた配慮は、これではなかった。
「すぐ戻りますから」
扉が閉じられた。
真っ暗になった。
鍵が回った。
俺は貴重品として、安全に保管された。
何一つ間違っていない。
納得できるところも、一つもなかった。
◇
しばらくして、奥の戸が開く音がした。
複数の足音が、貴重品棚の前を通り過ぎていく。
湯気の流れが少し強くなった。
それから、戸が閉じる。
棚の中は暗いままだった。
俺には浴場の様子が分からない。
聞こえてくる声も、扉を一枚挟んでいるため、ところどころ曖昧だった。
「湯口の近くは、どうですか」
エルナの声がする。
「少し熱いですね」
竜泉士が答えた。
「再刻印した箇所です。調整値を一段下げます」
魔族側の設備係らしい声が続く。
少し間があり、湯の流れ方が変わった。
「これなら問題ありません」
「浴槽中央も適正です」
記録すべき内容だった。
だが、扉越しに聞こえた声だけで確認済みとは書けない。
「西側の石は動きません」
「床板も問題なし」
「排水を確認します。少し位置をずらしてください」
湯が大きく揺れる音がした。
人間と魔族が、同じ湯の中で場所を譲り合っているらしい。
その様子を、俺は見ていない。
すぐそこにいるにもかかわらず。
「支部長、そちらはどうですか」
「こちらも問題ありません。少し深いですが、利用に支障はありません」
エルナも湯に入っている。
皆にとっては、毎年の確認の一つにすぎない。
俺だけが、その手順に含まれていなかった。
遠くから、男湯側の声もわずかに聞こえた。
壁を挟んでいるため、内容までは分からない。
ただ、誰かが飛び込んだあと、別の誰かに注意されたらしい。
おそらくカイルだろう。
女湯側では、引き続き確認が進んでいる。
「排水、問題ありません」
「では、女湯側は確認完了ですね」
「もう少し見たほうがよくないですか」
竜泉士が言った。
「念のため」
「そうですね。再開後に問題が出てはいけませんから」
エルナが答えた。
念入りな確認だった。
主担当として正しい。
非常に正しい。
棚の中にいる者のことを除けば。
◇
やがて、奥の戸が開いた。
足音が戻ってくる。
外套掛けから服を取る音。
下駄箱が開く音。
何人かが、修繕箇所について話している。
「西側の温度は、あれでいいでしょう」
「排水も以前より早くなっている」
「石の継ぎ目も問題なかった」
確認は無事に終わったらしい。
貴重品棚の前で、足音が止まった。
鍵が回る。
扉が開いた。
光が戻った。
「お待たせしました」
エルナの銀髪は、まだ少し濡れていた。
頬も、普段より赤い。
俺は乾いたままだった。
完全に安全な状態だった。
エルナは乾いた手で俺を取り出し、修繕記録を開いた。
女湯側、異常なし。
ほどなく、男湯側からも同じ報告が届いた。
エルナは二枚の記録を照合し、最後の欄へ署名する。
共同温泉、春季利用再開。
翌朝から、王国と魔王軍の双方が利用できる。
作業者たちは、預かり所で剣や槍を受け取っていった。
黄色い工具札も、一つずつ外される。
竜泉士は測り杖を肩へ担ぎ、通りの両側を見た。
冬囲いの残る宿と、軒下に畳まれた市の屋台が夕方の光に沈んでいる。
「ここも、明日から賑やかになりますよ」
エルナは、人間の文字と魔族の文字が並ぶ看板を見上げた。
「そうですね」
明日には宿の戸が開き、屋台が通りへ戻る。
王国側の荷車も魔王軍側の荷車も、同じ石柱の間を通るのだろう。
今はまだ、湯の流れる音だけが閉ざされた通りを抜けていた。
「無事に終わりましたね」
エルナは俺を抱え直し、温泉地を出た。
谷には、夕方の冷たい空気が戻り始めていた。
屋根の向こうから、白い湯気が細く立ち上っている。
俺は朝から、その湯が浴槽へ届くまでを見ていた。
竜泉士が竜脈を診るところも、薄れた刻印を彫り直すところも、新しい石を組み込むところも見届けた。
その先だけを、俺は知らない。
道の脇に残った雪は、日が傾くにつれて青く沈んでいた。
その下を、雪解け水が静かに流れている。
エルナの腕の中には、まだ温泉のぬくもりが残っていた。
俺には、それを記録する欄がなかった。
帰り道の背後で、誰もいなくなった温泉から、湯のあふれる音がいつまでも聞こえていた。




