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王子殿下の殺傷力が高すぎて死にそうです ~公爵令嬢は溺愛ルート突入中~  作者: 川合 佑樹


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第50話

 教室に戻ると――。

 生徒たちのざわめきはもう遠く、残された机と椅子が並ぶだけの空間。

 埃がキラキラと舞う光の中で、エリシアの机の上だけが異様な光景を晒していた。

 青いインクがべっとりと広がっている。

 インクはまだ乾ききっておらず、机の木目に沿って滴が垂れ床にまで染みを作っている。

 匂いがほのかに鼻を突く。

 エリシアは静かに息を吐いた。

(……これは、ないわ)

 心の中で小さく呟く。

 これまでのメモやゴミとは違う。


 隣でレオンハルトが明らかに動揺した声で言った。

「誰が、こんなことを……!」

 体が硬直し瞳が怒りと心配で揺れている。

 普段の穏やかな表情が珍しく険しく引きつっていた。

 拳を握りエリシアの机を睨むように見つめる。

 守りたいという想いがはっきりと伝わってきた。

 エリシアはなんとか微笑みを浮かべた。

「学年主任の先生に伝えておきましょう。きっと誰かがうっかりこぼしてしまったのでしょう」

 レオンハルトはエリシアの顔をまじまじと見て眉を寄せた。

「……エリシア様」

 その呼びかけに優しさと痛みが混じっていて。

 エリシアは小さく首を振った。

「本当に大丈夫ですから」

 でも心の中では――

(もう、限界かも)

 小さな棘が確実に胸に積もっていくのを感じていた。

 それでもエリシアは殿下の前で弱音を吐きたくなかった。

 殿下を心配させたくない。

 だから微笑みを崩さないように必死に耐えた。

 二人は教室を出て、エレノア先生の研究室へと向かった。



 研究室の扉を軽くノックすると、中から声が返ってきた。

「どうぞ」

 扉を開けるとエレノア先生は大きな机の向こうで書類をまとめていた。

 先生は二人を見て目を細めた。

「まあ、エリシア様にレオンハルト殿下。どうされたの?」

 エリシアは一瞬言葉に詰まり、レオンハルトが一歩前に出た。

「先生、実は――教室でエリシア様の机にインクが故意にこぼされていたのです。清掃をお願いしたいのですが……それ以上に誰かが意図的にやった可能性が高いと思います」

 レオンハルトの声は幼いながらもはっきりとした決意を帯びていた。

 エレノア先生の笑みがゆっくりと消えた。

 眉を寄せ立ち上がると二人に近づいてきた。

「……それは由々しきことですわね」

 先生はエリシアの顔をまじまじと見つめ、心配を込めた声で続けた。

「エリシア嬢、あなたは学園の誇りです。

 嫌がらせを受けるなんて許せません。あなたが傷ついているのを見るのは私も胸が痛みますわ」

 先生の瞳にはただの教師以上の母性が宿っていた。

「ありがとうございます、先生……。私、まだ平気ですけど」

 エレノア先生は小さくため息をつき、エリシアの肩に手を置いた。

「平気なふりをなさらないで。こういうことは放っておくとエスカレートします。すぐに調査を始めますわ」

 その時レオンハルトが口を開いた。

「先生、お願いします。そして――」

 体をまっすぐにし瞳を鋭く光らせて絶対の決意を込めた声で告げた。

「エリシア様を傷つける者は誰であろうと許しません」

 その言葉は幼い声なのにどこか王者の威厳を帯びていた。

 エレノア先生は一瞬目を丸くし、それから深く頷いた。

「……殿下のお言葉、心強いですわ。私も全力で協力いたします。清掃はすぐに手配しますわ。今日はお二人ともお疲れでしょう。ゆっくりお休みになって」

 エリシアは丁寧にお辞儀をし、レオンハルトも深く頭を下げた。



 帰りの馬車の中。

 レオンハルトはエリシアの隣に座り手を握ってきた。

「エリシア様……」

 瞳が少し潤んでいる。

「僕が全部片付けます。もう何も心配しなくていいですから」

 手がエリシアの指に魔力を流し込む。

 万年筆と同じ――優しい温もり。

「僕がいます。貴女を傷つけるものは許しません」

 エリシアはそこまで落ち込んではいなかった。

 けれど胸の奥が少しうずく。

 名簿が届いていなかったこと。

 机のインク。

(……まさか、彼女が?)

 馬車の揺れに身を任せながら、エリシアは目を閉じた。


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