固くて温かいもの
遠くで響いていた地鳴りのような咆哮と、肉を引きちぎる凄まじい絶叫。
生ある者同士の争いの音は、嘘のようにぷつりと途絶えた。劇薬のような血の匂いと、焦げ付いたマグネシウムの煙だけが、凪いだ風の中で微かに澱んでいる。
獣たちの血で血を洗う乱戦は、もう終わったのだ。
剥き出しの硬い岩肌に掘られていた狭い横穴。アンはそこに這いつくばり、激痛の走る脇腹を抱えて荒い息を吐いていた。
「……ここは?」
「『ネズミ』の古い大巣穴だ。」
「ネズミ??そ………あのネズミなの?ネズミって私たちがはいれるような穴をつくるかな…。」
もはやここまで見てしまえば、アンは全てを信じる事はできない。少年が言うネズミがただのネズミなわけがないのだ。
だが期待外れもいいとこな、返事がすぐに返ってくる。
「どのネズミだよ。」
「複数いるんだ…。」
アンは少年との会話のズレがどこで起きるのか、明確に気づいた。
この大陸に生きる動物は適応したものしかいないということに。みんなあの狼と猪のように、負けないように形を変えたものたちなのだ。
そうなると、この横穴がアンの想像しているネズミとは大幅に違いそうだ。
「……よくわからないことばかり言うんだな。ここらで入れそうな穴はこれしかなかったし、音も遠い。半日くらいなら狼には見つからない。」
穴の入り口で外の様子をうかがいながら、ぶっきらぼうに言った。整った顔が横を向いて、入ってくる光が照らしいて、まるで薄い衣が透けるような白さに、アンは見とれていた。
(…綺麗な顔。)
アンのトキメキを知らず、少年は手際よく泥と苔を混ぜ合わせたていた。
団子のようになったそれを、躊躇いなくアンの引きちぎられた防護服の隙間、生身の傷口へと押し当てた。
べちゃっとした気持ちの悪い感触の底から、ジリジリと熱くなってくる。
「つ、あうっ......!しみるぅうう。」
「う、うるさいやつだな。あんまり騒ぐと見つかるぞ。」
「なら言ってよ。なんでそんな急に…。」
「仕方ないだろ。血の臭いで近づいてくる動物もいるんだ。赤みも引くし、多少ましだ。我慢しろ。」
塗りたくられる泥は、まるで傷口に塩で、歯噛みして耐えるしかない。
涙目になりながらも堪え、アンは少年に礼を尽くす。
「あ、ありがとう。そのええと…あなたの名前は?」
「…俺たちの言葉はお前にはわからない。それでも名乗るなら、エルドラフ。」
アンはすぐになんで?と返しそうになったが、口に含んで我慢をした。
意味が深そうな話し方を追求するのは簡単だ。だがそんな事を追求し続けていては、何時まで経っても時間が足りない。なので肝心な事を聞く事にシフトした。
「エルドラフ。なんで私を助けたの? さっき、命を無駄にする奴は大嫌いだ、って……」
「聞きたいことがあるって言ったろ。なぜなら…」
エルドラフはすり鉢と棒を腰巾着に入れたあと、アンの顔をじっと見つめた。その冷徹だった碧い瞳に、わずかな揺らぎが混ざる。
「お前がミナミに瓜二つだったからだ」
予期していたとしても、言葉が詰まる。まさか母親と会ったことがあるとはっきり言われてしまうと、アンは黙らずにいられない。
「昔、飢え死にしかけていた俺を助けてくれたんだ。それだけじゃない。この大陸での生き方を教えてくれたんだ。恩があるんだよ。だからあんたを助けたんだ」
見知らぬ子供にも手をかける。間違いなく母親だ。アンの頭の中にわき上がってきたのは、母親の言葉だ。
【だから、ちゃんといい子で待ってて。お土産だって期待していいのよ!】
アンは手を胸に寄せて、鼻の奥がツンと刺激される。のども震えてうまく声が出なくて、最後には目尻から涙を流していた。
突然の涙に、少年は驚いて、あたふたと動いている。
「きゅ、急に泣くやつがあるか?!どうした?!!おなか痛いのか??!」
「……お母さんのお土産を受け取れて嬉しくて…」
「??」
心中を推し量るのはまだまだ関係性が浅い。それでも
「やっぱり母親だったんだな…。」
「うん。自慢のお母さんなの。」
「そうか、なら話は簡単。俺はあの人に恩を返さないといけないんだ。あの人は今どこに。」
ここでやっと話が戻った。アンは自身の目的を思い出して、心の光が影に遮られる。
次第に暗がりが生えだすアンの顔を見て、少年は察しがついた。
「……まて。倒れてるのか。」
「……うん。寿命が…あるかも…。」
「やっぱり。間に合うのか…。」
「ま、間に合う?なにかしってるの?」
会話のラリーを切り、少年は腰巾着から紙を取り出す。折りたたまれた紙を広げると、地図が描かれている。
島の中心にある森を指さしてアンの目を覗く。
「ここがグレンリボの森。」
「グレンリボ?変な名前。」
「その変な名前の森で、ミナミは衰弱し始めたんだ。ここの胞子は毒性がある。甘い味で虜にする人食いの木。恐らくだがミナミはそれにやられてる。」
初めて病名を教えてくれそうで、アンはエルドラフのボロ布の袖を掴み、必死に身を乗り出した。
察したエルドラフは静かに頷き、腰の革袋から、琥珀色に怪しく光る結晶の詰まった小さなガラス瓶を取り出した。
「これがその治療薬。ミナミに届けたいんだ。」
ガラス瓶を見つめるアンの瞳に、確かな、まばゆいほどの希望の光が宿る。
「それを、お母さんに……」
「ああ。だが、これは毒にもなる。狼の胃酸で溶かしたものだから、どれほど効果があるからわからない。だから届けるのはなやんだが…。」
エルドラフはガラス瓶をしっかりと握り締める。
「この手に救いはある。なら、やることは一つだ。……あのクソ高い堅牢な檻に、これを持って戻るぞ、アン」
戻るには遠すぎる、遭難したら終わりだと、一度は絶望した外の世界。
けれど今、アンの手には少年の逞しい腕があり、胸には母を救うための本物の「特効薬」があった。
アニューの腕時計の赤いセンサーが、二人の生存を示すように、静かに、力強く明滅を始めていた。




