世界の終わりに
狼が地面に叩きつけられ、激しくのたうち回る。残された五頭のウルフたちがにわかに低く唸り、新しく現れた『それ』へと一斉に鋭い視線を向けた。
「人間なの…よね。」
だがそれはアンも同じであった。人類が住めないと言われていた世界に、2つの足を降ろし、ボロキレでも布を縫い合わせて作った服とマント。色白な肌と白い髪はホスト内で見かけたことはない。
そんな見てくれよりも何よりも弓と矢が目について離れない。その技術は古いが、動物が作れはしない牙なき人類の足掻き。つまり文化があるという証拠だった。
「また人間か」
少年は呟きながら、強弓を引き絞り、吐き捨てる。
「ね、ねぇあの…痛ッ!!」
「動くな。あと声を出すな」
少年はアンの横に音もなく飛び降りると、腰のホルダーから無骨なシリンダーを取り出した。
「なにそ………くシャイ!!」
「だから黙ってろ。」
キャップを引き抜いた途端、周囲に強烈な「アンモニア臭」が立ち込める。ツンと鼻を突く、尿の腐敗臭にも似た悪臭だ。
少年は容赦なくその液体を自分の身体に浴びせる。次いで、仰向けに倒れるアンの胸元や引きちぎられた防護服の袖へと容赦なくぶちまけた。
「うぐっ……!?」
鼻腔を突き刺す強烈な臭気にアンは思わずえずきそうになるが、少年の冷徹な碧い瞳がそれを許さなかった。
かと思えば、精錬された顔を耳元に寄せて、吐息が伝わるほどの距離で耳打ちをした
「_____」
反射的に身体を丸めてしまうほどのくすぐったさに、少年の言葉が淀む。
(何悶えてる?…………まぁいい。あいつら目は悪いが、鼻はいい。この匂いの隙間を嗅ぎ分けて獲物を襲うんだ。)
(おしっこみたいな匂い…。)
(実際そうだ。)
(え?)
(これ借りるぞ。火なんだろ。)
少年はさらに、懐から白い粉末の詰まった小さなカプセルを取り出すと、それを手近に転がっていたアンの剥き出しの電熱線へと叩きつけた。パチパチと散っていたスパークが、カプセルを包み込む。
「伏せろ」
次の瞬間、アンがさきほど起こしたそれとは比較にならないほどの、濃密な桃白色の煙幕が激しく爆発した。
ただのマグネシウムではない。野生臭さもありながら、果実のような異質の甘い匂いが混ざり合っていた。
「グルゥァッ!?」
「ガウゥッ!」
突如として視界と嗅覚を桃白色の煙に奪われた狼たちが、困惑したように激しく頭を振り、互いの身体を衝突させ始める。
「な、何が起きたの?」
「この匂いを覆い尽くすくらい、この匂いはキツイって事だ。」
アンモニアの悪臭と、それを覆い尽くすほどの濃厚な甘い匂い。狼たちにとって、ここは一瞬にして「未知の巨大な怪物の巣」へと変貌したのだ。
「こ、コレで逃げれる?」
「逃げない。」
「じゃあなんで煙幕なんか。」
「俺たちのかわりにやっつけてもらうんだよ。」
言葉の終わりに、少年の仕掛けは効果を発揮する。
霧の向こう、森の奥深くから、地面を揺らす不穏な地響きが伝わってきた。
「なに……なにが起きて。」
狼たちの動きがピタリと止まる。耳をそば立て、背中の鋭利な毛並みをかつてないほどに逆立てて防衛態勢を取る。
「さっきアイツラの群れが見えてよかったぜ。初めての道具だから、試験的に使えるし、一石二鳥だな。」
「何をしたのよ…」
「くる……隠れるぞ。」
「ちょ、ちょっと!」
少年はアンを掴んで近場の草陰に紛れる。痛みを手で触れながら身体を返して外を見ると、狼の包囲網に向かって歩くのは、得体のしれない動物だった。
体長はアンをゆうに超えていた。大きな鼻から漏れ出る息が地面を巻き上げ、砂と熱さを孕んでいる。特徴的な垂れた耳が目元を隠し、茶色の毛には緑色の苔が生え、背中を斑に色づけている。
何よりもアンが目に入ったのが口元から伸びる牙だ。青みがある白色の2本の牙は、骨というよりは鋼鉄のような質感がある。
そんな全身が戦車のような、まるで巨大な岩のような存在が2頭、狼の群れに相対していたのだ。
「イノシシ…だよね。私が知ってるものじゃないんだけど…」
「俺たちはランドレースって呼んでる。箱舟から逃げ出して、身体を強くしたんだってよ。詳しくは知らねぇけど、ここらの土地はアイツラの餌場だ。」
「箱舟……あの船のこ」
疑問をぶつけようとしているうちに、秒刻みで状況が変化した。
匂いに狂った三頭のランドレースが、鼻から荒い熱息を吹き出しながら、血走った眼で煙幕の中へと乱入してくる。
「なんであんなに荒れてるの?また何か細工を…」
「メスの匂いを仕込んだんだよ。」
「………えっち。」
「言ってろ言ってろ。これぞ処世術ってや……」
ここまでが少年の策だった。だが、それだけでは終わらなかったのは誤算だった。
甘い匂いの隙間に入り込んだのは、匂いじゃなくて気配。今までよりも一層地面は揺れて、空気がひりつき出した。
「くそ。ボスまでいたのかよ。」
ひときわ巨大な影が、霧を文字通り引き裂いて姿を現す。
「ブモォォォォォォォッッッ!!!!!」
「うわ!なになに!」
「くっ……マズった。これじゃ場が荒れるだけ荒れてとんでもない事になる。」
鼓膜が破れんばかりの咆哮。現れたのは、他のランドレースを遥かに凌駕する、まるで小さな山が動いているかのような超巨大な『群れのボス』だった。
頭部から生え出た四本の歪な牙はより一層滑らか。その皮膚は幾重もの泥とアルカリ結晶で固められて岩盤そのものの硬度を誇っている。
超常の力を持った動物たちを前にしてみれば、おそらくこの群れのボスは、神のような存在なのだろう。
縄張りを侵されたと錯覚したランドレースのボスが、目の前にいた狼に向かって時速数十キロの質量突進を敢行した。
巨体が震わせる地面の音に、アンは恐怖で体をこわばらせる。
「グルルル!!ガウ!!」
一頭の狼は勇気を出して果敢に挑む。凄まじい衝撃音と共に紙切れのように撥ね飛ばされ、崖の壁面に衝突して肉塊へと変わる。
それが、全面戦争の合図だった。
「ガウゥゥゥッ!!!」
狂暴な野獣のプライドを爆発させたウルフたちが、一斉にランドレースの巨躯へと飛びかかる。 ウルフの口から放たれる強酸性の胃液がランドレースの強固な皮膚をジュウジュウと焼き溶かし、ランドレースの巨大な牙がウルフの鋭い毛並みを肉ごとえぐり取る。
血飛沫が舞い、肉が引きちぎられる、文字通りの『血で血を洗う獣同士の殺し合い』。
凄まじい肉のぶつかり合いと絶叫が響き渡る修羅場のただ中で、少年はアンの防護服の襟首を強引に掴み上げた。
「立て。これ以上の煙幕は持たないな…行くぞ。」
「つ、あッ……!」
「おいおまえ。骨が折れてるのか。」
「……だ、大丈夫。」
肋骨の痛みに意識が飛びかけるが、アンは自らの舌をもう一度強く噛み、その激痛で無理やり身体を覚醒させた。
(ど根性……っ、ここで、死んでたまるか……!!)
混沌の中で悲鳴と遠吠えが背中を押してくる。プレッシャーのなかで、アンは痛みに負けて膝を折った。
「こ、根性でも…」
「おい!いいから腕もて!!」
目を丸くしてしまった。少年は無防備にも弓矢を背中に回して、アンを気遣ったのだ。
まさか他人である自分を見てくれるとは思えなくて、人を信用していいのかもわからなくて、直ぐに手がでなかった。
もういいんじゃないか?母親は死に直面していて、父はもう人間の生活をできていない。諦めても誰もとめない。それならここで、終わらせてしまうのもいいんじゃないだろうか。もういい。
命のぶつかり合いの横で、アンは後ろ向きな考えを留められないでいた。
その様子を見ていた少年は言った。
「もういい。」
そしてアンの手を引き込む。
「あんたには教えてもらわないといけないことがある。でもそれ以前に、命を無駄にする奴は大嫌いなんだよ。」
あまりに眩しかった。生きること以外の道を知らない、あまりに眩しい生の光がらアンの考えを照らし出した。
彼の言うことを聞くように少年の腕にすがりついて、感覚の消えかけた両足で泥を蹴った。
背後では、ウルフの酸で片目を溶かされたランドレースのボスが発狂したように暴れ回り、地獄のような狂乱が幻影霧を琥珀色から真っ赤な血の色へと染め上げている。
二人はその圧倒的な死の暴風圏から逃れるように、一歩、また一歩と、さらに深い未知の領域へと足を踏み出していった。
アニューがくれた黒い腕時計のライトが、飛び散る血煙の中で虚しく明滅している。




