真打ち登場
アンの目の前には、大きく開いた顎が迫る。迫る白刃のような牙。強酸性の唾液が放つ鼻を突く悪臭が奇跡を引き起こした。
死への恐怖が彼女の身体を反射的に横へと跳ね飛ばす。ガブゥッ!と虚空を噛みちぎる凄まじい顎の音が鼓膜を揺らした。
(よ、避けた___反射だけで避けられた___)
着地の余裕もなく地面を転がるアンの背後で、勢いのあまった一頭が凄まじい速度のまま茶色の土壁へと激突する。そのまま、狼は痙攣一つせずに崩れ落ちて、身動きせず地面へと倒れる。
(ラッキーっていうか・・・。でもこれじゃ)
アンの危惧は的中して、残る六頭の警戒レベルが跳ね上がる。威嚇の抑揚が一段高くなり、少しぱさついた尻尾がそそり立っている
(怯んでくれない……よね、むしろ怒らせた、よねだったら)
狼たちはアンの決意を嗅ぎ取って、警戒しながらじりじりと距離を詰めていく。群れを前に、アンは脱ぎかけていたヘルメットのストラップを死に物狂いで握りしめた。
(コレしかもう…武器がない。)
重厚なポリカーボネートの塊を、彼女はど根性だけでぶんぶんと振り回し、強引に包囲網を破ろうと退路を求めて突き進む。母を連れて、心根を食いしばり、ヘルメット振り抜いた
「こんじょーーーーーー!!!」
だが、百戦錬磨の変異種には通用しなかった。ウルフたちは軽やかなステップで鉄球のように迫るヘルメットをことごとく回避する。無論追いつこうと必死に食い下がるが、彼らは接近を許さない。
「この!!避けないでよ!!」
一進一退。避けては迫り、振っては遠のくを何度も繰り返しているうちに、眼の前の狼は完全にアンの視界の死角へと回り込む。
「しまっ――痛ッ!!!」
まるで電気のような鋭い痛みと鈍い鈍痛で気付いた。左横から飛びかかってきた別の個体が、アンの左腕にその牙を深く突き立てていた。
凄まじい衝撃。だが、アニューが施したアップグレード装甲が、狼の牙が肉に達するのを寸前で食い止める。代わりに、口から溢れ出た強酸性の胃液がジュウウウと激しい白煙を上げ、防護服の複合布地をドロドロと融解させていく。
「この……っ、離れろォォォ!!」
肉を焼かれる恐怖に脳が白く染まりながらも、アンは右手にあったヘルメットを、左腕に噛みついたウルフの頭部へ狂ったように叩きつけた。一度、二度、三度。強固なバイザーの面が割れ、緑のARビジョンがバチバチと火花を散らして砕け散る。それでも叩きつけるのを止めない。
手応えの抜け。ひときわ鈍い音が響き、頭蓋を砕かれた狼の口から泡を拭き上げて、地面に倒れ伏した。
その衝撃で、引きちぎられた左袖からアニューが倍増させた電熱線が剥き出しになり、パチパチと青白い激しいスパークをまき散らし始める。
「いてて…なんて力。…これじゃ体が穴だらけに成って…ん?」
アンは激痛に耐えながら下を見ると、背の高い草に細かできらめく何かがあった。そして腕から伸びて剥き出しになる電熱線がある。アンの頭にはカリーニ先生の退屈な授業が呼び起こされる。
(これなら……いける!!)
「アオーーーーーン!!!」
攻撃の合図。狼が一斉に駆け出すタイミングで、は感覚の消えかけた右手で地面の白い砂を強引に握りしめると、剥き出しの電熱線が放つスパークに向けて思い切り振りかけた。
「おねが___」
瞬間、空中に舞った金属微粉末にスパークが食いついた。爆発的な燃焼が起こり、直視できないほどの白い閃光と熱風が弾けた。即席の粉塵爆破。
「ほんとにできた…。」
拍子が抜けた声の裏で思い出したのは、今日のアニューの言葉と自然史の授業だった。この大陸の中和に貢献したのは苔だ。『苔の残り物。マグネシウムが反応して爆発的な燃焼が起こる』。 見れば、自分の足元にあるのは目の粗い白い砂。ナトリウムが分離され、純度の高い可燃性マグネシウム結晶が残留した、この土壌そのものだ。
しかし、ここは四方を壁に囲まれていない開けた大地。気圧と酸素のバランスのせいか、あるいは火力が足りなかったのか、爆風はウルフたちを一瞬怯ませ、煙に巻く程度に留まる。
効果なし。それどころか、爆音と炎は残された野生の狂気を完全に燃え上がらせてしまった。爆煙の向こうから、怒り狂った残りの五頭が突き抜けてきた。
「あ――」
押し倒され、完全に地面に組み伏せられた。防護服の隙間から覗く生身の首筋に向かって、リーダー格の巨大なウルフがその顎を限界まで広げて肉薄する。
「くそ!!なめんな!!ど根性!!!!!!!」
噛みつかれる寸前にアンの右手が泥臭く地面を這い、転がっていたアルカリ性の硬い岩を掴み取った。それを、迫るウルフの剥き出しの口内へと横向きに無理やり突き刺す。
耳障りの悪い音、火花が散るような衝撃と共に、ウルフは岩を咥え込まされた形になった。強酸性の唾液を撒き散らしながら、ギリギリと音を立てて顎を閉じようとするが、岩が邪魔をしてそれ以上牙が沈まない。
だが、アンの防壁もそこまでだった。別のウルフの鋭利な爪が、無防備になったアンの脇腹を容赦なく引き裂く。防護服が引き裂かれ、生身の肉に爪が食い込んだ。
ゴキ、と嫌な音がして、肋骨が激しくへし折られる。
「ガ、あッ……呼、吸が……」
肺が潰され、声にならない悲鳴が喉に詰まる。激痛で指先から完全に力が抜け、世界が急速に遠ざかっていく。
その絶望的な隙を、ウルフたちは逃さなかった。岩を咥えた個体が首を振り、完全にアンへのトドメを刺すべく、別の個体が空中へとしなやかに跳ね上がる。その牙の先は、間違いなくアンの喉笛を捉えていた。
(ここまで、なのかな……。)
スローモーションのように流れる視界の中で、アンは迫る死の影を見つめることしかできなかった。
その、刹那だった。
一条の閃光が戦場を駆け抜けた。ウルフの硬質な毛並みをものともせず、空中でその胴体を正確に貫いたのは、見たこともない意匠の施された一本の「矢」だった。凄まじい風切り音と共に、跳躍していたウルフが地面へと文字通り縫い付けられる。
「グルァッ!?」
予期せぬ一撃に残りの群れがにわかに動揺し、動きを止めた。痛みに霞むアンの視界の端。霧の向こうから、静かに、だが圧倒的な存在感を放ちながら、その影が姿を現す。
「に、人間がいる……」
人間離れした美しい白磁の容姿に、細く、尖った耳。 旧時代のファンタジー小説に登場する『エルフ』そのものの姿をした一人の少年が、手にした強弓を引き絞りながら、冷徹なまでに美しい瞳で狼の群れを見下ろしていた。
「また人間か。」




