旅立ちの日
ホスト89は岩の直柱の中をくり抜かれて、その中に収まる避難施設だ。入口は頂上にあり、岩場の節が切り立つ堅牢な塔から吊るされた籠で降りることになる。
剥き出しの鉄格子で囲まれた昇降ゴンドラ。それが、外の世界へとアンを運ぶ唯一の揺り籠だった。
ガガガ、と不快な金属音を立ててゴンドラが凍てつく闇の底へと下降を始める。防護服のバイザー越しに見るホストの堅牢な岩が遠ざかるにつれ、アンの瞳からは堰を切ったように涙が溢れ出していた。
(お母さん……っ、お母さん……!)
胸をかきむしるような、ちぎれんばかりの焦燥。アカバネのあの残酷な言葉が、どうしても耳の奥から離れない。
『口減らし』。お母さんは病気で、余命が迫っていたからこそ、ギデオンのシステムに都合よく使い潰されて外へ送り出された、言葉は違えど意味はそうなる。そして今、あの白い部屋でただ眠り続けている姿を見ているからこそ、言葉の真実味がある。
不安で涙が流れていく。悲しみの雫がバイザーの内側を濡らして、防護服に内蔵されたデフロスターの処理が追いつかない。視界の端からうっすらと白く凍りついていく。泣いている場合じゃないと分かっていても、母への想いが嗚咽となって喉を締めつけ、止めることができなかった。それでも彼女は手のひらを握り込んで、魔法の言葉を口にする。
「ど根性って…言ったじゃない。」
やがて、ドンと鈍い衝撃と共にゴンドラが地表へと激突するように停止する。アンが狂ったように鉄格子の扉を押し開けて一歩を踏み出した瞬間、世界は凄まじい轟音と、白一色の暴力に塗り潰された。
バイザーを叩く雪と風。体を押し返すほどの猛風は予測していたのに、ある変化が彼女の足を止める。
「さ、寒い…聞いていた話と違う!」
厚手も素材を簡単に抜けてくる極寒の世界。時間を追う毎に歯がカチカチと音を立てて、車のエンジンのように震えだす体。彼女は電熱線の檻の中で凍えていたのだ。
かつての環境から改善され、寒さは生存圏内だと授業では聞いていた。今年も極夜が終りが見え、冬の厳しさは収まりつつあると聞いていた。だがそれは、どれも、大人に向けた説明で尺度も大人だ。子供を想定していない。
身に余る力、死への予感、浮き上がる不安めいた言葉を握りつぶす。
「と__止まれない。止まってたらお母さんが死ぬ!!!」
自然の猛威と運命がぶつかるが、そんなものに負けないようにと、アンは叫んだ
「ぜったい___治療法を見つけ出してみせるんだから!!!」
進むごとに地表の吹雪は、予想をはるかに超えていく。
叩きつける雪の一粒一粒が、特殊防護服の装甲を容赦なく削り取っていくのを、肌で感じているからだ。
この防護服は探索班の使い古し。廃棄されるべき物を、アニューによってリペアアップグレードしている。電熱線の量は倍。重さを考慮して保温性のある素材に代替しているため、既存の装備よりも優れているはずだった。だが風は防護服内の温もりを奪い去っていく。
(まさかここまで通用しないなんて…早く抜けないといけないけど、視界が。)
バイザーは吹雪から抜け出るための最短ルートを、ARビジョンで写し出した緑の矢印で示していた。だから視界が遮られていようとたどり着ける。問題はアンの視界にあった。
緑色がキツすぎて矢印が光の塊に見えていたのだ。目のピントを調節する毛様体筋という筋肉が寒さで麻痺し始めていた故である。これは登山家なら一度は体験する現象、低体温症の中等症に当たる。この場合ベースキャンプに戻る又は温かい場所に逃げるのが正解だ。
だが今のアンにはどちらも選択肢から除外されている。
(もどるにはとおすぎるし、かりに遭難したら終わりだ。ま、ま、前に進むしかないよね…。)
時間がアンの体を削っていく。バイザーに当たる音が聞こえなくなる。眼の前の視界が不鮮明になる。急激に身体の芯から感覚が消えていく。激しかった身体の震えはいつしか奇妙に収まり、代わりに酷く心地よい多幸感と、強烈な眠気がアンの脳を支配し始めていた。
低体温症による血液循環の停滞が意識の混濁を始めている。崖の淵でつま先立ちするような、僅かな理性が警告する。防護服のバイタルアラートが耳元でけたたましく鳴り響いているはずなのに、それすらも水の底で聞く音のように遠い。
(まとわりついていた…さ、寒さが消えたのはマズイ…はやくしないと…なに??)
その時、牙を剥いていた白い視界が、不意に奇妙な静寂を伴って凪いだ。凍てつく断崖の切れ目から、はるか眼下に広がる広大な海の情景がのぞいたのだ。
(___ここ、どこなんだろう。)
氷に閉ざされた暗い海原のただ中に、まるで太古の巨獣の墓標のように、巨大で無骨な『船』が三隻、ひっそりと佇んでいるのが見えた。
(あんなの…授業で習ったことない。)
凍りついた鉄の巨躯は、息を呑むほどに冷徹で、白銀の世界に黒々と刻まれていた。だが、その壮大な景色も、押し寄せてくる不気味な琥珀色のグラデーションによって瞬時に遮られた。
「アン、こっちよ」
どこからか、優しく懐かしい声が響いた。カリーニ先生が授業で言っていた、低体温症の最終症状である幻覚。死をも引き出す幻に、アンの思考は完全に現実から切り離された。
だがアンは立ち直った。舌を自ら噛んで、痛みで現実に引き戻したのだ。
(こんなのまぼろし!!現実じゃないんだから!!現実じゃ____)
痛みが和らいだ途端に吹雪の中で立っていたのは、あの日の綺麗な赤いダウンジャケットを着た母親 - ミナミだった。碧眼の瞳を柔らかく細め、アンに向けてそっと手を差し伸べている。
「お母さん......! 待って、お母さん!」
それが低体温症の生み出した致命的な幻覚であると分かっていても、今のアンにとってはそれが唯一の道標だった。幻覚の母は、白銀の迷路を滑るように進みながら、何度も振り返ってはアンを導いていく。
アンは感覚のない四肢を無理やり動かしいぇいるのは、あのエアロックの向こうで誓った「ど根性」だけ。細い糸のような希望にすがり、母の背中を追いかけて吹雪の中を何時間もかけて突き進んだ。
「おかぁさん…まって…そっちは行きたい方向じゃ_____うわ!!!」
そして、幻影の母がふっと溶けて消えた瞬間、アンは足元から地面が消えた。
「お__おち___あれ?」
アンは自身が滑落したんだと感じた。だが実際は角度の浅い斜面を転がり落ちただけに過ぎない。2、3回、体を転がして痛みが過ぎ去ってから上体を起こす。
温かな日差しが余す所なく降り注いでいる。砂利と砂が敷かれれ目の粗い道。背の低い草がそそり立っている緑の道。そこは、雪で封じられてはいない自然がいる。不気味なほどに穏やかな気候に満ちた、おそろしい動物が跋扈しているはずの、自然界の入り口だった。
「つ、ついた…幻影霧___いや熱い!!」
気候は吹雪を抜けた日差しの中では、防護服はただの焚き火だ。アンはバイザーを捨てて防護服を脱ぎ始めた。
「こんなに気候が変わったら体が持たない。うわ!!!!!」
だが、息を整える間もなく、右手首が震えだし飛び上がる。右手を抜いてみると腕時計の画面には赤い円の内側で、後かない青い点に向かって、赤い点が7つほど駆け寄っていた。このままだと程なくして点が重なるだろうと、アンは考えた。
「うーん。見方の説明位はしてほしかったな。えーと。青い点が私かな…赤い点は…私以外の生き物…これって近接センサーってことじゃ!!!」
近接センサーとよんだ画面から複数の荒々しい生命反応を感知している。確信を持った途端に、事が始まりだした。
忍び寄ってきたのは、鼻をつまみたくなる程のアンモニア臭と唸り声だった
「グルルルル……」
反対側に見えていた背の高い草を分けて現れたのは、灰色の鋭い毛並みを逆立て、暗闇で怪しく光る双眸。次々に姿を表す群れの全容が、アンに狙いを定めた。
姿に見覚えがあった訳では無いが、テトラのアーカイブで見た報告書の特徴が一致する。故に、アンは後ろに後退りしてしまった。
(狼…探索班の最大の障害だって、カリーニ先生が言ってた。)
姿を表した狼たちは、隙のない陣形で一つの『獲物』を完全に包囲していた。もう品定めの段階を終えて、状況は集団での狩りに入ったのだ。滴る涎は地面に落ちて、たまたま草に落ち、細い煙を上げて溶け出した。
(強酸性の唾液…じゃなくて胃液だっけ。噛まれたら肉が爛れ落ちる。噛まれないようにしないと。そうだ…この子達は環境に適応したっていう個体種。)
記憶の中でカリーニ先生が警告していた。強アルカリ性の大地で内蔵を変化させ、中和作用のある強酸性の胃液を手に入れた狼。この地を統べる獰猛な狼『アルカマックウルフ』だと。
「お、終わった??私…終わるのかな…」
口から覗く牙と唾液。獲物を捕らえる狂気が顔を出していた。死の香りに体が凍りついて目が離せないでいた。寒さにも似た恐怖に震え、絶望的な状況が彼女の視界が絶望で閉ざしていく。
見えなくなった視界は、頭の中で、お花畑のように広がる言葉が連れ戻した。
【ど根性だ!!アン!!もしどうしようもなくて、体が凍りついたときは私の顔と、この言葉を思い出しなさい!!】
幻影ではない。確かな記憶が、凍りついたアンの体と心を溶かし出す。回りだした脳みそが視界から情報を取り入れ始めて思考が始まる。
四肢を地面に付け、威嚇をしている7頭の狼。扇状に取り囲み、アンに注目をしている。
(___ど根性!!手持ちの武器はない。て、手持ちはない。周囲を分析。)
背後に視線を流すと茶色の土壁が鎮座している。ここは開けた大地ではあるものの。背後に道はない。登るには高い崖が、アンの背中を押しているような状況だ。
(退路はない___逆に言えば、は、背後は取られない___)
狼の群れは無音の合図を送り合う。相手の動きを読み解いて、視線を交差し、無音の合図を送り合う。それは相手の隙をついて逃さぬように襲うことを学んでいるからだ。
今まさに敵から少しの間、目を逸らしたアンに隙、彼らの攻撃タイミングを作ってしまった。3秒にも満たない時間を埋めて、アンの目の前には、大きく開いた顎が迫る。




