変化の朝
学校の放課後が終わり、消灯の時間が訪れている。ホスト89の最下層に位置する「外殻玄関」の周辺は、居住区の清潔な白さとは異なり、鈍い金属の光沢と重々しい機械音が支配する薄暗い空間だった。人気もないため、普段よりも一層に陰鬱だった。
影に紛れながら、大きなリュックを背負うアンに向かい合うのはアニューだ。
「はい、これ。見つからないように、奥のロッカーに隠しておいたからバレてないはず。」
アニューが周囲を警戒しながら手渡してきたのは、重厚な気密構造を持つ特殊防護服と、鈍い銀色に光る一枚の「ライセンスカード」だった。
「……ありがとう、アニュー」
「お礼なんていいよ。それより、本当に気をつけてね。いくら私のカードがあるからって、ギデオンに見つかったら一発でアウトなんだから。」
アニューは弱冠十代半ばにして、ホスト89内の最高位学術機関で「博士号」を取得した異例の天才だった。その若さにもかかわらず、ギデオンから外域調査のための「特別な自由通行権」を唯一与えられている。アンが外の世界へ這い出るために必要だった「あれ」とは、アニューが持つこの特権のことだった。
「今日は幻影霧の向こうまで行くんでしょ?多分使うことになるし、遠くまでいかないで。」
「みんなが寝てる間の5時間がタイムリミット、守衛が来るまでにかえることだよね、わかって__ん?」
綺麗に折りたたまれた防護服とヘルメットの隙間から、何かがこぼれていた。アンは片手で引き抜くと、出てきたのは黒い腕時計だった。
「明日は誕生日でしょ。それはプレゼントで、このあたしが作ったの。」
「へ〜…。」
「あ、怪しまないでよ!多機能なのよそれ。ライトにGPS機能搭載だからコンパスと地図も見れる。頸動脈からパーソナルデータを測定できる。」
「それってギデオンにもバレるってことじゃない??」
胸に手を当てながら話す仕草が止まって、考えになかったんだとアンは気付いた。そして、抱きしめた。ありったけの力で抱き寄せる。
温かい体温を感じながら顔をうずめると、アニューから母親と同じ匂いがした。この人の願いはいつも対立しているのに、ただ父の笑顔を取り戻したいからと、同じ匂いまでさせている。辛いはずなのにやるしかないと決めたアニューの顔を、アンは見ることができないから、強く抱いてお礼を言うしかない。
「オネェちゃん。ありがとう。」
「…うん。絶対戻ってきて。」
それからアンは手際よく防護服に袖を通し、ヘルメットを小脇に抱えた。
意識の戻らない母親、ミナミをあの深い眠りから起こすために、アンはギデオンの絶対的な規則を破り、アニューから機材を借り受けては、毎晩のようにこのホスト89を抜け出していた。
吹雪の向こう、母が向かったというあの緑の森の奥に、必ず母を目覚めさせる鍵がある。そう信じて疑わなかったからだ。
アンがライセンスカードをハッチの認証スロットにかざそうとした、その時だった。暗がりの奥の方で足音が響いた。
「だれ!!!」
恫喝にも近い声が響いて突き進むと、暗がりからアカバネが現れた。彼の表情はいつもと違って冷たくて、二人は身構える。
「怪しいとは思ってたんだ。」
つぶやきながら迫るアカバネの手には、タブレットが摘まれている。アンはすぐに分かった。ギデオンへの通報用だと。
「アンとアニューはいつも遅刻してる。アニューはライセンスがあるからわかるけど、アンがいないのはおかしいって。ライセンスの通行人数は一人だけなのは誰でも知ってる。」
「アカバネ…なんでここに……」
「なんでって、お前が昼間送ってきたメールのせいだよ。あのマグネシウムの燃焼特性だの、焚き火籠のルールだのさ。あんなの外域のフィールドワークに直接出てる奴じゃなきゃ、即答できるわけねえだろ。ノートをまとめてるだけのアニューが食い気味に答えた時点で、お前らの間で何かが繋がってるって確信したわけ。」
アカバネはポケットに両手を突っ込んだまま、値踏みするような濁った目でアンの防護服と、アニューの持つ博士号のカードを一瞥した。
「規則違反だぜ、アン。それとも『アニューお姉ちゃん』の特権を使えば、何をやっても許されると思ってんのか?」
冷たい金属の床の上に、突如として最悪の邪魔者が立ちはだかった。自動ハッチの駆動音が、三人の間に流れる重苦しい沈黙をただ虚しく刻んでいる。
「これは、アニューの研究の手伝いを____」
「どうせ英雄の母親のために、外へ出るんだろう。邪魔してやる。」
やり切る覚悟のある男の声に、アンは理解が及ばなかった。
「なんでって顔してるな。」
「だって邪魔する理由があなたにあるの?単なるいじめならやめてよ。」
状況を分析する中で、それを言ったのはアニューだった。それがいけなかった。アカバネは悔しそうに歯を食いしばって、何度も、何度も床を強く踏み始めた。
「誰も!!誰も気にかけない!!!なんで俺のパパはダメなんだ!!!!!」
アンは思い出した。第11148期探索班喪失にはマイケルとアカバネの父親がいたことを。なぜマイケルが捜索対象になったのかはわからない。
だが選ばれる者がいるということは、こぼれ落ちるものがいるということ。願いを引き上げられなかった悲しみの矛先が誰に向かうのかは、火を見るより明らかだった。
「なんでマイケルは良くて、パパは探してくれないんだよ。なぁアニュー」
「それは…ギデオンが決めたことだから…」
「違うだろ。ちゃんとした理由を知ってんだろ。」
鋭い指摘にアニューの言葉が詰まる。アンはそれが何を意味するのかすら、察せずにいた。
「なんだアン、知らないのか。噂すら聞いたことないなら俺が教えてやる。」
「ダメ!!言わないで!!」
急に必死になるアニューの手は追いつかない。音が耳に届けたのは、アンすら知らない深い闇。
「余命がついてる人が選ばれてるんだよ。」
全ての時間が止まって、記憶が掘り起こされていく。ベットの上で寝ている母。酒浸りになる父の背中。すべての光景が紐づいていく。
「こんな狭い場所で、外にも出られないのに、増えていく人口をほったらかしにする訳ねぇだろ!!!」
「聞かないで、アン。」
「口減らしだよ!!みんな、拍手するのは、食い扶持増やしてくれありがとうって言ってるようなもんだ!!英雄ミナミ?怪物ガルガンド??しつこく生きて返ってくるから毎度送り出してるだけなんだよ!!!!!」
今までの努力が眼の前で消えていく。生きるための理由たちが、彼女の足元を崩していく。気がつけば力なく膝が折れて、地面に座り込んでいた。
「お母さんは____外の病気で___だから外に___きっと___治療法が___」
「アン!!しっかりしてアン!!」
アニューの声が遠くなって、眼の前の光景が消えていく。足がつかない絶望に沈んでいくと、不意にアンは立ち上がった。
突然立ち上がるアンに驚いて視線が交差すると、胸を膨らませて、大きく宣言した。
「オヤクメを背負いしもの、この世に埋もれた場所で、希望の光を受け取らん!!」
それはこのホストで生きる者にとって、篝火のような逸話。闇に覆われる世界で希望を探し出して、掴んだ途端に世界を照らすというもの。そしてそれを伝えたのは、アンの母親だった。
「私は…希望があるなら取りに行く。ここで治せないのに、外を調べないなんて愚策よ!」
アンは勇み足でエアロックを開くと、冷たい空気が雪を運んで混ざり合う。
「言いたいなら言えばいい!!だれだって動けるはずなのに、立ち止まってる理由がないじゃない!!怖くてうずくまるくらいなら動きなさいよ!!」
「…。」
「アカバネ___あんたに教えてあげる。この世界で唯一残る言葉がなんなのか。」
外側に足を進めて踵を返す。背中に受ける吹雪を気にせず、中にいてたち呆けるアカバネを指差した。
「外と中、あんたの今がそこにいるだけなら一生使わない言葉。」
内側の安全と外の危険、世界を分ける壁が降りてくる。
「最後に勝つのはど根性よ!!!!」
そして世界は閉ざされた。もう騒がしさが消えた空間で、アニューは呆気に囚われている。その反対にアカバネは、一人で笑っていた。
「ど根性ってばかみたいなこと言ってんな…。はは。」
「あ、その___」
「言わないよ。コレでチクったら、俺がダサいじゃん。」
希望が世界を変える。少なからず、アカバネの心は照らし出された。




