そういうこと
アニューが用意してくれた簡易食を急いで胃袋に流し込み、二人は「ホスト89」の居住区から指定されたエリアへと移動した。
学校と呼ばれている場所は『ホスト89』の内部に設けられた閉鎖空間だ。
自動ドアが滑らかに開くと、そこには四方を均質なプラスチックパネルに囲まれた、窓一つない部屋が広がっている。お世辞にも広いとは言えない緊密な空間だったが、床から天井に至るまで徹底的に滅菌消毒されており、塵一つ落ちていないほどに清潔で、そして、恐ろしいほどに真っ白だった。その無機質な白さは、まるで外の世界の汚れを一切拒絶しているかのようだった。
「失礼しまーす…」
アンとアニューが顔を出すと、席につく20人の子供が全員視線を向けた。けれど誰も意に介さず、机の上に戻る。
「…なんか冷たい。」
「毎回遅れてればこうなるわよ。ほら早く席つこう。」
みんなの静かなる圧を感じながら、二人は隅のデスクに腰掛ける。すると前に座っていた坊主頭のアカバネが振り向いて笑っている。その顔が少し下品で、今のアンの気持ちはそんな下品さに敏感だった。
「なによ。」
「毎回この時間に何やってんだってはなし。悪いことでもしてんのかよ。」
「知らないわよ。」
「そこの三人。ちゃんと話を聞きなさい。」
教壇に立つ白いスーツを着た女教師が指を指した。3人ともはーい、と返事をして声を潜めた。
「またカリーニ先生に怒られた…また宿題だよ…。」
「なんで喋ってないあたしまで…。」
二人の悲痛な悲鳴を聞きながら、アンはペンを走らせた。
「――よって、ギデオンによるテラフォーミングシークエンスは最終段階にあります。」
子どもたちは未だ実感したことがない自然への知識を、必死にかじりついている。
「環境を整える今はまだ、この大陸は住むには適していません。皆さんがこの『ホスト89』の隔壁の外に出ることは死を意味します。そのために栄誉ある探索班がいるわけですが____」
「せんせー。どこまでならでられるんですか?」
「…そうね。」
アカバネの質問はとても簡単なものだ。なのにカリーニは言いづらそうな顔で、アンを一瞥する。
「…。」
アイコンタクトは受け取らず、アンの視線は壁を向く。好きにすればという意思表示だが、そんな物があってもなくても話は進む。
「まずこの場所から外に出ると吹雪が道を閉ざしてる。海側から流れてくる風が原因ね。その吹雪のお陰で恐ろしい狼に襲われずにすんでる。吹雪を抜けて、琥珀霧をくぐると、緑が広がっているの。穏やかな気候で狼たちの縄張り。弱者が蝕まれる死の世界。その先にも自然があると報告されているけど、住むには適していません。なぜでしょうか。」
「え?逆質問???」
「答えないと宿題の刑です。」
「うわーーーーーーまじかまじか。ええーっとえーっと…。」
アカバネが思考の渦に囚われ、自身のタブレットをスライドさせ始める。そこへメールの着信を知らせる通知が届いた。
「…開拓初期は岩ばかりの大陸でした。溶けだしたマグネシウム、ナトリウムがアルカリ性の土地を育てたため、ある程度中和された今でも薬傷の恐れがあるからです。」
「あら。ちゃんとノートをまとめているのね。正解よ。だから直接焚き火をせずに必ず焚き火籠を使うことが鉄則です。それはなぜでしょうかアニュ__」
「マグネシウムやナトリウムが反応して爆発的な燃焼が起こるからです。火が広がったり、異様に明るかったり。」
「く、食い気味ねアニューさん…正解です。」
アニューはフフンと鼻を鳴らして満足げな表情だが、アカバネは神妙な顔をして、アンを後ろ目で見ている。メールの主がアンだからだ。そのアンは偉ぶるわけでもなく、辟易した表情でペンを指の上で回すのみだ。
毎日聞かされる、現状の環境についての講義。怖がらせるだけの見えない実情を真面目に聞いているものは少ない。教育のような警戒。だが、アンの耳にその警告は届かない。
(お母さんは、あの吹雪の向こうまで行ったんだ……遠い、遠い向こうの森の奥まで。)
文字ばかり並ぶタブレットを見つめながら、アンは机の下で拳を握りしめた。
何もない、死の世界。なのに母はそこを「希望が指し示す方」と呼んだ。父親が何を恐れてふさぎ込んでいるのかはわからない。けれど、母が命を懸けて進んだ世界がそこにあることだけは確かだった。
「続いて、実戦サバイバル術の講義に移ります。万が一、変異種の侵入に遭遇した場合、あるいは不測の事態により外域へ放り出された場合の対処法です。」
タブレットの画面が切り替わり、奇妙な生物の三次元モデルが浮かび上がった。鱗が金属のような鈍い光沢を放ち、ナイフのように鋭利な刃を背負った、異様な魚の姿だ。だがその画面よりも隣に座るアニューがなぜか気にかかった。
横目で見ると真面目な顔で手元の端末にメモを取っていた。細い首筋からノースリーブの隙間へと繋がる、「薄赤い痣」。それが思い起こす男の欲。すまして平然で、何もなかったかのように取り繕っているアニューが、父親の背中がちらついて仕方がない。
「……ねぇ、アン。そんなに見つめてどうしたの?」
視線に気づいたアニューが、前方を向いたまま小さく囁いてきた。メガネの奥の瞳が、少しだけ困ったように細められる。
「ううん、なんでもない。……ねぇ、約束、忘れてないよね?」
アンが声を潜めて尋ねると、アニューは一瞬だけ指を止め、それから小さく溜め息をついた。
「こんな授業受けてよくそれが言える。…わかってる。学校が終わったら、私の部屋でね。……でも、本当に無茶はしないでよ?」
「うん。ありがと、お姉ちゃん」
アンはふたたびタブレットに視線を戻した。
誰もいない、寄せ付けない自然。その過酷な環境を生き抜くためのサバイバル術を学びながら、アンの心はすでに、学校の放課後――アニューの部屋で「あれ」を受け取る瞬間に向けて、激しく脈打っていた。




