夢と現実
「アン、起きてください。」
遠ざかっていく赤い背中と、吹き付ける白い雪。その境界線が、不意に鳴り響いた無機質な電子音によって融解していく。
「アン。目を覚ましてください。レム睡眠のサイクルが予定時間を超過しています。」
部屋に響いたのは高低の起伏を持たない合成音声。幼い頃から聞き慣れたAIテトラのアナウンスだ。
アンは、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。視界に広がっていた筈の、猛吹雪の白は瞬時に掻き消え、代わりに心に座っていた寂しさと不安の残り香を感じている。
視界を回せば天井を這う蔦の隙間から漏れる、鈍い蛍光灯の光が飛び込んでくる。アンはまだ自分がどこにいるのか思い出せないでいた。
「お母さ……テトラ?」
その呼びかけに深い意味はない。ただ寝起きにしては辛い気持ちを拭うための、対症療法に過ぎない。なぜならテトラの話し方は母親そっくりだからである。
「はい。私はここにいます、アン。」
顔の近くに寝ている古い端末の画面が、淡い青色の光を放ちながら明滅している。AIテトラのいつもと変わらない静かな声が、まどろみから引き剥がす。
アンは重い上体を起こし、自分がまだ「現在」に留まっていることを自覚する。シーツを握りしめていた手を緩め、すぐ隣へと視線を落とした。
「ミナミのバイタルに変わりがありません。入院累計35日目、ギデオンからの分析は今日の16時に___」
そこには一台の古びた医療用ベッドが置かれている。 横たわっているのは、一人の女性だ。夢の中で赤いダウンジャケットをまとい、アンの頬を温かく包み込んでくれた母親は、いまや機能の大半を失った生命維持装置のチューブに繋がれ、意識不明のまま物言わぬ器と化している。碧眼の瞳は固く閉じられたままで、微かな呼吸による胸の規則的な上下だけが、彼女がまだこの世界に繋ぎ止められていることを示している。
「お母さん、あの日のこと夢で見たんだ。」
アンの手が、ベッドの上の冷たい手に触れた。あの夢の中の、痛いほどの温もりはどこにもない。
「…何があったのかくらい、教えてよ。」
どこへ行くのかも告げず、ただ「希望」という言葉だけを道標にして外の世界へと消えた母。どのような過酷な環境を突き進み、どうやってこの場所に帰り着き、そしてこうして眠り続けることになったのか、それを語る唇はもう動かない。
張り詰めた心に針を刺すように、テトラの音声が静寂の満ちる部屋に淡々と響く。
「涙腺からの分泌物を確認しました。心理的ストレスを緩和するため、部屋の環境光を調整しますか?」
アンは袖口で乱暴に目元を拭った。
「大丈夫。大丈夫なんだから。」
夢の終わりで零れかけた言葉は、いまも喉の奥に引っかかったままだ。だが彼女はもう、ただ泣きじゃくるだけの子供ではなかった。アンは意識の戻らない母親の手をもう一度強く握り締め、真っ直ぐに前を見つめた。
「ガルガンドが入室します。」
背後の自動ドアが開けば、酒の匂いが鼻を突く。振り返るとサイドを刈り上げ、髪を後ろに流す男がいる。酒瓶を片手に持ったくまのひどい虚ろな目で、アンを一瞥して母に視線をずらす。閉まりゆくドアの向こうに、メガネを掛けた三つ編みの女の子が、酷く疲れた顔が見える。
だらしのない。そんな彼を見てアンは眼の前の父という生き物に、酷い嫌悪感を持っている。
「まだここにいたのか、アン。」
男はアンの横に立っても、語りかけていても、母から目を離さない。話せないことをアンは知っているから、同じように母を見ながら言葉を放つ。
「お父さん。」
「コレがないと、一日が始まらないんだよ。」
アンは情けない返事と酒の匂いで、記憶がくすぐられて仕方がなかった。いつまで続ける気なんだと、自分にすら返ってくるような言葉が浮かんできて、話せない。それは自分にも言えることで、変換されて、言葉が小さくなって、イライラが膨れてくる。
気持ちに後押しされて吐きでた言葉は、ひどく簡素なものだ
「いい加減にしなよ。」
「…。」
「…ねぇ、聞いてるの。」
もっと簡単に言えたらいいのに。情けなさが足を浮かせるから、手を握ってこらえる。
「こいつが話せてたら、お前も少しは素直になってたのか。」
聞いてすらいなかった。アンの言葉すらも届いていない。だが彼女を不快にさせたのは返事をしないだけではなかった。それは溜まっていた気持ちを噴火させるに足る理由だ。
「なにそれ…。」
「あ?なんかいったか___」
「なにそれっていったんだよクソ親父!!お母さんは人のためにこうなったのに、お父さんはお母さんのためになにかしないの?!!!」
「な…。」
「いつも酒飲んでばっか!部屋を出るときはいつもアニューと一緒だし、何をそんなにふさぎこんでるのよ!!!このあほ!!」
気持ちの津波が止められなくて、受け止めきることができないガルガンドは歯を食いしばってから反抗する。
「なにもしらねぇのに…好きなだけ言いやがって…」
「知らない!!学校いってくる!!」
その場に居続けてもどうせ話はろくに進まない。アンは自動ドアをくぐって廊下に出る。スライドして隔壁が降りると、アンは静かになった世界でため息をついた。
「アン…大丈夫。」
左隣で声が湧く。そこにはまだ、メガネを掛けた女の子アニューがいて、心配そうな目でアンを見ている。
「う、うん。」
「??」
ノースリーブから除いている胸元の薄赤い痣を見て、視線を反らしてしまった。その意図をアニューは汲み取れない。
「…変なの。ね、ご飯食べて学校いこ。」
「そうだ___いやまって!!ねぇアニュー、今日ね…」
アンはこっそりとアニューに耳打ちをした。するとアニューの目は大きく開いて慌て始める。
「ちょっ、ちょっとまって!!」
「またない!!だからお願い、あれ貸してほしいの…」
両手を合わせるアンを見て、アニューは頭の天辺を掻きながら考えた。
「も〜…。どうせ言ったって聞かないんだから。いいよ。」
「やた!!」
「いいけど、学校終わってからね。いいわね。」
「ありがとうお姉ちゃん大好き。」
アンはアニューを抱きしめる。温かな体温を感じながら、嫌な気持ちが遠ざかっていくことを確かめた。どうせなら、もっと遠くに行ってくれればいいのにと、願いながら。
(絶対に見つけてやるんだから。)




