女王の娘
アンはまつ毛の長い瞼をゆっくりと開いていく。はっきりしてくる意識の中に、浅い頭痛が混じっていた。
(ここは……)
様子を見ようと身体を起こそうとする。だが、身体を包んでいる物が腕の動きを阻害して、自由に動くことができなかった。
それは寝袋だった。動物が自然の物で編み込んだような巣とはまるで違う。青色のナイロン生地、それに含まれた綿の感触を手で確かめる。
ホストのサバイバル授業で散々扱った記憶が浮かんでくると、すぐそばから声が湧いた。
「まだ動かないほうがいい」
「頭いたいし…そうするね。……あれ?」
横にいたのは、大きな、それもアンと同じくらいのサイズがあるネズミだった。
(ネズミ……だよね。ウサギみたいな耳……。動物なんだろうけど、言葉を話せるんだ)
地面に座る姿は正にウサギだった。特徴的な長い耳が垂れ、茶色い体毛は毛並みがいい。そしてつぶらな瞳がまっすぐアンを捉えている。
言葉を話す動物という異常事態。まるで童話のような出来事なのに、アンはネズミの目に見惚れていた。
(綺麗な瞳。水晶みたいで……キラキラしてる)
「あなたが起きたら、呼びに来いと言われている」
はっきりとした発音で話しているものの、その響きはどこか覚束ない。
ウサギネズミが立ち上がると、アンは対話を試みた。アンはロボットと話しているような気分になっていたが、言葉を発する以上、会話が成り立つはずだ。
「待って! どこか行く前に色んなこと、聞きたいの」
ウサギネズミはそのまま座り直して、返事をしない。どうやら言葉を待ってくれているようだった。
「まずは、寝袋に入れてくれてありがとう」
「……私達は怪我をしたり、幼いときは母の胃袋で寝る。だがそれは人間に合わないと言われた。だから寝袋に入れた。客人が置いたものだが」
「胃袋!?」
気になりすぎる肉体的パーツを耳にして、質問せずにはいられなかった。
表情が変わらないため、何の感情もないような調子でウサギネズミは続ける。
「母は怪我をすると、怪我をした部分が新しく生える。胃袋はその時に吐き出されたものだ」
「な、なんかすごいね」
「……人間にはないのか?」
「お母さんから胃袋が出たりしないよ。……多分?」
そこからは、どこか違和感のある発音だったが会話は進んだ。
彼らには固有の呼び名などなく、自身たちを呼び合うこともないネズミの種族なのだという。
ここはそのコロニー。動物の皮や体液を使って、グレンリボの木と呼ばれる大樹から運んだ樹皮を折り重ねた住処だそうだ。
ホストから海に向かって降り、幻惑の霧を越えた先に位置している。幻惑の霧というのが、アンが倒れていた場所だった。
「幻惑の霧……」
アンは母の言っていた事を思い出した。探索班が言っていた初心者殺しのエリアの事だとすぐに分かる。
「あの霧を吸うと身体を悪くする。幻覚を見ると死期は近い。抗えない眠気で動けなくなり、地面に寝転がる。後は腐るまで寝入るか、霧が晴れた後で食われるかだ」
「……私、死ぬところだったんだ」
「だが、そうはならなかった。人間のオスが助けたからだ」
「オス? 私一人だったんだけど……もしかしてエルドラフが!?」
「名はアサド。大人のオスだ」
少し間を置いて、アンはアサドという名前について考えた。
「アサドが言ったから、母の胃袋を使わず寝袋に入れた」
「……命の恩人に借りもあるのね」
「仲間ではないのか」
「うん。知らない人。なんで助けてくれたんだろう」
ホストにいた人間たちの名前を、アンは知っている。だがそこに「アサド」と呼ばれる者はいなかった。
記憶の中にそんな情報があるのかと探ってみるが、どうにも見当がつかない。
「そのオスから、これを渡された」
思考の渦にのまれていると、柔らかそうなウサギの前脚に乗せられたスマートウォッチが現れた。それはアンが持っていたものだった。
「テトラ!!」
「充電切れを起こしていたから直した。『太陽の下にあればずっと使える』と言っていた。私には何のことだか__」
言葉が途切れたのは、アンが抱きついたからだ。突然のスキンシップ。今まで経験したことのない文化に、ウサギネズミは激しく動揺した。
「な、な、な、な」
「ありがとう! これはお母さんからもらった大事な物なの! ……あなた、名前は?」
「__カナリアだったはずだ」
「カナリアだった? 覚えていないの?」
「私達は生まれた時に名前を付けられる。だが皆、頭が良くない。だから覚えていられる者が長になれる」
アンはカナリアの言葉を聞いてハグを解き、立ち上がると、腰に手を当てて宣言した。
「じゃあ、あたしが呼ぶね!」
「……なぜ?」
「それなら忘れないでしょ? お母さんからもらったものを無くすなんて……悲しいもん!!」
カナリアには彼女の感情の機微までは読めなかった。だが、思考の根源はわかる。アンが深い思いやりを持っている事を理解したからだ。
「ありがとう。アン」
感謝を述べた後、カナリアはその場を立ち、奥へと進もうとした。
だが一歩踏み出したところで足を止め、後ろを振り返ってアンに言った。
「ついてきて。女王に会わせる」




