母の匂い
狭苦しい茶色の廊下を、カナリアの背中を追って歩く。アンの好奇心は壁の素材に向けられており、指で表面をなぞりながら足を進めていた。
(鉄みたいに硬いのに、ささくれ立っていて、ザラザラしてる……指に刺さりそう。木だって言ってたけど……本当にそうなのかな)
指の腹に引っかかる、細かい棘のような感触が新鮮だった。
鉄に囲まれた環境で育ったアンは、植物や動物といった生物の生きた触感を知らない。ちょっと力を入れたら剥がれてしまいそうな脆さと、それに反するような硬さは、彼女にとって純粋な好奇心の対象だった。
「住処の素材は、グレンリボの樹皮だ」
「つわぁ!!」
「……なぜ驚く」
「と、突然話し始めるから……」
不意に湧いた声に大げさに驚いてしまったのは、「勝手に触ってはいけないものだったのではないか」という、ちょっとした罪悪感ゆえだった。
だがカナリアは、特に気にする様子もなく話を続ける。
「ここから数日歩いた先に森がある。グレンリボの森だ」
「グレンリボ……」
過去に群生していた植物のアーカイブや、古生物学の授業を思い出す。だが、そのどれにも『グレンリボ』と呼ばれる木は存在しなかった。
(知らない木だ。この土地特有の木なのかな)
自分の知っている知識が世界の全てではないと、アンは強く実感した。
そして自身の母親も、外の世界に出て同じ事を思ったのだろうかと、不意に気にかかる。
寡黙になったアンを横目で見たカナリアは、彼女が知らないのだと察しをつけた。
「岩の塔に住む者でも、知らないみたいだな」
「私達は、塔の中が世界の全てだったから。それ以外のことはわからないの。ねぇカナリア、良かったら教えてよ」
「……大きな木だ。かなり硬い。緑に喰われて腐り始める前に、自ら樹皮を脱ぎ捨てる。その抜け殻を集めて、この住処は作られている。」
そこから、カナリアはアンに外の世界の話をぽつりぽつりと語って聞かせた。
肉の鐘が鳴るグレンリボの森。触れたものは爆発する白い花。巨大な何かが住む泥地。
まる童話でも聞いているかのような現実味のない現実の話を、アンは静かに受け止めた。
「我々の理解を超える力が、この土地にはある」
「力、か……」
「見ているものが全てではない。そういう話だ。アンにはまだ早かったか?」
外見こそ怪物のようなネズミで間違いないが、カナリアの心根には人間に近い感性があり、他者を思いやる優しさが備わっている。
だからこそ、その気遣うような問いかけにアンは納得がいった。
優しさが嬉しくて、アンは笑顔で返事をした。
「なんとなくわかるよ。気を使ってくれてありがとうね」
「ならばよかっ__アン。少し鼻をつまめ」
「??」
カナリアの言うとおりに指で鼻をつまむ。すると、温かい風が肌を優しく撫でた。
「ここの風は人間の身体には合わない。私達の仲間でも近づけない者がいるくらいだ。だが、ここの通路は女王への近道になっている。それに__」
突然、狭苦しい廊下は終わりを告げた。
視界が一気に開け、そこに広がっていたのは、タマネギやベリーといったたくさんの作物。そして、岩に打ちつける波の音が耳に飛び込んでくる。
どこまでも広がる水平線と、波に反射してきらめく日の光が、アンの視界を埋め尽くした。その絶景に、アンは完全に心を奪われた。
「う、海だ____生まれて初めて見た」
少し緑が混ざったような深い青の海。そこにいくつもの白い波頭が点在し、力強くこちらへと押し寄せてくる。
反射する日光が、水面に無数の煌めきを宿らせていた。
「今の時間帯が、一番光を放つんだ」
「__ありがとう、カナリア。すごくきれい」
今までアンが見てきたものは全て、電子記録の中のデータでしかなかった。だが今、アンは本物の自然を体感している。
なんでもっと早く外に興味を抱き、見に来なかったのだろうとさえ思っていた。
感慨にふけっていると、カナリアは足を止め、振り返った。
「この光景を、見せてやりたかったんだ」
アンは、カナリアのつぶらな瞳の中に映る自分自身を見る。
その瞳の奥には、きっと私に伝えたいことがあるのだと予感させる響きがあった。
「……なんでなの?」
「ええっと、確かこうだった」
カナリアは少しだけ大きな顔を下へ向け、再び向き直った。そして小さな口を細かく動かして、誰かの言葉を再生するように放つ。
『あそこにいると、時間の感覚が狂う。それに、何かを奪われていることすら自覚させない。あいつらは、自分たちが与えていると勘違いしてるんだ』
その強気で含みのある言葉遣いは、完全なるコピーだった。紛れもない、母の口調だ。
『だから、私はあの子に本物を与えてあげたい。もしアンがここに来ることがあったら、この大きな海を見せてあげて……』
全てがわかったとき、アンは少しだけ嬉しくなった。
まさかこんな場所で、母親の確かな痕跡を感じられるとは思っていなかったからだ。
「お母さんが、ここに来ていたんだね」
「……さっきも言ったが、私達は忘れっぽい。アンの瞳を見て思い出したんだ。話すのが遅れてすまない」
声のボリュームが小さくなり、ピンと立っていたカナリアの耳がしゅんと垂れ下がる。
気にしていないよと、アンが声をかけようとした時だった。
「よく自分の名前を覚えていたね、カナリア」
背後を振り返ると、赤みがかったピンクの体毛を持った巨大なネズミが立っていた。
アンよりも長身で、人間の大人と変わらないほどの体躯。そして、女性的な話し方で察しがついた。
「貴方が女王なの?」
「そうさ。まぁさっきから様子を窺っていたんだがね、娘の調子がいいみたいだから、嬉しくて眺めちまってたさ」
女王は腕組みをし、ほうとため息をついてからアンに語りかける。
「色んな事を説明しないといけないが、今はまだいい。ちょっと問題の解決を、手伝っちゃくれないか?」




