はじめてのじんもん
アサドは今、ガスマスクを外し、腰に手を当てて立ち尽くしていた。
「ふむ……。いつ来ても不気味というか、なんというか」
眼の前には見上げるほど大きなドームが鎮座している。
空を切り取るように描かれたアーチが自然の光景を壊し、そこから漏れてくる木の酸っぱい匂いが妙な温かさを孕んでいた。
それは生活の匂いだ。折り重なったドームの壁から漂うのは、ここで衣食住を営む者たちの生活によって生み出される匂いに他ならない。
「何食ったらこんな匂いになるんだか。……今からこの中へ入らないといけないと思うと、悲しくなってくるな」
悩みに打ちひしがれていると、ちょうど目の前の壁が、バナナの皮のように上へとめくれ上がった。
「お……女王様直々のお出迎えとは恐れ入るね」
「ふん! よく言うわ。あんたにビビったウチのコが、まだ中で暴れてるよ」
アサドの軽口に返したのはネズミだった。ピンク色の体毛に胴長短足。アサドと身長が変わらないほどの巨躯は、もはやネズミの領域を逸脱している。
人を思わせるほど巨大化した怪物に対し、アサドは物怖じせずに会話を続ける。
「約束なしで会いに来て悪いね」
「もう慣れたさ。あんたは私より人の心がないってのは、もう分かりきってるんだよ。それよりもだ……いくら人の心がないからって」
女王ネズミは視線を落とした。そこには砂利の上に横たわった人間の少女、アンがいる。女王のつぶらな瞳が、より一層潤んでいく。
「こんな子どもを、こんな硬いところに置くかね」
「疲れたんだから仕方ないだろ」
「私は人なんかじゃないがね、あんたほど常識は外れちゃいないよ。あんたたち!!」
声に反応したのか、女王の後ろから耳の長いネズミが二匹現れる。
女王ネズミの体格と比較すれば小さいが、それでも人間の子供サイズと変わらない。
(マジでウサギみたいだ……可愛げはあるが、なにせデカい……)
巨体を鋭敏に動かし、二匹はアンを背に乗せてドームの奥へと消えていった。
「……あの子がミナミの娘ね」
「へぇ、人間に知り合いがいるのか。あんたともあろうお方が」
「友人。そう言っても差し支えないさね。ミナミには世話になった。その恩を返すときが来たってことさ」
アサドは女王の義理堅さを認知していた。今回のようにお互いの助け合いを尊重し、必ず恩を返す優しさを持っていることを知っていた。それが自分にも利があるからだ。
(損得で動いていた女が……こうも変わるなんてのは、なんかあったんだろうな)
だが、この瞳には違うものも含まれている。利益の損得だけではない、母性のようなものが、その丸くて潤いのある瞳に宿っているとアサドは感じた。
「なんだい、じっと見つめて。気色が悪いよ」
じっと見つめていたアサドから顔を背け、女王ネズミはドームの奥へ戻っていく。
「おい! どこ行くんだよ!!」
「あんたも来な。言いたい事があるんだよ」
アサドの顔に、苦虫を噛み潰したような表情が勝手に浮かぶ。
気構えを変えようと両頬を叩いて持ち直し、彼は暖かな湿り気のあるドームへと足を踏み入れた。
「ゔぉ!! 巻き取り草じゃねぇか!!!」
暗黒の世界で黄色い声が上がると、まだ回り始めない思考が感情だけを強調させる。エルドラフは寝ぼけているのだ。
「久しぶりに見たわ。お前らが自生させてたのは薄々考えてたが、まさかマジでやってるなんて…」
「便利なのよ。捕まえた動物を絞めてくれるから。私たちは運べば終わりって訳」
「え、ここ屠殺場なの? 子どもになんてことを……」
「あんた抜けてるのに皮肉はよく回るわね」
小気味いい騒ぎで、次第に微睡みが引いていく。いい加減、耳障りも悪い。エルドラフは重いまぶたをゆっくりと開いていった。
「……なんだよ……うるさいなぁ……あれ? 手が動かな__」
目の前には女王ネズミと、ボロボロの服ではあるがそれなりの身なりを整えたおじさんが、エルドラフを見つめていた。そこには確かに驚いた。
だが本当に驚いたのは、目の前の登場人物に対してではなく、瞼を擦る動きすら封じられていたからだ。
視界を回す。
肌色に近い温度感のある外壁。そこからたくさん伸びる黄みがかった白色の草が、壁を覆い尽くすように生えていた。
草はエルドラフの全身に巻き付き、曲げる事も動かすことも許さない。
巻き付いた草は生暖かく、まるで全身を弄られているような嫌悪感があった。
――なぁ……エルドラフ、いいだろう?
「__う、うわぁあ!!!」
身体を拘束され、気味の悪い怪物たちがこちらを見ている。自由の束縛。エルドラフの記憶の底に埋めたはずの古い傷口が、痛みを伴って開き始めた。
慌てふためく様子を見かねて、アサドが手で少年の口を覆う。
「おいおいおい、落ち着け坊主」
アサドは笑いながら続ける。
「気持ち悪いよなぁ、その草。生暖かいし、まるで全身を触られてるみたいな感じがたまらん。気持ちはわかるぞ」
「__!」
「あー騒ぐな騒ぐな。こいつは『巻き取り草』。俺が名前をつけた。音を頼りに巻きついて、振動で締め付けを強めるんだ。振動が収まれば次第に弱まる」
優しく諭すような声音を聞き入れ、エルドラフは脱力する。すると、血管が途絶するほどの締め付けがふっと緩んでいくのを感じた。
「な? 今から手を離すから、暴れたり、大きな声で話すなよ。コイツラは締め付けた強さを覚えてるから、さっきよりきつく締めるぞ」
エルドラフが頷くと、アサドの手がゆっくりと離れた。
「……わかった。言うことを聞く」
「よしよし。でもよかったな。巻き取り草は地表で生育してるとテカテカの緑色なんだ。葉から毒を分泌しててな、死ぬまで締め付ける」
「え……ど、毒?」
際どいワードを使い、アサドは自分の手で自身の首を締める仕草をした。
「あぁ、毒だ。この毒はまず首の力を抜く。肉の動きが止まって動けなくなる。後は身体をじわじわ溶かして養分を得るんだよ。まぁ、こいつは白くてざらついてる。毒はないだろう」
脅しだ。エルドラフは彼が脅しているとわかって、腹に力を入れる。
「そ……それで……あんたの聞きたいことはなんだ」
思っていた反応とは違っていたのか、アサドは目を丸くした。それからニヤリと笑い、隣に立つ大きな女王ネズミに顔を向ける。
「__ふぅん。肝が据わってるのは面白い。なぁ女王さん、この場は俺が仕切ってもいいか? あんたの聞きたいことは必ず聞いてやるから」
女王は特に返事もせず、その場から去っていく。
「物分かりがいいこった」
「あんたは……何者なんだ」
「あぁ、俺か。俺はアサド。岩の塔から派遣された観測者ってやつだ。まぁ色々あるが……それはいい。俺はお前に聞きたいことがあるんだよ」
アサドはその場にあぐらをかいて座り込み、エルドラフの透き通る翡翠の目を見つめる。
「お前は穴蔵の民……その逸れた者たちだろ」
「……」
「お前たちは舟の墓場を跨いだ陸地にある大穴蔵から渡ってきた。出稼ぎって所だろうな。そんな奴がなんで、しかも一人でここにいる」
親身で柔らかい物腰。だが男の目には、一度掴んだら離さないような執着が宿っていた。
腹の底が見えない相手を分析しようにも、エルドラフに聞こえている自身の心音は、リズムを崩さずに脈打つばかりだった。
「いいのかな? お前が話さないなら、連れてきたアンって女の子に聞いて__」
「死んだんだ。みんな」
軽い口調はピタリと止まった。エルドラフという少年の心からあふれ出る哀しみを感じ取ったからだ。
「ある日、狼と猪の争いが激しくなったことがあったんだ。別に珍しいことじゃない。でも、その日は長く続いたんだ」
記憶の中で蘇るのは、哀しみに彩られた貧しい光景だった。
「天井の揺れが収まるまでは出られない。僕たちは閉じ込められた。もちろん食料も尽きたよ。自殺する奴が出れば、そいつの肉を食って生き延びるんだ」
「……穴蔵の民にはよくある話だな」
「そうだ。アサド、あんたの目は……俺を食おうとした奴に似てる」
エルドラフの目に火が灯った瞬間を、アサドが見逃すわけがなかった。
「なんだお前__」
「あんた、岩の塔からでてきたって言ったな。てことは、アンのことも知ってるわけだ」
その火は小さかった。他人を食うことのない小さな光は、突然業火となってアサドに食らいつく。
エルドラフは身体を無理やり動かし、アサドの首に噛み付こうとしたのだ。
「クソ!! 草がじゃ、ま__」
だが、巻き取り草は強靭な耐久力を有していた。エルドラフの動きに比例して、ゆっくりと身体を巻き取っていく。
その締め付けはアサドの言った通りに強く、首の気管を締め込んで空気の通り道を塞いだ。
アサドは突然の攻撃に反応が遅れ、状況を理解すると笑い出した。
「あ、あっはっはっは!!! お前の仲間にたくさん会ってきたが、ここまで熱がある奴がいるとはな!! すげぇ事だ!!」
腹の底から笑いながら、ポケットから小瓶を取ってコルクの蓋を外し、巻き取り草の根元に振りかけた。
「よく覚えとけ。コイツラは塩水を吸い取ると身体を柔らかくする。締め付けはこれで緩和される__って、聞いてねぇなこりゃ」
ゆっくりと草の力が抜け、最後にはエルドラフを手放した。自由になった身体は重力に従って地面に落ちる。
静かになった屠殺場に、女王はまた姿を現した。
「なかなか遊ぶじゃないかアサド。死んだのかい?」
「それはない。穴蔵の民は身体がめちゃくちゃ柔らかいんだ。気絶はしても首締めで死ぬことはない」
アサドはまたエルドラフを拾い上げる。
「それで? この子は敵かい? 敵意は少なからずあるんだろ?」
「まぁな。けどこいつが襲った理由は、俺がアンを襲わないようにしただけだ。気にすんな。単に愚かで優しい王子様ってだけだ」
なるほどね……と女王が考え込む。その隙をついて、アサドは彼女の脇を抜けていく。
女王は思った。だとしてもやはり、アサドのことだけは全幅の信頼を置くにはあたらない、と。




