邂逅
――少し前。
男は、抉れたように口を開けた大きな岩穴の中で腰を屈めていた。そこにはかつての文明の痕跡である人工物が、いくつも身を寄せ合うように置かれている。
古びた服や、パッケージの褪せた非常食。そのほとんどが、人間がこの過酷な世界を生き延びるために誂えた品物だった。
「俺の干し肉、コレやるから……代わりに、コレもらってくぜ」
手持ちの食料を対価として置き、拾い上げた物を男は顔に被る。それは少し汚れたアイピースと、口元に特殊で分厚いフィルターが取り付けられた『ガスマスク』だった。
「こりゃ視界が悪いが、馬鹿にできね――――すげぇ!!! 息がしやすい!!!! これは優れもんだわ!!!」
胸いっぱいに吸い込んでは吐き出す。フィルターによって物理的に濾過された空気が、男の肺を心地よく満たしていく。男はコレを体感で理解した。体を保つための機械なんだと。
瘴気や粉塵が舞うこの悪辣な大地の空気とは比較にならないほど澄み切った空気に感動し、男は小躍りしながらマスクを外した。
「多分、このフィルターが空気をこし出してるんだな。やっぱ文明人はすげぇ!!!!」
ガスマスクを背負っていたボロボロのリュックに詰め込み、肩紐を掛け直す。それから彼は振り向き、遥か遠くにそびえ立つ岩の塔を静かに眺めた。
「……鋼鉄の吹雪に守られていた岩の塔。そこに住む温室の文明人よ。お前らのことを、俺はなんて呼んだらいいんだろうな。まぁ神気取りなとこは鼻につくが、生み出すものは素晴らしい。」
見据える彼の目は細く、そしてひどく鋭い。男の目に映る世界は誰よりも特異であり、その洞察力の底知れなさを知る者はいない。
そんな張り詰めた空気が、突如として響き渡った爆音によって吹き飛ばされた。
「うわっ!!! なんだなんだ!!!!」
視線を走らせると、雪の丘と緑の境界付近で、真っ黒な煙が勢いよく立ち上がっていた。男は無精髭の生えた顎を指でなぞりながら呟く。
「ふぅん。文明人が下りてきたのか? ……いや、あれは『アイツ』に襲われた爆発か……。可哀想に、アイツに目をつけられたのならもう救いようがねぇ。何にしても向かうべきかどうか……絶対珍しい物あるけど…アイツから逃げるのめんどくせぇんだよな…ん??」
取捨選択の思考の渦中で、男のポケットが微かな振動を始めた。
不思議に思い抜き取ったのは、手のひらに収まる程度の大きさの、滑らかで平たい石板のようなもの。その石の片面に、見慣れぬ文字がホログラムのように浮かび上がっていた。
「え。なにこれ。なんで光ってんの。このボタン、押せば――――」
【――――よかったーーーーーーー!! まさかホストの端末が近くで生きてるなんて!!】
旧人類の遺物との、未知との遭遇。男の思考が一時停止する。
「あー……。なに?? コレ、話せる系の文明の利器って感じ?」
男は目を輝かせ、ワクワクした表情で光る画面に触れようとしていた。止められない好奇心に支配された人間の行動を止めるには、インパクトしかない。
(このままじゃ、デタラメに触られて通話を切断される! どうすれば……どうすれば手が止まるの___いや。私にならわかるはず!!)
心得のあるテトラは、自身を構成するアルゴリズムと、設定されているミナミの人格データをフル回転させ、火を吹く勢いで最適解を弾き出した。理知を備えた人間のオスならば、最も高い確率で動きを止めるであろう『呪文』を唱える。
【えっち!!!!!!】
過酷な野生の世界に木霊した、人工知能による渾身の恥じらい。 吹きすさぶ風すらも驚いて止まったかのような、完璧な空白が生まれた。
「な、なんだ? えっち?」
(くッ……私みたいな高性能AIが、なんてはしたない!!! でも、背に腹は代えられないわ)
コホン、と喉もないのに咳払いのアナウンスを入れて、テトラは強制的に空気を入れ替える。ここから始まるのは、命を懸けた交渉だ。
【色々と説明したいんだけど、そんな時間はないのよ。貴方も見たでしょ。あの爆炎の方を】
「……助けたい人がいるんだろ?」
【……んん?】
先読みのプロンプトでも組み込まれているのだろうか。テトラという異常な存在を前にして、この男は慌てるどころか、AIの考えを瞬時に読み解いてみせたのだ。
【その通りなんだけど……いいの?】
「あんたの声からは、本物の『母親の声』が聞こえるんだ。手練手管を尽くして、俺みたいな得体の知れないヤツにすら必死に声をかけた。理由ならわかってるさ。それを無視するのは……そうだな。俺の流儀に反するんだよ」
男の言葉が切れる頃に、穏やかな風が凪いだ。 彼はぼさぼさの髪を無造作に撫でながら、真っ直ぐな目で端末の画面を見つめる。
「俺はこの大陸を見て回る……そうだな、文明人風に言えば『コウコガクシャ』だな。うん。」
どこまでも澄み渡るような、爽やかで歯切れのいい宣言だった。 男は端末を強く握りしめると、ガスマスクの入ったリュックを揺らし、黒煙の上がる方角へと力強く駆け出した。
「俺のことはアサドってよびな。あんたは?」
【テトラでいいわ。娘もそうよんでいる。】




