新たな門出は今際の際
アンが全身を打ち据える痛みに起こされて重い瞼を開くと、視界は真っ白な靄に覆われていた。
何度まばたきをしても、一向に晴れない視界。痛む肩を無視して、その靄に触れようと手を伸ばしてみるが、そこには温度も湿気も感じられない。
「イタタ……霧って、水滴だから湿るはず……じゃあコレは、夢……?」
ただすり抜けるだけの白濁した空気を掴み、指の腹同士をこすり合わせた。ひどく乾いた指先が何かに引っ掛かって滑りを邪魔している。
霜じゃない。アンがそう確信した途端、鼻腔を強烈な『甘い匂い』が貫いた。 香ばしいクッキーを焼き上げた時に立ちのぼるような、ひどくまとわりつくしつこい甘さ。
そして、ふと足元を見ると雪はなかった。枯れた苔たちが分解されたであろう、疎らな緑が広がっている。ここはあの岩の塔から遠く離れた場所であり、むき出しのオーガニックな土壌だ。状況を理解した瞬間、アンは咄嗟に両手で口と鼻を強く塞いだ。
(これはガス! 探索班の情報にあったやつだ!)
アンの判断は正しかった。特定の微生物の分解工程で発生する毒性物質「青酸」や「クマリン」。それを吸い込めば、呼吸困難、めまい、嘔吐といった致死性の高い中毒症状を引き起こす。 頼みの綱であるテトラに呼びかけようとするが、手首のスマートウォッチの画面は真っ暗なまま、完全に沈黙していた。
(嘘……壊れちゃったわけじゃないよね)
残る手段は、自分の記憶の中にある情報だけだ。打撲や火傷でうまく回らない頭をフル稼働させると、マイナスな情報ばかりが浮かび上がってくる。
(確か……探索班の生存率を根こそぎ下げる『幻惑の霧』の谷があったはず。確か……幻覚を見せる……)
まるで身体がふわりと浮遊するかのような、不気味な脱力感が纏わりついてきた。足からうまく力が抜け落ちていく。
(……しまった。このガス、もう……吸っちゃったんだ)
どうしようもないと言えばその通りだった。孤立無援の満身創痍。ここがどこなのかもわからない。
視界が不明瞭なため、あのイモムシのような怪物に襲われでもすればひとたまりもない。 何より、焦るべきタイミングであるはずなのに、心が妙に『麻痺』して落ち着き払っていることに、アンの小さな脳は本能的なパニックを起こしていた。
(どうしよう……どっちに行けば……霧から逃げられるのかすら……わからない。本当に、どうすれば……)
爆発しそうになる心に、思いがけない言葉が届いた。
「アン」
優しくて、力強い声だ。テトラのような電子音でもなければ、誰かの聞き間違いでもない。
「そんなところで、なにしてるの?」
未だ見通せない濃霧の中から、赤い防寒具を着た女性が静かに歩み寄り、アンの目の前に立った。 少しだけハネた金色の髪。凛とした大人の女性。それは、アンが世界で一番会いたがっていた人だった。
アンは驚きのあまり、猛毒の霧の中だということも忘れ、口元から手を離して言葉を紡いでしまった。
「な……んで……お母さん……が……ここ……に……」
言葉が霧に溶けていく。声を出すために残っていた僅かな力さえも奪われ、アンは力なく地面へと倒れ込んだ。
(しまった。ガスを、吸っちゃう)
もはや呼吸のコントロールなどできるはずもない。身体を地面に横たえてしまえば、土壌から直接湧き立つ濃密な甘いガスを否応なしに吸い込んでしまう。息が次第に浅くなり、欲してもいないのに肺が猛毒を吸い込んでいく。
(だめ。だめだ、これ。あたし……死んじゃうんだ)
頭上から降り注ぐ母親の優しい声すら、遠く水底から聞こえるようにくぐもっていく。呼吸すらできているのか怪しいほど、アンは過呼吸に陥っていた。
(最後くら……い……お母さんの、声が……聞け……)
すべてが終わりに近づいていることを、幼いながらも彼女は理解していた。
【……起きなさい!!! アン!!! ああ、あたしが目を離していたから……!】
手首に巻かれたスマートウォッチから、突如としてテトラの悲痛な声が湧き上がる。だが、アンにはもう、その言葉を理解する思考力すら残されていなかった。
【大丈夫だからね、アン!! もうすぐ、もうすぐだから!!】
テトラは端末から、アンの着ているスーツに直接命令を下した。アンが着ている服は、アニューが外の世界のためにと改良してくれたもので、2回までなら心肺蘇生が可能な機能が備わっている。
テトラは残余電力のすべてを回し、アンの心臓へ電気ショックを流した。 ビクンッ! と身体が弓なりに跳ねる。
だが、彼女が目を覚ます気配はなかった。まるで、地面に打ち捨てられた人形のようだ。
【だ、だめ!! 心音が下がってる――――だめ!! 戻ってきなさい、アン! あ……電力を、使い切っ――――】
ついにテトラの電力が完全に潰え、端末の起動を維持できなくなってしまった。完全な沈黙が落ちる。
絶望に包まれ、ただ死を待つだけの幼子は、死神に看取られるかのように静かに意識を薄れさせていく。 途切れる意識の最後の縁で、彼女の目に映ったのは無骨な『ガスマスク』を嵌めた、見知らぬ誰かだった。
「……」
その誰かは無言のまま、倒れたアンの身体を軽々と抱きかかえ、再び濃霧の中へと姿を消していった。
ジープの爆発から奇跡的に逃げ延びたエルドラフは、どこかの薄暗い洞窟へと連行されていた。
彼の手首を頑丈に固めているのは、太い草で編み込まれた無骨な縄だ。首、手、腰を太い柱に結びつけられ、その場から一歩も動くことはできない。
「こんなこと、してる場合じゃないのに……ッ!」
膝を折らされ、冷たい地面に座り込んでいるエルドラフは、頭を上げて力の限り吠えた。
「いい加減にしてくれ!! 僕は何も、あなた達を根絶やしにしようなどとは考えていない!!!!」
エルドラフの必死の叫びは暗闇の洞窟に反響し、一段高い場所に設えられた木彫りの玉座まで届いた。
そこに座っている主は、大きな身体をゆっくりと揺すりながら、毛むくじゃらで短い脚を地面へと下ろした。
「ふん。穴蔵の民どもの言葉を信じるかって?? そんな馬鹿な話があるもんかね」
甲高い声音だが、決して侮れない芯の通った口調。主は言葉で追い立てるように、エルドラフの元へと歩み寄ってきた。
「そんなに焦ってどうしたんだい。あんたらしくはないよ」
「ぼ、僕の友だちがいるんだ!! 早く助けに行かないと!!」
「だったら、手遅れさ。あの大きな爆発があった後に、『幻惑の霧』が居座りだしたんだからね」
「そ……そんな……」
エルドラフは絶望に肩を落とした。 幻惑の霧。その中に囚われた生物は、甘い幻覚を見ながら息もできずに死んでいくという、この世界における恐ろしい自然の罠だった。
「おやおや、可哀想に。そんなに落ち込むなんて、よほど大事な人だったんだろうね。例えば、兄とか」
「嫌だ!!!!! これを外せ!!!!! 僕はあの子を助けるって!! ミナミに約束したんだ!!」
「――――なんであんた、その名前を」
怒りが全身を纏い始めても、縛られた身体ではどうすることもできない。だからせめて、エルドラフは力の限り、その声に恨みと懇願を乗せてぶつけた。
「もしコレが原因であの子が死んでいたら。ただじゃ置かないぞ!!!!! ネズミの女王!!!」




