父の背中と逃避行
先に動いたのはガルガンドだった。
その巨体に似合わぬ速度で一瞬にして跳躍した彼は、巨大な肉塊の怪物の顔面へと強烈な一撃を叩き込んでいた。
長い脚と己の体重を完全に乗せた、必殺の跳び蹴り。もはや顔面を力任せに踏み砕いているような威力だった。
だが足を離しても、怪物はまるでダメージを感じていないかのように、呆けた顔でよだれを垂らしていた。
「くそ……神経までイカれてそうだな…。」
ガルガンドが着地した直後、彼の頭上へと、巨大な丸太のような腕が握り拳を作って振り下ろされてきた。
空気を圧迫し、轟々と風を巻き起こす。その風圧だけで、周囲の空間すべてが押し潰されそうになるほどの理不尽な威力だった。
「グッ――――――――」
ズドン! と重撃が落ちる。だがガルガンドはそれを耐え抜いた。耐えるからこそ壊される。幾度も肉のハンマーが振り下ろされる。
一撃目の衝撃。ニ撃目の限界。そして、三度目の地獄。
早くて重い、息もつかせぬ衝撃を、ガルガンドは太い二本の腕を交差させて受け止めた。骨が軋むたびに歯を食いしばり、口の端から血をこぼそうとも、彼は決して後ろへは下がらない。
「アハハハ――――――――アハハハ」
「グゾ、ガッ……!!」
ガルガンドの額に青筋が蠢き、酷使された関節たちが悲鳴を上げる。食いしばっていた歯を更に強く噛みしめる。
(クソクソクソクソクソクソクソ!こんな鉄の塊みたいに重いんだよッ!ちょっとでも緩めたら崩れるぞ!!)
積み重なる程に、痛みと重みで体が折れ曲がりそうになるのを、筋肉の膠着だけで耐え忍ぶ。
まるで糸の上で綱渡りでもしているようなバランス。一押し加われば踏み外して落ちていくような、そんなバランスで保たれていた。
「アハハハ_____アハハハ!!」
声も脚も限界を迎えようとする中で、突然の浮力が足を掬う。先に悲鳴を上げたのは足ではなく、『床』だった。
分厚い鋼鉄製のタイルが、二つの異常な力の衝突に耐えきれず、ひび割れ、ひしゃげ始めたのだ。
(くそ……なんで反撃しないんだ!)
「なんで、ごんなにぃ……重いんだッ!!」
ガルガンドの身体が本来どれほど頑丈にできているのか、エルドラフは知らない。
次の一撃で潰されてしまうのではないかとヒリつくような恐怖を抱いても、父親の背中は決して崩れなかった。
比類なき暴力と暴力が真っ向からぶつかり合う。押し返せば、押し戻される。それはもはや、相手を倒すためではなく、お互いの『限界』を計るためだけの泥沼の意地比べになっていた。
「アン!! はやぐぅ!!!」
血を吐くようなガルガンドの叫びを契機に、獰猛なエンジン音が広大な倉庫の中に木霊した。
その発生源は、怪物の背後だった。
「な、なんだ!」
怪物の背後から脇をすり抜けるように飛び出してきたのは、一台の『車』だった。運転席に見えるのは希望の光だ。
「エルドラフ!!!」
「アン!!」
旧時代の遺物である四駆のジープを大掛かりにイジり、バイオマスエンジンへと換装された、このホスト89において唯一の乗り物。
運転席でハンドルを握っていたのは、無論、アンだ。
彼女は顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら、急ブレーキと共にジープの身を滑らせ、動けないエルドラフの身体を助手席へと強引に引き摺り上げた。
「アン!! 生きててくれたか!!」
「早く乗って!!」
助手席に転がり込んだ後、エルドラフはアンの横顔を見た。彼女は溢れ出る涙を拭おうともせず、ただ必死に、前だけを見据えていた。
赤くなった鼻をすすることもなく、そして、己のために命を削って盾となっている『小さくなっていく父親の背中』を、一度も振り返ることはなかった。
「ガルガンドはどうする?」
「アニューがいってくれたから!!!」
アニューは、アンとエルドラフが逃げるまでのすべての時間を繋いでくれたのだ。自らの命を賭して、妹と呼べる存在を助けるために。
そして不器用な父親もまた、娘を逃がすために命の炎を燃やしている。
彼女がここで振り返り、足を止めることなど許されるはずがなかった。
「おねぇちゃんが、繋いでくれたんだからぁぁぁぁあ!!」
アンが千切れるほど強く踏み込んだアクセルに応え、バイオマスエンジンが咆哮を上げる。四つのタイヤが猛然と床を蹴り飛ばした。
彼らの接近に反応したのか、自動開閉式の巨大なシャッターが重々しい音を立てて開き始める。
悲しみと犠牲を置き去りにして、ジープは開かれた外の世界へと飛び出していった。
荒れ狂う鋼鉄の吹雪を抜け、ジープは残雪が広がる広大な平野へと飛び出した。
「アン……」
「…………」
エルドラフは黙り込んだままハンドルを握るアンの横顔を見た後、ゆっくりと後ろを振り返った。
彼らが死闘を繰り広げた岩の塔――ホスト89の全貌は、既に分厚い吹雪のベールに隠れようとしている。 まるで巨人が白いケープを羽織っているかのようなその壮観な景色に、エルドラフは僅かに目を奪われた。
だが、アンはただひたすらに前を見据え、一度たりとも振り返ろうとはしなかった。
運転に集中しているからというだけではない。今の彼女には、振り向くことすら許されない『重み』があるのだ。 バイオマスエンジンの轟音と激しい振動だけが支配する二人きりの世界で、エルドラフは静かに問いかけた。
「アン……これから、どうする気なんだ」
「……私は、お母さんの言っていた『オヤクメ』を全うする。お父さんも……そうしてほしいはずだから」
「なら、僕もついていこう。ミナミのお願いは聞いておいた方が得だからな。それに、この島について知りたいことがたくさんあるんだ」
「そっか。……ありがと。でも本当は、最後に、お母さんに……会いたかったんだけどな」
微かに震える彼女の声。その切ない二人の会話に、突如として『第三者の声』が割り込んだ。声量の加減など一切お構いなしの大音量に、エルドラフは助手席で飛び上がる。
【な~~んて、いい娘なの!!】
「テトラ?! なんで声が聞こえる?! どこにいるんだ?!」
声の発信源は、アンの手首に巻かれたスマートウォッチからだった。
【さっきの戦いでぬいぐるみの身体が使い物にならなくなったからね。咄嗟にこっちのデバイスにコンバートして、アプリになってみたわ!!】
「姿が見えなかったから、落としたんだと思っていたが……器用な身体だな」
【私は電子化されているとは言え、アルゴリズムの基礎はミナミがモデルなの。自分の娘を置いていくわけがないじゃない】
「……お母さん」
アンの強張っていた硬い表情が、僅かにほころんだ。それだけで、エルドラフが感じていた居た堪れなさがふっと緩和されていく。
仕切り直しだ。二人と一つのAIによる、新たな旅の始まり。残雪が消え、ごつごつとした岩と背の低い草が顔を出す大地が見えてくると、冬の厳しさから抜け出していくような高揚感があった。ここが彼らのスタートラインなのだ。
「
お母さん。これから、どこに向かえばいい?」
【ひとまずはこのまま真っ直ぐ進んで。ミナミが置いていった資材が――――】
「みんな、静かにしてくれ」
不意に、エルドラフの怒りにも似た鋭い焦燥が二人の会話を止めた。 ただ事ではない気配にアンとテトラが口を閉ざす。
エルドラフは目を閉じ、自らの鋭敏な聴覚を極限まで研ぎ澄ませた。 風が耳を横切る音に紛れて、聞いたこともないような『高い摩擦音』が微かに鳴っている。
「なんだ……この音」
その耳障りな高周波は、時間と共に急激に大きくなっていた。いや、音が大きくなっているのではない。音の発生源があり得ない速度で『こちらに向かってきている』のだ。
エルドラフが目を開くとフロントガラスの向こうには、巨大な港の跡と、朽ち果てた三隻の廃船が並ぶ異様な光景が広がっていた。
「みえない。なにが、近づいて――――ッ!」
警告を発するよりも早く、ジープの車体が中央から『くの字』に折れ曲がった。 まるで、見えない巨大な鉄球が真横から衝突したかのような、圧倒的な理不尽。
鼓膜を破るほどの凄まじい破壊音と共に車体が跳ね上がり、シートベルトをしていなかったエルドラフだけが、割れた窓から外へと勢いよく吹き飛ばされる。アンはシートベルトと潰れた運転席に挟まれ、車内に残されたままだった。
(なんだ……あの、化物は!)
空を舞いながら、エルドラフの動体視力は確かに『それ』を捉えていた。 あまりの超高速ゆえに朧げな輪郭しか確認できなかったが、見えたのだ。
人型のシルエットでありながら、その様相は肥大化した『イモムシ』のようだった。イモムシの胴体に無理やり人間の手足を接ぎ木したような、生理的嫌悪を催す気色の悪い姿。そんな歪な体躯からは到底想像もつかないような恐るべき破壊力を秘めた『蹴り』が、走るジープの側面を粉砕したのだ。
吹き飛んでいくエルドラフの視界の端で、怪物は不気味な残像を残して再び掻き消えた。 直後、くの字にひしゃげたジープのエンジンから、真っ赤な炎が噴き上がる。
「待て!! まだアンが乗って!!!!」
空を舞うエルドラフの絶叫を嘲笑うかのように。 炎を上げたジープは、強烈な衝撃波を撒き散らしながら、紅蓮の爆炎に包まれた。




