悲しき日々に
ガルガンドの慟哭と、アルファの咆哮が混ざり合って響いている。
戦いの残響を背に受けながら、エルドラフは息を荒げ、階段を駆け下りた。
目指すは8階への侵入を防ぐ隔壁だった。だが、固く閉ざされているはずのその隔壁には、生物が一匹ほど通れるような隙間がこじ開けられていた。
「……アンは」
【中に入ったみたいね。服に仕込んだGPSの反応が奥から来てる。気をつけて……この状況だと、中に狼が潜り込んでいるかもしれない】
「わかった」
エルドラフは躊躇うことなく身体を縦にし、その僅かな隙間をすり抜けた。
赤い警告灯が明滅する階段は、薄暗い闇を払い切れていない。
踊り場に立ったエルドラフの目に一番最初に飛び込んできたのは、無惨に肉を晒している人間の遺体だった。
「うっ! ………これは、惨すぎる……」
鼻を突くむせ返るような血の匂いに、内臓の酸っぱい悪臭が混じっている。口の中にまでその不快な味が広がってくるような錯覚を覚えた。
「……あれは、誰なんだ」
【データを参照……彼は……イーノック。守衛当番の青年ね】
外から来たエルドラフにとって、ここはまだ未開の土地だ。友愛を育めた人間の数は少ない。だが、いくら親しい友人でなくとも、この惨状はあまりに酷すぎた。
床に転がる遺体は、片腕だけが辛うじて形を残しているものの、そこから繋がる腹部は大きく食い破られていた。
むき出しになった肋骨と、噛み砕かれ、啜られた臓物。
辛うじて人間だった痕跡を残すだけの肉塊が、エルドラフの心を強烈に締め付ける。
だが、ここで足を止めるわけにはいかなかった。吐き気を飲み込み、再び前を向いて階段を下り始める。
「テトラ。部屋の方は……見に行かなくてもいいの?」
【解析中――――ええ、見に行かない方が良いわ。どうやら狼が一匹だけ潜り込んだみたいで、その……とりあえず一番下に向かって。まだヤツらがいるから、足音を立てずにね……】
エルドラフは息を殺し、指先を壁に這わせながら一段一段、ゆっくりと足を下ろしていく。
暗い階段の中で、彼の鋭敏な【音を拾い上げる聴覚】は、視界には映らない惨劇の世界を鮮明に脳内へと映し出してしまう。
それは彼にとって、まさしく地獄の拷問だった。
「ゆっくり……ゆっくりいかないと……うッ!!」
奥から生々しい咀嚼音が聞こえてきた。舌なめずりと、獣の荒い吐息。狼が食事を満喫している様子が、音だけで痛いほど伝わってくる。
つまり、8階に生存者はいないということだ。
見知った人間が貪られ、血肉が飛び散っているイメージだけが、エルドラフの心を容赦なく突き刺していく。
(誰か……まだ浅く息をしてる人がいる。でも、あの狼は常に飢えてるんだ。こんなものじゃ収まるはずがない……でも、ここでは止まれない。ごめん、みんな……)
せり上がる吐き気を必死に抑え込みながら、足を進める。
この結果は全て、あの場所から逃げ切った自分のせいなのだという罪悪感が、重く両足にのしかかった。
8階、9階を通り過ぎた。エルドラフは良心の呵責に苛まれながらも、自重して特別な行動は起こさなかった。
なぜなら、どの階も既に『死』で時間が止まっているのみだったからだ。たった一本の矢しか持たない少年に、今更できることなど何もない。
無力感に肩を押され、失意を胸に抱いたまま、彼はついに地下10階へとたどり着く。
階段を下りた先は、まだ薄く明かりが広がっている広大な倉庫だった。巨大なシャッターが中と外を隔てている。
面積の広いコンクリートの床と壁が、微かな足音すらを反響させる。何より、等間隔に太い柱が屹立するだけの孤独な空間には、まるで人の気配がない。
だだっ広い灰色だけの世界に、エルドラフは少し物怖じしてしまった。だが、そんな事で足を止めている暇はない。
(なぁテトラ。アンはどこにいるんだ)
右肩に乗っているテトラにこっそりと耳打ちする。
【…………サーチにかからないわ。部屋の温度分布から見れば、誰かは居るはずなんだけど】
(そっか。……声を出していいものか……)
エルドラフは意を決して、大きく息を吸い込んだ。アンを呼ぶため、大きな声を出すためだ。
空気が胸いっぱいに溜まった、まさにその瞬間だった。
彼の身体は、横殴りの衝撃によって宙を舞っていた。
(――――え?)
回転する視界が思考を乱し、判断力を鈍らせる。直後、叩きつけられた激痛が強制的に自我を呼び戻した。
脇腹を突き抜けた鈍い痛みに耐えながら視線を這わせると、そこには、下半身を巨大な『何か』に潰されたアニューの姿があった。
「あ……コヒッ……!」
息すらできていない。重力に落ちるように事切れたアニューは遺言すらあげられなかった。
彼女は庇ったのだ。死角から迫った圧倒的な暴力から、己の命を懸けて、エルドラフを弾き飛ばして助けたのだ。
「くっ……誰だ!!!」
「アハ――――アハハハ」
アニューの腰から下を無惨に踏み潰していたのは、巨大な足。そして、馬にも匹敵するほどの巨躯を持つ【何か】が、嗤っていた。
着ていたであろう服はすでに張り裂け、ぼろ布の断片だけが体に張り付いている。
異様に膨張した身体は、筋肉というよりも風船に近い不気味な張りがあり、首から上は歪に傾いていた。
見てくれはどうあれ、それは間違いなく、元は『人間』だったことが窺える。
「な――――なんなんだ、こいつは……」
混乱するエルドラフを、【何か】が濁った目玉だけをギョロリとスライドさせて見下ろした。
(心音はする……けれど、肉が分厚すぎて内臓の音が聞こえない。相手が何を考えているかわからな――――)
エルドラフの思考は、【何か】の様子を見て凍りついた。
見下ろす目玉には、『飢え』に似た欲望が浮かんでいる。だらしなく開いた口からは、おびただしい涎が垂れ落ちていた。
(こいつ、僕の事を食おうとしてるのか……!)
少年の直感を肯定するように、丸太のような巨腕が床を這い、アニューの身体を摘み上げる。まるで重さなどないかのように持ち上げられたアニューは、もはや声すら上げない。
無抵抗な少女を前に、【何か】は躊躇いなくその頭から齧り付いた。
「くそッ!! バカにするのも大概にしろ!!」
怒りに任せ、最後の一矢を構えて【何か】に狙いを定めた時、か細い声がエルドラフの耳に届いた。
「まって」
【何か】には届かないであろう、アンの小さく震える声。だが、聴覚の鋭いエルドラフにとっては耳打ちに等しかった。
「絶対反応しないで。ひとまず、あの怪物の注意が逸れている間に、私たちはこのまま逃げましょう」
だが、エルドラフの胸に湧き上がっていた怒りは、自身の『無力さ』に向けられたものだった。もう既に我慢はし尽くした。堪忍袋の緒は、とうに切れている。
「いい加減、ほっといてくれぇええええええ!!」
「まって、エル!!」
アンの制止を振り切り、エルドラフは激昂と共に跳躍した。
腰に差していたゴーレムの尖った破片を逆手に握り込み、【何か】の首元を刺し穿つべく、飛びかかったのだ。
その表情は、彼をここまで追い詰めた狼と同じ、獣の形相だった。
しかし、食らいつくように襲いかかった少年を、【何か】の巨腕が鬱陶しそうに一振りし、まるでハエのようにはたき落とした。
「グッ――――」
全身を突き抜ける衝撃。出口を求めて口から飛び出そうになる空気と内臓を、エルドラフは歯を食いしばって強引に抑え込んだ。
意識を刈り取ろうとする痛みに、気概だけで耐えてみせる。
(だめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだ。気を失うと、間違いなくやられる)
宙を舞って床を転がったが、幸運なことに骨は一本も折れていなかった。全身が焼けるような火傷に似た鈍痛に耐えれば、まだ立ち上がれる。
だが、身体は少年の意志に従う気はなく、脚を立てようにもピクリとも動かなかった。
(動けない……この僕が……ただの獲物に)
痛む首を無理やり起こすと、歪な肉の塊がすぐ目の前まで迫っていた。
「アハハハ。アハハハ」
【何か】は無邪気に笑いながら、絶望するエルドラフを見下ろしている。そして、ゆっくりと、丸太のような腕が伸びてきた。
人語を介さない人間。これ以上に恐ろしい存在はない。
悪意すらなく、ただ純粋な『食欲』という欲求のみに突き動かされる怪物を止められるものなど、この世界にはいない。同じ『人間』以外には。
「おいおいお前、そんな野暮ったい目で何しようってんだ」
「アハ――――」
嗤い声が途切れ、突如として横薙ぎの突風が空間を通り抜けた。
「な、にが……起き……」
突然の出来事に混乱しながら、エルドラフは目の前で起きた光景を必死に整理する。
まるで摘み食いでもするようにエルドラフに手を伸ばしたその瞬間、突如として『人影』が横から割って入ったのだ。
その人影は【何か】の太い腕を素手で握り込み、そのまま片手で強引に振り回し、巨大な肉の塊をあっけなく後方へと放り投げた。
「おいおい。血反吐まで吐いて、大変だなぁ」
エルドラフに大きな背中を向け、【何か】と対峙しているその人影は、アンの父親であるガルガンドだった。
彼はあの狼の王・アルファと死闘を演じたというのに傷一つなく、二本の強靭な脚で悠然と立っている。
「……ガルガン、ド」
「ふん。そんなんじゃあ、アンは任せられねぇなぁ」
ガルガンドは鼻を鳴らし、バキバキと首を鳴らして戦闘準備を整えていく。これほどまでに頼れる存在が、かつていただろうか。
(そっか……ガルガンドの怪力なら……もしかしたら)
どんな理由かは知らないが、ガルガンドが誇るのは人智を凌駕する力。腕力に物を言わせる、純粋な『暴力』だ。
人語を話せる怪物と、歪な肉の塊。二つの異常な存在は敵意を向けて押し合っている。




