お父上
その後は誰も止められない、止まることのないただの地獄だった。
どこからともなく湧き上がるくぐもった断末魔と、骨と肉が貪られる凄惨な咀嚼音。ロボット達が繰り返す無機質な警告すら掻き消すように、狼達の悍ましい遠吠えが空間に響き渡る。
もはや人語を発する者はいない。暴力と死の匂いに汚染された廊下で、エルドラフは必死の死闘を繰り広げていた。
床につく足を狙う。跳び上がった身体を狙う。頭を狙う。腹を狙う。僅かな隙を狙う。
だが、時間を追うごとに矢が減っていくばかりで、ただの1本すら命中しない。
「アォオオオオオン!!!」
少年を執拗に追い詰めているのは、狼の中でも一際巨大な『アルファ』と呼ばれる個体だった。
群れのどの狼よりも強靭に育ち、長年磨き上げた牙で頂点に上り詰めた真の獣。いくら過酷な外界を生き抜いてきた少年と言えど、その隔たりはあまりに大きかった。
「くそ……くそッ!! このままじゃ、下の階に降りることすら……」
アルファは群れを引き連れて4階まで降りてきており、そこで少年と会敵してしまったのだ。無論、異物を探知した防衛ロボットも狼に立ち向かってはいたが、アルファを前にしては無力に等しい。
結局、アルファとエルドラフの対決という構図になってしまったが、立ち位置が最悪だった。アルファは唯一の退路である階段を背にして陣取っている。これでは前に進むことすらできない。
「ガゥッ!!」
【あいつ……私たちが階段に逃げ込めないように、位置取りまで計算してるわ】
「アルファは聡い。このままじゃ矢も……」
背中に手を回して探るが、矢筒にはもう2本しか残っていなかった。
「手数もない。万策尽き……」
【賭けに出るしかないわね】
「……どうする?」
【私が合図する。合図したら、貴方は猪突猛進って感じで飛び出して】
「はぁ?! なんだそ――――」
言葉を交わす暇すらなかった。エルドラフの鋭敏な感覚が特殊な振動を察知し、本能的に身体を低く沈める。直後、空気を震わせる轟音と共に、少年の頭上を巨大な『岩』が通り抜けていった。
テトラが、故障して横たわっていたロボットの回路を逆ハックし、虫の息だった機械を強制的に蘇らせたのだ。
破損したスパークプラグに火が点き、暴発するようにマグネシウムが発火した結果の誤射だった。
肩に乗っていたテトラが、少年の頬を叩いて合図を送る。
【今!!!】
岩が壁に着弾し、大きく火花が散る。一瞬だけ闇を払ったその閃光と質量攻撃を避けるため、アルファは四肢を伸ばして大きく横へと跳躍した。
「――――ギリギリを攻める!!!」
一瞬だけ生じた空白の空間。アルファが再び足を地に着けるまでが勝負だった。
エルドラフは床に夥しく流れた血で靴底を滑らせ、鋭いスライディングで死地へと飛び込んだ。空と地。両者はほんの一瞬だけ、死線を交差させる。
(エル君は私たちの予想を超えてくるはず。過酷な世界で叩き上げられた、生き残る為の勘に賭けるしかない。今は! この一瞬だけは!!)
床を滑りながら身体を反転させ、空中に浮く狼の無防備な腹を見据える。
エルドラフの手には、既に番えられた矢があった。
(ここを逃せば終わり。本当に打つ手がない。お願い……当たって!!!!)
弦は既に限界まで引き絞られている。解き放たれるのを待つばかりだった矢は、完璧なタイミングで空気を裂いた。
「避けれるもんなら、避けてみやがれ!!」
指が弦を離れる。狼の腹部めがけて虚空を滑り上がっていく必殺の一矢。
だが、アルファはそれを――空中で『避けきった』。
【そんな……空中で軌道を変えるなんて、あっていいの!?】
宙を舞うアルファの足元へ、もう一匹の狼が自ら身を挺して飛び込んできたのだ。
アルファは一切の迷いなくその部下を『踏み台』にして空中で激しく蹴り上がり、エルドラフの矢は空しく天井へと突き刺さった。
天井に着地したアルファは、重力を無視したかのように直ぐさま壁を蹴って折り返す。目にも留まらぬ速さ。致命の牙が少年の喉元へと迫った。
「くっ……ふざけるな!!」
だが、その牙は届かなかった。
少年の眼前を塞ぐように、大きな影が落ちる。エルドラフを庇うように立ち塞がった太い背中が、手に持った酒瓶をアルファの顎先に向かって力任せに振り抜いた。
アンの父親、ガルガンドだった。
「な――――なんで、ここに」
「うるせぇクソガキ。俺の鬱憤晴らしを特等席で見てんじゃねぇよ」
大きく口を開き、ガルガンドの肩を食い千切ろうとするアルファ。その毛むくじゃらの顎に向かって、ガルガンドは硬い酒瓶を何度も、何度も容赦なく打ちつけた。
さしものアルファも、予想外の痛撃にたまらず後方へと飛び退く。
「……かてぇ狼だ。食ってるもんが違うと、こうも変わるもんなのか。本物の狼なんて、殴ったことねぇけどな」
立ち位置は変わった。アルファが退いたことで退路は確保され、逃げるか、ガルガンドと一緒に戦うかの2択となった。だが、一緒に戦うという選択肢は、彼が「アンの為にここにいる」という確証がなければ成立しない。
「なぜここに来たんだ」
「……俺はよ。どうにもガサツでよ。アイツに一つだって、親らしいことを教えてやることはできなかった。死んだミナミの願いが『アンをここから出す』ってんなら……不器用な父親として、せめてそれくらいは叶えてやらないとな」
「……ガルガンド」
ガルガンドの背中には、鋼のような硬い意志があった。
接し方も、愛し方も間違えてしまった娘への、せめてもの思いやり。自らの命を懸けた贖罪のために、彼は今、地獄の最前線に立っているのだ。
言葉を失うエルドラフをよそに、ガルガンドは手にした酒瓶を壁に叩きつけて割り、その断面を鋭利な凶器へと変えた。
「5階の隔壁前で、アンが待ってる。……遅いんだから、サッサと行け」
決してこちらを振り返ることなく放たれたその背中の言葉に、すべての思いが託されていた。
「………アンを、頼むわ」
エルドラフは大きく頷くと、残った矢を肩に掛け直し、階段へと力強く踵を返した。




