母転生
窓のない狭い部屋。ホスト特有の空調の低いモーター音だけが響く閉鎖空間で、アンは冷たい床に膝を抱えていた。
「……お母さん……ごめんなさい……」
こぼれ落ちる涙が膝の上に落ち続け、雨に振られたかのように濡れている。
外の世界の恐ろしさを乗り越え、文字通り命を懸けて薬を持ち帰った。母が繋いだエルドラフという奇跡の出会いがあって、ようやく手が届いたはずだった。
なのに、間に合わなかった。
(私がもっと……もっと早く走れていれば……ただそれだけだったのに)
取り返しのつかない悔恨が、アンの心をズタズタに引き裂いていた。この部屋に縛り付けられて1週間と2日、風呂にもはいらず、彼女はこの部屋にいた。
プシュッ、と不規則な音を立てて自動ドアが開いた。
「……アン」
部屋に入ってきたのは、ひどい酒の臭いを漂わせた父親だった。目は虚ろで、足取りはおぼつかない。手には空になったアルコールのボトルが握られている。
「お父さん……」
虚ろだった目は、アンの言葉で焦点が定まった。次に現れたのは怒りだ。
「どこに……どこに行っていたんだ、お前は!!」
突然の怒声とともに、父親はアンの肩を乱暴に掴み、床に押し倒した。
「痛っ……!」
「ミナミが死ぬ間際、お前はどこで何をしていた!! 母親が息を引き取るその瞬間に、娘のお前がいないなんて……娘のお前が……!!」
酒と悲しみに溺れた男の力は異常で、細身のアンは抵抗すらできない。
「違うの! 私はお母さんを助けるために、外へ薬を……」
「嘘をつけ!!」
「聞いて!!せめて話すならお酒を抜いて!」
父親はアンの言葉を遮り、ギリッと歯を鳴らした。
その顔には、これまで隠し続けてきた暗く醜い感情がどろどろと溢れ出している。目の前にいる娘を娘とも思わない所業に、アンはただ打ち震えるのみだった。
「どうせお前、お前も俺の事を……本当の……父親じゃないからって………」
「そんな嘘みたいなこと、酒の勢いでも言って良いことと悪いことが_____」
「俺はな……無精子症なんだよ!!」
その言葉は、狭い部屋の空気を凍りつかせた。
「お前は俺の血なんか引いちゃいない! ミナミが後輩と黙って作って、俺の子供だって嘘ついてよぉ…… だから俺になんか懐かない。普段から俺をよそ者扱いなんかして!!」
怒声の勢いは、真実を突きつけられたショックで届かない。遡っていく綺麗な記憶、父と母の笑顔と愛、全部が嘘だと父は言ったのだ。
それは12年にも及ぶ汚泥のような劣等感で狂ってしまった一人の男の言葉だった。年端のいかない少女にとっても、決して軽くはない。
「お前さえ……お前さえいなければ、ミナミは俺だけを見てくれたんだ!」
酒で抑えていたものが吹き出している。狂乱する父親の両手が、アンの細い首へと伸びる。
かつて頭を撫でてくれた大きな手が、喉を締めて息ができない。酸欠による視界が歪んでいく。そしてアンの意識は次第に遠のいていく。それでも彼女は必死に叫んだ。
「た…すけて……助けて……お母さんっ!!」
「またそうやって…俺を爪弾きに!!!」
その悲鳴に呼応するように、部屋の隅に置かれていた『クマのぬいぐるみ』が動いた。
母が「お土産だって期待していいのよ」と大昔に用意していた、ただの愛玩用ロボットのはずだった。だが、そのぬいぐるみの双眸が突如として鋭い赤光を放ち、無言が破られる。
【___生体反応異常を検知。対象者『アン』への致命的脅威を確認。防衛プロトコルを起動します】
「な、何だ急に。誰が見て___」
ぬいぐるみの綿の中で金属の駆動音を響かせて跳躍した。それは父親の腕に凄まじい衝撃で体当たりし、アンを押さえつけていた腕を強引に弾き飛ばす。
「____がッ」
父親が床に転がり、何が起きたのか分からず呆然とする。
小さなクマのロボットはアンの前に立ち塞がり、小さな腕からスタンガンのような放電の火花を散らして威嚇した。
「な、なんだこのガラクタは……!!」
父親が再び怒り狂い、ロボットごとアンを蹴り飛ばそうと立ち上がった、その瞬間だった。
鋭い風切り音が部屋を裂き、父親の足元の床に、一本の矢が深々と突き刺さった。
開いたままのドアの前に、エルドラフが立っていた。
「てめぇ…余所者のおうご________」
ギリギリと弦を引き絞り、二の矢はすでに父親の眉間へピタリと狙いを定めている。
「……動くな」
その声は、外域の雪原を吹く風よりも冷たかった。
「アンの母親には恩がある。あの人はアンを頼むと俺に言ったのだ。これ以上傷つけるなら……その頭を射抜く。」
野生で生き抜いてきた本物の「殺意」を向けられ、父親は動けないでいた。
エルドラフは弓を構えたまま静かに部屋に入り、床でむせ返るアンの傍らへと歩み寄った。そして彼女の盾となるように、父親に立ちはだかる。
そのすぐ横には、仁王立ちしたクマのぬいぐるみがあり、少年の視線を奪う。
(ぬいぐるみっておもちゃだったか。見た目以上に立ち振舞がうまいが…いまはいい。味方みたいだしな。)
よくわからないが、頼もしさに肩を借りて、エルドラフは父親の顔を睨む。
「へっ…盗み聞きか。こんな鉄の箱からよく聞こえる。」
「耳がいいんでな。そんなことより…お前はなぜそこまで遺伝子の違いが気になる。」
言葉の厚みが増えていく。少年の言葉には、感情だけではない。芯になるようなものが、ちゃんと存在している。
「血の繋がりなどたいしことではないだろう。」
「お前はどう考えているか知らないがなぁ…俺たちにとって血の繋がりは価値____」
「ならお前の時間には価値がないと。アンと過ごした思い出は嘘だというのか。」
少年の腕に力が入る。
「お前たちの言い分には極力口答えしないようにしている。だがこれはあまりにも度が過ぎているぞガルガンド。」
「お前…俺の名前を。」
「繋がりが家族を作るんじゃない。積み重ねが繋がりになって家族と呼ぶんだ。そんな事を忘れてしまっているなら、俺が思い出させてやる!!」
「待って!!お父さんは___」
張り詰める弓の力を解放した。一挙に連動していく弓の流れは瞬き一つで空気を滑り、矢が真っすぐガルガンドに向かっていった。
無論当てる気などはないが、肩あたりに狙いを定めている。致命傷を避けて気力を削ぐための妙技だ。
「なんだと…。」
秒速約55m。おおよそ新幹線に匹敵する速さは、ガルガンドによって受け止められた。
木製で作られた簡素な矢がガルガンドの手中に収まり、くの字を作っている。アンはこの結果がわかっていたから止めたのだ。
「この距離で、矢を握り壊した。」
「お父さん…前の探索で事故を起こしたの。その日から怪力になったんだ。ホストじゃもう、誰も勝てない。」
ガルガンドは決して大きくはない。筋骨隆々な男なら他にもいる。それでも強いということは、脳の抑制機能が弾けているということ。
「頭のネジが外れた怪物め。娘に言った愚言を撤回させてやる!絶対に謝らせてやる!!」
「はっ!!蛮族風情が分かったことを言いやがる…」
折られた矢を投げ捨てると、ガルガンドの筋肉の締まりが更に増す。
エルドラフの矢はいつでも、最高速度で打ち出せるように張り詰めている。
「来いよクソガキ。打ったときが最期だからな。ちゃんと頭を狙えよ。」
部屋の緊張感は最高潮で、少しの刺激で張り裂ける。そんな空気に邪魔が入った。
【双方、拳を収めなさい。】
両者の間に、割って入ったのは、クマのぬいぐるみだった。
【私はテトラ。】
「おか…テトラ??なんで管理AIが」
小さな体をよちよちと動かして、アンの方向へと向くと、機械的な抑揚がなくなった声で言葉を放つ。
【私はミナミが仕込んだプログラムによって再構成された。だからこうして、やっと、アンと話せ____】
説明をツラツラと流していくテトラに、ギロチンのような踵落としが振りかかる。
踵がテトラと接触する紙一重に、横からエルドラフが滑り込んで足を受け止めた。
「ッ………なんて脚力…。」
「なんだそりゃ。なんだそりゃぁよぉ……俺が欲しかったときにはアイツは無視したのに…こんなことが……」
腕の骨からの、軋みが響く。もう一度同じ攻撃が来ると、骨が持たないというコールサイン。そして痛みを噛み潰して、少年は耐えていた。
「ふざけてんじゃ_____」
【そんな事を言ってる場合じゃない。】
「世迷い言いってんじゃねぇよ。」
【本当よ。私がアンのためにアーカイブとか根こそぎ奪ったもんだから……その……ギデオンが鎮圧ロボットを起動させたわ。】




