陰謀の幕引き
ホスト89の内部を包んでいた永劫の平和が、音を立てて崩れ始めていた。
一番はじめに異変に気がついたのは、自室に籠もっていたアニューだった。鼓膜を劈くような強烈な警報に跳ね起き、ブランケットだけを体に巻き付けて廊下へと顔を出す。
アニューと同じように、怯えた顔の子どもたちが次々と部屋から顔を覗かせていた。彼らを照らしていたのは、血のように赤い警告灯の明滅だけ。その陰鬱で禍々しい雰囲気に、心臓が押し潰されそうになる。
すると、馴染みのある男の声がアニューに降りてきた。
「おいアニュー! 大丈夫か!!」
「エッ! あ……!! イーノック……大丈夫だよ。」
「何だ、化物でも見たような反応しやがって。……あれ?なんでお前、ガルガンドの部屋に……」
様子を見に来たであろうイーノックは、アニューの姿に目を丸くして反応せざるを得ない。他人の部屋から、布一枚を纏っただけの少女が出てきたのだ。
イーノックはあと二年で成人を迎える年齢であり、男女のそういう機微を示すものを知らぬわけではなかった。
「エッチ」
「なんで俺やねん。」
照れ隠しのために放ったアニューの言葉は、頭上に優しく降ってきたチョップになって返された。そして、彼らしい温かい言葉が添えられる。
「細々したことは後だ。別に犯罪ってわけじゃないし、倫理観が問われるだけのことだろ。とりあえず服を着てこい。お前、今日は守衛担当だろ。」
イーノックはホストの守衛を担当している。誰よりも大きな思いやりを持つ彼の温かさに当てられ、アニューは素直に従うほかなかった。
イーノックとアニューは服を着替え、護身用の刺股を手に上階へと向かうことにした。薄暗い階段を、二人は肩を並べてゆっくりと上がっていく。
「ねぇイーノック。この警告の色って……侵略者ってことだよね」
「だから刺股を用意してるだろ」
「私が言いたいのは……」
「わかってる。けれど、みんなで話し合った結果なら受け止めないと。まだ、そうと決まったわけじゃないし」
彼らの頭を過ぎったのは、外の世界から来たという少年――エルドラフへの疑惑だった。外の世界にエルフのような人間がいると解り、彼の親たちが攻め入るのではと大人たちの間で話し合いになったことがある。
だが、その意見は実権を握るオジジによって捻じ曲げられた。
一つは、原生人類が『ギデオンのゆりかご』に及ぶはずがないという過信。
もう一つは、救われた命の恩を返すこと。理屈として合点がいくものではなかったが、「ギデオン」という絶対的な意思が介在すると、大人たちは首を縦に振る以外できはしないのだ。
アニューは再び、重たい思考を巡らせ始めた。
「変化がもたらされたんだ。アニュー」
沈む頭を上げて、イーノックの横顔を眺める。彼の顔はひどく真剣で、けれどその眼差しは、すべてを包み込むように温かかった。
「いつまでもあり続けるものなんてない。それは風も、土も、人間も、ギデオンだって関係ない。決めた道を進んでも、いつまでも同じ道が続くとは限らない。このホストが壊れることだってあるだろう。」
「でも、ホストは事実上、崩壊不可のシェルターだって……」
「これは考え方の話さ。それに、あんな真面目な子供がスパイだなんてのは腑に落ちない。ま、どんな状況だって、俺達が願う限り、生き足掻かないとな……おろ?」
階段を上がる途中。8階の終わりは強固な隔壁が天井となって完全に閉ざされていた。 まだ年若い二人の力と手に持つ刺股二本では、どうにもならないほどの分厚い鉄の壁だ。
「コレって……まずいんじゃ」
「たしかにな……クソッ。これでアイツらが、こっちにいないことが確定したな。ガルガンド、オジジ、エルドラフ。それからカリーニン先生と、治療中の……アンか」
アニューはイーノックの平然とした言動が信じられなかった。
「何言ってるのよ、イーノック。これ、私達……閉じ込められたんじゃ」
隔壁は警戒レベルに応じて解除の権限が変わる。この赤い「侵略警報」を解除できるのは、長老であるオジジただ一人のはずだ。彼は外であり、今この場にいないという恐怖がアニューを焦らせていた。だがイーノックは笑顔だった。
「大丈夫だ。あの人が隔壁の向こうでなんとかするさ。ギデオンだっているし、なんとかなる」
「な……そうね」
アニューが言葉を飲み込んだのには理由があった。イーノックは平然を装いながらも、無意識に現実逃避を始めていたのだ。
警戒レベルが赤に達すると、AIによる予測は破棄され人間の判断に委任される。未知の悪意を分析するには、人間の感性こそが最後の『指標』となるからだ。守衛である彼が、その事実を知らぬはずがない。
(もう考えることすら、忘れたんだ。腹の底から湧き上がるような恐怖すら、ここの人たちは忘却してしまった。恐怖を忘れた生物に先はない……終わりよ)
諦めを飲み込み、アニューは血の繋がらない妹の顔を思い浮かべた。
(事態が見えない以上、時間がない。きっとこうなると、あの子は下に来る。エルちゃんが連れてくるはずだし、せめて……せめてあの子だけは守れるように)
焦りが滲む思考の中で、ふと、亡きミナミの囁きがアニューの進むべき道を示した。
ミナミが死んだあの日。ベッドから零れ落ちた彼女の手を握ったのは、ガルガンドではなく、アンでもなく、アニューだった。
涙を浮かべ、もはや声すら出せなかった彼女が、微かに動かした唇。その言葉の意味が、今ならはっきりとわかる。
――わたしのかぞくをおねがい。
英雄の彼女にとって、ホストの存続よりも優先すべきものがあったのだ。ミナミを唯一理解し、唯一裏切った者として、重い十字架を背負ったアニューは彼女が愛した家族たちを守ると決意していた。
(あの子だけは、このゆりかごから解き放たないと)
アニューは手にした刺股をイーノックの胸に押し付け、踵を返した。
「刺股、返す」
「ああ? え、どこ行くんだよ!!」
「ラボに籠もるの。やることができたから」
「勝手なやつ……お」
背中を向けて、踊り場を降りようとしたその瞬間だった。アニューの視界の外で重厚な隔壁がゆっくりと開き始める音がした。イーノックが「ざまぁみろ」と言わんばかりの得意げな顔をアニューに向ける。
「ほらみろアニュー。お前が考えすぎなんだ――」
「イーノック!!」
「――ああ??」
開いていく隔壁の隙間から、鼻を突く強烈な悪臭が流れ込んできた。 アニューの視界に映ったのは、悪臭を漂わせる巨大な狼が、その凶悪な顎を目一杯に開き、イーノックの頭蓋へと食らいつこうと飛びかかる瞬間だった。
その狼は図鑑や授業で知っている物とは大きく変わっていた。鼻を曲げる酸っぱい匂い、もはや歯の質感から遠のいた鉄のように鋭い牙。体躯も一回り以上大きい。一瞥しただけで、聡明なアニューならわかる。アン達を襲った狼だと。
「なんで……外の生き物がホストに!!!」
地獄の釜が開かれた。 永遠の平穏はいとも容易く食い破られ、少女の目の前で、世界は瓦解を始めた。




