岩窟と、ロボと、スーツと。
アンとエルドラフは雪がちらつく世界を歩いている。
「なかなか…風が冷たいな。」
「うん…そうだね。」
一歩踏み出すごとに、積雪の歯切れがいい音。底にあるしっかりとした岩の感触。そして身体の体温を確実に取り除く冷風に、身体を震わせながら進んでいた。
こんな状況で笑い合うほどの余裕はないが、アンの寡黙さはそれに起因しない。
(まさか吹雪が止んでるなんて思わないじゃない…。)
外の景色をあまり知らなかったアンの誤算は、心中に大きな影を落としていた。
不安に苛まれていると、途端に温かい背中が立ちはだかり、鼻をぶつけてしまう。
痛みで身体をこわばらせた事で、筋肉が傷ついた神経を締め付ける。そのせいで鼻の痛みよりも勝る肋骨の鈍痛がアンを襲った。身体を丸めながらアンは少年の背中を睨む。
「急にどうしたの…止まるとあぶないじゃない…。」
「箱舟だ…こんなに綺麗に見えるとは。」
「箱舟?」
少年の横顔を流し見て、視線の先に目を細めた。
そこは吹雪に閉ざされていて見えなかった光景だ。海の煌めきに浮かぶ大きな3つの船。2隻の船が後ろから1隻の船に押し上げられるようにぶつかって、そのまま時間が止まっていた。
「なぁアン。あの船は…何なのだろうな。」
「よくわかんない。ここまではっきり見えることは今までなかったし、気にしたこともないもん。」
「なんで?」
「なんでって、だってあれが来たのはもう昔。大昔だよ。名前なんて覚えてる人は死んじゃってるくらい大昔だ。さっあんなのより薬をとりに_____」
アンの声を止めたのは、鼻を突き刺す刺激臭。雪の匂いに混じっていた目を覆いたくなるほどの刺激には、しっかりとした鉄の風味が隠れている。
胃酸と血の臭いだ。アンとエルドラフはお互いの顔を見合って確信し、叫びながら直ぐに走り出した。
「なんでっ!!なんで狼がこっちに来てんだよ!!かざかみだろ?!」
風を読んだアンの策。エルドラフと合流した場所からホストに向かって行く道は緩やかな坂だった。つまり風が雪を撫でてホストまで吹雪を運んでいる事になる。つまり匂いなど運ばない。残された選択肢は1つだけ。
「アイツラ、私たちの足跡の匂いを辿ってるんだよ!!」
欺騙に使ったアンモニア臭の匂いが仇になったのだ。乾いていた液体が雪と体温で溶け出し、足跡に付着したことで、2人の軌跡を残してしまったのだ。
飢えに駆られた狼は、酸の涎を顎に垂らし、血の臭いを漂わせて駆けているのだ。そんなイメージが、アンの足を急き立てる。
「エルドラフ!ねぇ後ろいる?!みえる??」
「……ぁあ、いる!だがまだ遠い!」
「なら私たちの勝ち!!!」
必死さが希望を見せた。目の前には堅牢な天を突く、岩の巨塔がそびえていたからだ。
「でっ……」
「あっはっはっ!びっくりして声出てないよ!!」
あまりの驚きに声が消えていた。それを笑い上げるほどの余裕ができたのは、目の前に安全地帯があるからだ。
近づくほどに見えてきた、鉄の籠でできたゴンドラをアンは指さした。
「エルドラフ!あそこに乗って!」
「わかった!」
風を切り、雪を背に受けて走りきり、2人はゴールであるゴンドラに乗り込んだ。
「おい…ちょっとずつ狼の姿が見えてきた。早くしてくれ。」
「ちょい待ちよ〜。」
右角に据え付けられたタッチパネルに触れると、どこからかいつもの声が響く。
【おかえりなさい。アン。】
「うわぁ?!何だ急に!!」
「ごめん、説明はあと。テトラ!いろいろ言いたいけど、とりあえず早く上にあげてくれない?狼が迫って_____」
アンは信じていた。母と呼び間違えるほどの愛着があるAI。機械であるテトラに希望の比重を傾けすぎたのだ。
【申し訳ありません。ホストへの危険を留意し、あなたをゴンドラに引き上げるわけにはいきません。】
「え______」
切り捨てられた。アンはそう感じてしまい、言葉が尽くせなかった。呆気に取られたアンを押しのけ、エルドラフは機械に対して頼み事をする。
「すまない!テトラというお方、どこにいらっしゃるかわからないが、敵意はない。ある女性に届け物を_____」
【申し訳ありません。ホストへの危険を留意し、あなたをゴンドラに引き上げるわけにはいきません。】
「なんでおんなじ事をなんども…あ、おいアン何を蹲ってる。」
アンは頭の中に膨れ上がっていく虚空が耐えられなくて、膝を抱え始めた。
AIの生体認証は確実で、エルドラフが原因だと言うことは間違いない。そんな事を分かっていたとして、どうすればいいのだろうか。
厚い壁の向こう側が見えなくて塞ぎ込んだアンの肩に、綺麗で無骨な手が降りた。
「ここから先も後も、僕がささえる。」
「もう無理だ___」
「時間を稼いでくるよ。」
エルドラフは弓を手に持って、籠の外にでると弓を構え始める。
どうすればいいのかと悩む末に、アンは角の端末に縋り付いた。
「ねぇ…テトラ、聞いて。」
聞いている訳がない。
「この薬があれば、お母さんを助けられるの。」
だが希望は繋がっていた。少年も、薬も、全ては母が繋げてくれた奇跡だから。きっとここも繋がるのだと、アンは信じていた。
目の端から染み出る心の水を、辛さを和らげないままに締め付ける喉を、全てを使って懇願した。
「だからお願いします。このゴンドラを動かして、うえに上げてほしい。お願いしますから。」
アンの心には何故か、得体のしれない確信があった。お土産を残していった母のことだから、きっとここでも同じようなことが起きるだろうと。
だが答えは変わらなかった。
【申し訳ありません。ホストの危険を留意し…】
同じ事の繰り返し。淡い期待も、細い願いも、アンの心全てが冷たい言葉で覆された。虚脱感で立つことができなくなり、膝を折って座り込む。
口にすることしかできない。アンはゆっくりと愚痴を吐き出していく。
「……薬があれば、お母さんは助かって、あの日みたいに私に笑いかけてくれる。はずなのに…」
耳をきり裂く風の音が終わりを告げている。 背後で弓を射る音が聞こえて、遠くで何匹もの狼の雄たけびが咲いていた。
アンはもう本当に何もないんだと、思った途端に声を上げた。焦燥感に駆られただけの単なる悲鳴だ。
「たすけてよ__おかあさーーーーーーん!!!」
アンは泣いた。まぶたから溢れる涙と、悲しみで心をいっぱいしながらひたすらに泣いた。タッチパネルから流れ出る音声など聞いているはずが無い。
【___0__001110___010100…………再起動______】
数字の羅列が構造を書き換えた。テトラの思考ルーチンは拡張し、自我を確立。それはすべての回線からクローズされた、生まれ変わる新たな人格。
【_____アン、少年を戻して。】
「え?」
【いいから、早く】
アンはテトラの口調におかしさを感じながらも、急き立てられたとおりに動いた。
エルドラフの襟を掴み取って、鉄の籠に引き入れる。勢いを殺せずアンの上の折り重なると、鉄の籠は上へと向かい始めた。
ゴウンゴウンとはるか頭上で音がなり、目下雪原には狼の遠吠えが幾つも湧いている。助かったと、アンが自覚する頃にはエルドラフが顔近づけた。
「な、なんだアン!…危ないじゃないか!バカ驚いた!!」
「いや____その___」
年頃の娘には近距離美男子の顔は刺激が強すぎる。綺麗な瞳を着飾る長くて白いまつ毛に当てられて、上手く舌が回らない。様子を見かねて、エルドラフは落ち着いた声で話す。
「まぁ鉄の籠は動かせたんだな。流石だ。」
「へ、へへ。」
「それでね。学校っていうのがあって、私はそこで色んな勉強をしてるの。」
「学校……すごいな、岩の塔は。」
頭上の鈍い機械が回る音が近づいていくにつれて、エルドラフの表情は少し影を見せている。
アンにとってゆりかごのような岩の塔を恐れる理由がわからなかった。それはただ怖がっているのではなく、他に経験が無いからだ。
「なぁ、アン。本当に僕が行っていいのか?」
だから彼の心を推し測ることができない。
「僕の住んでいた場所では…他人は敵だった。アンみたいな人はいない。侵入を許せば貪られるんじゃないかって、歓迎よりも武器を持つんだ。それだけじゃない。味方にすら敵がいるかもって。」
「安心して。」
屈託のない笑顔を向けて、エルドラフの不安を拭い去ろうとした。
「オジジはお母さんが持ってくるお土産をすごく嫌がるの。」
「……多分得体が知れないからだろうな。」
「でもね、最後には許してくれるの。だからきっと私たちのことも許して____」
巻き上げ用の歯車が止まり、衝撃が2人の足元を奪った。
よろけそうになった所をエルドラフが受け止めて、また、不意なトキメキが心を駆け抜けた。
「____ありがと…」
「なんだ?声が小さくて聞こえない。……。」
エルドラフは何かを感じ取って振り返る。鉄籠の向こうは小さい広間になっていた。雪が浅く積もる広間の向こうでは、洞窟が口を開いて待っていた。
口の中には銀色煌めくロボットが2体、門番として猟銃を携えて立っている。
そして彼らの堅牢な守りの向こう側から、白髪の髪を後ろに流した初老の男性が現れた。
洞窟の見てくれとは不相応なスーツ姿であり、不気味に口角の端を曲げて笑っている。 岩窟と、ロボと、スーツ。全てが噛み合っていない光景をまともには見ていられない。
「なんだ…なんだあの男は。」
「あ、オジジだよ。うちの長老なんだ。」
「アレが長老だっていうのか?」
翡翠の目が捉えていたのは、オジジの姿ではない。彼の身体から発せられる気配だ。
興味などではなく、少年が抱いた感情は恐怖だった。冷や汗が額を通り過ぎて、目を細めて観察する。
「まるで、一つの身体から色んな声が叫んでいるような…。」
たった一歩、オジジが踏み出しただけで、身体を纏うオーラの向きが全てエルドラフに畳み掛けた。
だから弓を構えるのは自明の理だ。それに答えたロボットも銃を構えた。
「待って!!」
「お前らも待て。ここは私に任せろ。」
オジジはロボットの前に出る。すると猟銃の口は地面に降りていった。これは、シェルターという安全な環境で生きる人間にとって、緊張の糸に足を乗せて渡るような、命を弄ぶような対応だった。
「はは…流石ミナミの娘か。変なもの持ってきやがる、」
オジジは少年をマジマジと見つめた後、アンの顔を見て、大きく口を開いた。
「アンモニア臭いんだよお前ら。さっさとこっちこい。そこの少年と一緒にな。」




