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9.零れる

 気がついたらそこに立っているのは私一人しかいなかった。

 私は自身に載せられた冠が頭の上からどろりと腐ったように溶け、それがこの顔を覆うまで、私は一人じゃない、一人なんかじゃない、とひたすらに信じ続けていた。

 …また、あの頃の繰り返し?


ー・ー・ー


「アルト、アルト…!!」

 私はぶるぶる震えていた。ただアルトの左手を両手で包み込むようにして握りしめていた。何かをしなくてはいけないのに、何をするべきなのか分からない。

 それに、私が震えていることしかできない間にも、こうしてアルトの体はどんどん冷えていく。

 …お婆さんは、もう虫の息だった。

 刺さった剣が完全に腹部を貫通していたし、最悪なことに剣が少し錆びていた。もし助かったとしても、恐らく…

 違う。

 だめだ、だめだと私は頭を振る。頭の中を埋め尽くそうとする嫌な考えを無理矢理にでも追い払おうとする。先の見えない暗雲の先にまで手を伸ばすように。

 唇を噛む。溢れかけた涙を腕で乱雑に拭いとる。

 泣いたって何かいいことがあった試しなんて無い。泣いても助けてもらえるのは子供だけだ。…私を子供というのはあまりにも無理があるだろう。

 私は手のひらにアルトからそっと手を離す。右の手のひらは地面つけて、左の手のひらはお守りを握るように左耳に当てた。

 すうっと深く鼻から息を吸うと、二人分が混ざった血の匂いが脳内にぶわりと広がる。だけど私は気にしなかった。正しく言うなら、気になりはしたけれど私がこれからすることを妨げられるほどの障害ではなかった。

 大地に血が流れ、罪のないものが今まさに死に絶えようとし、それを拒むように森がゆらめく。

 人の、短命種の手が行き届いてしまったもころでは魔法の効力は薄れてしまうが、森であればその話はまるで変わる。森こそは、長命種の独壇場だ。

 手のひらからじわじわと魔力が地面に込められていく。拒むように土は少し震えていたが、私の意図を察すると、すんなりと協力してくれた。

 森が私の心の中からの呼びかけに呼応するように、ざわざわ、ざわざわと揺れ始めた。大地が私たちに寄り添うように温度を帯び始める。

 …人も、こうあれたら良いのに。

 だけど私たちはそういられない。だけど…だけどこうして、誰かを救いたいと願うことができる。

 死にかけている人の一つの魂をこちらに引き戻すのに必要なのは、その魂を引き留めるのに一つ、その魂の背中を押して進ませるのに二つ、最後に、その魂を器の中に入れ直すのに二つ。

 ここまでは私がのした山賊たちの魂を奪えば済む。山賊たちには申し訳ないけれど、私は彼らを可哀想だと言う気持ちは微塵もなかった。罪のない人を、二人も刺したのだから、相応の報いは受けてもらう。気を失っている間に絶命することですら、優しい方だと思ってしまう。

 …だけど、傷を治すのにもう一人分の魂がいるのだ。一人の致命傷を癒すには、それだけの力が必要になる。魔力にも変えられない、生命力という強い力が。

 つまり、助けられるのはアルトとお婆さんのうち、一人だけ。そしてそのもう一方の命を奪わなくてはならない。

 呼吸が浅くなる。視界が狭まる。指先が、俄かに震え始める。

 きっとお互いのことだから、相手を救えと言うだろう。そしてお互いのことだから、自分が救われなくても文句なんて言うはずがない。分かってはいる、分かってはいるのだ…

 私は唇を噛む。もっと上手い手立てはないものかと考えを巡らせる。じわ、とまた目元に涙が滲む。

 するとその時、

「ぅ、ぅう…」

「お婆さん…!?」

 お婆さんが呻き声を上げた。尚もどくどくと溢れる血の海に横たわって、商店の定まらない瞳がほんのりとその顔をこちらに覗かせていた。

 しばらくぼんやりと上を向いていた彼女の視線が、不意にこちらに向いた。ひび割れてきた唇から、かろうじて音の乗った声が発せられる。

「坊ちゃんはどうした?アルトは…」

「あまり、芳しくなくて…」

 嘘だ。放っておけば程なく、死ぬ。

「そうかい…」

 彼女は一度目を瞑った。長く長く、何かを確かめるように。その沈黙が何を意味するかは、私にはわからなかった。

「私は、もう長くはないんだろう…?」

「そんなことは…」

 嘘だ。傷が深すぎるし、何より生命力が足りない。見れば分かる。もう、じきに死ぬ。

「…わかるさ。おいぼれだから、自分の死に時くらい、わかるものさ」

 私は、何も言えない。

 彼女はふっと視界を真上に戻すと数回、苦しみから逃れようと喘ぐように、息を吸っては吐いた。

 思えば、彼女は全てを分かっていたのかもしれない。左耳に手を当てている私と目があったその時から、私が今から、何をしようとしていたかを。

 都合のいいように考えているだけかも知れない。私が罪の意識を背負いたくないからかも知れない。だけど、あれは仕方のなかったことだと思うための何かを探しているような私の瞳を、彼女の虚ろな瞳は、確かに捉えていたのだと思う。

 私を使いなさい。彼女は、口の動きだけでそう言った。ざあざあと森が揺れる音が、やけに大きく聞こえた。


 ずくん、と私の左耳が、強く痛んだ。


ー・ー・ー


 僕は誰かと一緒に歩いていた。僕を挟むようにして立っている誰かたちと、しっかりと手を繋いでいた。

 僕の両手は上に上がっていて、その手の先を交互に見上げると、僕と手を繋いでいる二人が笑ったように見えた。だけど、その人たちの顔も声も姿形も、思い出せない。

 …なんで?

 疑問とほんの少しの寂しさを覚えると同時に、鼓膜を突き破るような鋭い音があたりに響き渡った。

 僕は反射的に屈みこもうとした。そして僕と手を繋いでいた二人は、僕を庇った。

 一人は僕を抱きしめた。確かにその手を繋いだまま。もう一人は、そんな僕たち二人を抱きしめた。

 お互いを優しく柔らかく抱きしめあった僕たち。そんな蕾は次の瞬間に、花開いた。

 しかしそれを花びらと形容してしまうのにはとても無理があったし、僕はその光景をただ立ち尽くしたままぼんやりと眺めていた。

 飛び散った血と肉と骨の残骸。肉の間から見える内臓らしきものからは、もうもうと湯気が立っていた。つい先程までそこにいて、確かに温もりを感じていたものが、いとも容易く弾け飛んだ。

 …今になって飛び飛びにその顔が見えた。どちらも破れて爛れていて、それが恐らくは自分の大切だった人のものだとは、思えなかった。

 そう思ってしまったら、おかしくなってしまいそうたったから。


 僕の手元に残ったのは、もう誰のものか思い出せない“左腕”と、悲しみとか喪失感とか怒りとかを全てごった煮にしたぐちゃぐちゃとした“無”の感情だけだった。

 初めは一番大きな肉の欠片に縋りつこうとしたのかもしれない。そして、大切だったであろうその人たちの名前を呼んで泣き叫んだかもしれない。

 でも今の僕が覚えているのは、泣き疲れた後の、何の感情すらも浮いてこない薄い氷が張ってしまったような妙に不安を煽る重だるさだけだった。


 …みんな、どこにいっちゃったの?

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