10.白と葦
何もない空間に、僕は一人で立ち尽くしていた。…違う。僕には何も見えないのだ。
ただそこに広がるのは真っ白な世界。均一で平坦な、白の世界。無機質なのにどこか不気味で、見上げた先に、ぽっかりと黒い穴が急に空いて、僕に向かってにんまりと歪んで笑いそうな。
僕は今、自分がどこにいてどこに行くべきなのかすら分からない。ここにいたらそのうち、僕が誰かすら、分からなくなってしまいそうだと思った。
地面だと思っていたものが、どんどんのめり込んでいく感覚がする。両足にまとわりつくように、意味もなく僕を道連れにするように。
…どうして、こんなことをするの?
心からの問いだった。
何に問いかけたのか、何を疑問に思ったのかも、分からないのに。どうしてもどうしても、不思議に思ったのだ。どうして酷いことをするの?と。
僕は妙に熱を持って痛む左の腹を抑えた。そのせいでバランスを崩して、べちゃりと横に倒れ込む。顔の4分の位置ほどが床に埋まった。文字通り、沈んでいっている。
のめり込んでいく床の下に、何があるのかとぼんやり考え込む。床に埋もれて潰れた片目には、濁りきった真っ白い色が眼前で蠢いていることしか分からなかった。
手を離してしまった“左腕”が無情にも床の下へと消えていくのを、瞬きもせずに見つめていた。
…僕が何をしたと言うの?
絶望、と言えなくもないけれど絶望と形容するにはあまりにも静かすぎるそれを、僕は持て余していた。僕の体のそこかしこには、気だるい“無”が居座っていたから。
このままずっとここにいるのか、と心の中で大人びた僕が顔を覗かせた。一生と言う感覚すら忘れて、ずっとずっと、ここに一人で。
そんなの耐えられない!と、幼い僕が叫ぶ。早く逃げだそうと、床にだだ埋もれていく僕の腕を引っ張り上げようと傍でもがいている。
それが無駄なことぐらい、分かっているはずなのに。大人びた僕も幼なげな僕も、全て僕が作り出した空想に違いない。
疲れて一歩も動けないのだと、僕は口だけを動かす。溶けたような床は律儀に口の中に入ってこそ来なかったものの、もう口を開けるのは嫌だった。口を開いたことで、より鮮明に床が蠢いていることを感じ取ってしまったから。その感覚を気持ち悪いと言わなくて何と言うべきなのか、僕には分からない。
…何か、大切なものを、忘れてしまっている気がした。
床にもうすっかりのめり込んだ僕は、右腕だけがかろうじて床の上に浮いていた。葦みたいだ。
すると突然、ぐらりと床が揺らいだ。それまで殴っても叩いても拒んでも、ただ淡々と僕を飲み込んでいた床が、大きく揺れた。
背中から、誰かに押し上げられている感覚がする。…たくさんの、手のひら。背中に触れる手のひらのはらの骨の感覚、微かに掠める指先。
今、僕の体はたくさんの手に持ち上げられていた。
ぬぼっと重だるい音がして、胴体が床から抜ける。張り付いていたはずの白い何かは、意図も容易く胴体を離して、残った足と腕をがっちりと掴んできた。
今になって涙が思い出したように溢れ出した。ここから出してくれと、床に懇願するように涙は頬を伝っては落ちた。…誰かに会いたい、そんな気がするのだ。とても、とても大切な誰かに。
“エルフィー”
忘れられるはずのないその名前を、僕は半ば無意識に叫んでいた。果たしてそれが声になっていたかは、僕の知るところではない。
ぶわっ、と視界が突然砕けた。覆うように重厚に佇んでいた白い壁と天井は、最も容易くボロボロと、嫌に呆気なく脆く崩れ去ってしまった。
空間全体に穴が空いてしまったみたいだった。
僕はその穴に向かって、一心に手を伸ばしていた。大切な誰かが、他ならぬエルフィーが、助けに来てくれると信じていたから。
穴から、白い腕が伸びてきた。何かを探すように数度それはふらふらと左右に揺れると、何かを見つけたのか真っ直ぐ降りてくる。
僕を見つけてくれたのだと、僕は根拠もないのにそう信じきった。
…ぼくの、ぼくのめがみさま!
僕も腕をめいいっぱい伸ばす。すると、手のひらのうちの一つが、僕の背中を一際大きく押した。
彼女の左手が、僕の右手腕を、確かに掴んだ。
確かに繋いだその手に引っ張り上げられている中で、僕は白い床に生えた腕たちを横目に見ていた。
…葦、みたいだ。
床にズブズブと沈んでいくその手たちに、僕は心の中でどこか夢見心地でぼんやりとしたままお礼を言った。
何故だか、そうしなければいけないような気がしたから。




