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11.暖炉の火

 暖炉の薪が爆ぜる音、包まれているようなのに少しだけ硬い背中の感触…誰かが僕の手を、握っている。

 ぼんやりと開いた薄目の先に見えたのは、茶色い何か。焦点の定まらない目を凝らしてやっと、それが木造の天井であることを知った。

 力の入らない指先に全力で集中して、僕の手を握りしめる誰かの手を握り返そうとした。

 弱々しく一度、二度。指先が微かに動いたからどうかなぐらいで、それはどこか体が僕に馴染んでいないもののように感じさせた。

「ぇ、る…ぃ…」

 名前を呼ぼうと動かした口から漏れたのは、ひび割れてかすかすになってしまった声だった。

 彼女は眠っていたのだろうか。少しの間の後、彼女の腕と手のひらを通して彼女が動き出したのを感じ取った。

「ぁ、アルト…?アルト、アルト…!!」

 …ああ、彼女の声が耳元で聞こえる。

 言い表せないような淡い色をした懐かしさが、僕の胸に並々と溢れていく。なぜだろう。僕はずっと、エルフィーのことを忘れていなかったのに。

 エルフィーが僕を抱きしめた。彼女の手のひらが、僕の頭の後ろを優しく撫でた。

 僕はホッと息を吐く。ずっと張り詰めていた何かがふっと緩んだみたいだった。そこでふと僕は気がついた。

 僕の髪はもともと短く切り揃えられていたはずだ。…それなのに今、僕の髪は今肩甲骨あたりまで伸びていた。

 エルフィーは僕の伸びた髪を、優しく優しく、何度も撫でていた。壊れ物を扱うかのような触り方が、どこかくすぐったい居心地の悪いようなこそばゆい気持ちを誘う。

 すると、エルフィーの涙交じりの声が聞こえた。

「よかった、よかったぁ…二年も、目を覚さないから…」

 ぴた。と、僕の体の全てが、一瞬止まったように感じられた。余りにあっさりと耳に染み込んできた二年という言葉の重さが、僕の中へ並々と重々しく浸透する。

「…二年も?」

 驚きと怯えを含んだその声は、エルフィーの安堵の涙に飲み込まれて、ぽたぽたと呆気なくベットのシーツに落ちていった。

 そこで、僕は気がついた。エルフィーが少し、やつれていることに。

 絹のようだった髪は少しボサボサで、光沢も前ほどは見られなくなった。声もどこか枯れたようなほのかなざらつきを感じさせる。

 …どうしてそんな風になったのかは、明白だった。

 僕はそんなエルフィーに呆然として、ただ彼女に抱きしめられていた。


 そうしてひとしきり彼女は子供のように泣きじゃくった後、彼女は泣き腫らした目元を拭って温かいスープを運んできてくれた。

 具材はとても細かく刻んであって、野菜の旨みがよく出ていた…はずだ。

 僕には、あまり味がわからなかったのだ。

 何でかはわからないけれど、何となくは想像がつく。恐らく、ずっと寝ていたからだろう。今、僕に起きている違和感や体の異変の大抵は寝たきりだったせいだ。

 自分でもあまりよくわからないまま、そんなことを考えてしまった。そこで僕ははたと思った。

 …考え方のくせまで、変わってしまった?


ー・ー・ー


 アルトはスープを食べた後、また糸が切れたみたいに眠ってしまった。

 それもそのはず、私が薬を盛った。劇薬ではない。ほんの少し、眠りを促す程度のものだ。だけど、まだ体調が全快ではないアルトにはよく効いたことだろう。

 私は自身の手にある日記帳を見る。この二年間のことをまばらに書き留めたものだ。アルトが起きないままで、寂しくて寂しくて書き溜めていたら、いつの間にかそれなりの量になっていた。

 私はそれを今一度ぎゅっと握ると、そのままそれを前に投げ出した。

 丁寧に製本されたそれは宙を舞い、赤々と燃える暖炉の炎の中に沈んだ。日記の表紙がうねるように揺らぎ始める。ページの端から日記が燃えていく。

 ものを失う悲しさこそあるけれど、私の中には安堵の方が大きかった。アルトが起きたから、日記はもういらない。

 私は暖炉の前に立って、日記がただ炙られるようにして燃えて灰と塵になっていくのをただ見つめていた。

 …出所の分からない、罪悪感を抱えながら。


 暖炉の火はすっかり消えて、溜まった灰が恨めしく私を見つめているように見えた。気のせいなのは分かっている。

 私は布団の中に潜り込むと頭から布団を被って目を閉じる。今日は久しぶりに、よく寝られる気がした。


ー・ー・ー


『エルフィリアの日記』


 アルトは何とか一命を取り留めた。蘇生をした後、一時は出血が止まらなくて本当に焦った。

 干からびたような死体が合わせて六つ。生命力を余すことなく搾り取られたから、あんなに変わり果てた姿になってしまった。

 …搾り取ったのは、私だ。

 私は山賊たちを許していない。それは、山賊たちがお婆さんとアルトを刺したからだ。…だけど、最終的にお婆さんを殺したのは私だ。それに、山賊たちの命も奪った。一番救えないのは、それでもアルトが助かってよかったと思ってしまっているこの心だ。

 私は悩んで悩んで、全員土葬にすることにした。

 六人もの葬儀に立ち会うのが私一人…アルトも含めるのなら二人、なのは申し訳ないけれど、早く埋めなくては蘇生術が短命種に知られてしまう。

 短命種のことだ、富裕層がその技を独占して力のない者から生命力を巻き上げるようになるだろう。

 だけど、

 …だけど、それは私がしたことと、何の違いがあるのだろう。私がしたことは、他でもなく私が危惧するそれと何ら変わらない。

 ごめんなさい。

 やっとの思いで彼らに搾り出したこの言葉。どんな言葉をかけようと、彼ら自身に生命力は返ってこないし私が彼らの命を奪ったことが無くなる訳じゃない。

 それでも言わずにいられなかったと言うことは、私にもまだ、人の心があると言うことなのだろうか。それとも…いや、やめておこう。もう、寝ることにする。

 おやすみなさい


 それから、港町には戻らなかった。戻れば色々と足がついてしまう気がして、森の奥深くの山小屋に身を潜めることにした。

 やはり森の方が落ち着くな、と思った時はほんの少しだけ自分に驚いた。血は争えない、というやつだろうか。

 …アルトは依然として目を覚ます気配がない。毎日呼びかけたり体をさすってみたりしているが何の反応もない。


 アルトの髪が伸びてきた。若々しくて綺麗な髪だけれど、邪魔だろうかと思い、切ることにした。

 アルトの上体をなんとか立てて、いざ切ろうとしたその時、なぜだか唐突に切ってはいけない気がした。

 持っていた鋏が震え、しばらく刃先が彼の髪を掬ったまま固まっていたが、やがてだらりと手を降ろした。

 こういう時の勘は、大切だと思う。


 …原初の森が、燃えた。

 港町にこっそり買い物に行ったら、聞いてしまった。

 嘘か本当かは分からない。でももし、本当だったら?…私はこれからどうすればいいのだろう。

 跡には何も残らなかったらしい。神樹さまも、燃えた。生きとし生けるものの万物の祖が、燃えた。

 人々はことの深刻さに気付かぬまま生きている。現にこうしてただ森が燃えたことのみが噂として流れている。もしそれが本当だったとして、これから何が起こるかなんて、知りもしない。

 私だって分からない。神樹さまは一本きりだし、これまで燃えたことなんてなかった。分からない、知らない。…こんなにも怖いことだなんて。

 アルトは相変わらず寝ているままだ。髪もすっかり伸びてしまった。…もう、起きないのだろうか。


 アルトの目が覚めた。だからこの日記はもういらない。今までありがとう。さようなら。

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