12.帰ろう
僕の体力が元に戻ったのは、目が覚めてからすっかり1年が経ってしまった頃だった。
声が低くなる…のはもう少し先だけれど、目覚めた時にはちぐはぐだった外見と中身の帳尻を合わせることにはなんとか成功した気がする。
尤も、その違和感は僕しか分からないぐらいほんの少しのものだったし、エルフィーにしてみればないのと同じだったけれど。
…一年の間に時折、僕は色々考えていた。
エルフィーはどうやって、外側のまだ幼さの残る外見と、内側の数えきれないぐらいの時間を過ごし続ける精神とを、この二つの辻褄をどうやってあわせているのだろうか、と。極端な話、気が狂ってしまったりはしないのだろうか、と。
本当に残念だけれど、それに答えうるような答えを僕は見つけられなかった。
それもそうだ。そんなことを考えるには僕の経験は浅すぎるし、考える対象のエルフィーの経験は深すぎる。覗こうとしたら、その経験という大きな何かに吸い込まれてしまいそうなほどに。
髪の毛は折角だから伸ばしたまま束ねることにした。初めは切ろうかとも思ったけれど、纏めてみたらなんとなくまあこれでもいいか、と思い直したから。
それと、僕はエルフィーから少しだけ独り立ちを果たした。
夜、一緒の布団で寝るのをやめたのだ。
…僕からしたら大きな一歩なのだけれど、やはりこれもエルフィーから見たら小さいことなのだろうか?
誰も彼も、大人になる。他でもない僕自身でさえも。
伸びる背丈に急かされるようにして。あるいは、成熟していく精神に引きずられるようにして。…エルフィーと一緒にいると、つい失念してしまいがちだ。
たくさん食べるようになったし、担げる薪の量も増えた。毎日毎日、少しずつだけれど確実に、僕は大きくなっている。
段々と、握りしめたあの“左腕”の感覚を思い出すことも少なくなった。…少しだけ、寂しくはあるけれど。
ふと振り返ると、顔がかすかに見えるぐらいの遠い距離に誰かがいて、それが僕自身なのだと気がつくのには少し時間がかかった。ただ何かに縋り付いている事しかできなかった僕が、そこにいた。
泣いているような微かに笑っているような顔をしているかつての僕は、じっと今の僕を見ている。
噛み付くような瞳ではない。けれど、それは何処までも何処までも、僕を見ている。
それを重荷と感じたことはない。なぜなら僕を見ているのは、紛れもなく僕だから。僕のことを僕自身が見ていて、誰が緊張すると言うのだろうか。
僕はただ幼い僕に向かって、見ててね、と微笑んで見せるだけた。
恐らく、僕は何かが変わった。
…二年もの眠りから目を覚ましたあの日から?…ううん。きっと、違う。僕が白い部屋にいた間。つまり、空白の二年間。
二年もあれば人はかなり変わると思う。だけどそれ以上に、僕じゃないけど僕の一部みたいな、誰かじゃない何かが、僕の中に入っているみたいに感じることがある。
…多分、気のせいじゃない。
ー・ー・ー
…最近、また頭痛が酷くなってきた。
割れるような痛み、鈍器で殴られ続けているような痛み。目が回って、視界が白黒になって、気持ち悪くて、でも涙は出なくて。
ふらついてテーブルや壁にに手をつく度に、そこに体の重みを預けるままにへたり込む度に、あの頃の私が、目の前に立っている。
俯く私からは足元しか見えないけれど、確かに、あの頃の私だ。
頭は割れるように痛いのに、なぜかそこだけは妙に冴えていて。そこにも腹の底から吐き気がする。
…記憶も、吐き捨てられたら楽だったのに。
あの頃は一般的だったサンダルみたいな靴に、歩く度にしゃらしゃらと鳴る重ね付けした金色に輝く優美なアンクレット。
そのアンクレットとペアのブレスレットも、昔はしていた。…あんな過去でも、少しだけ懐かしい。
足しか見えないのに、私は私がどんな顔をしているのか分かる。あの頃はずっと顔を隠していたのに、私は私がどんな顔をしているか分かる。
…無表情、なんでしょう?
そう私に問いかける度に、また頭がずきりと鋭く痛む。それに引きづられるようにして私は頭を抱えたまま上体が倒れる。
頭が突き破られそうに痛いのに、側から見たらのたうち回っているだけなのだろうか。塞がったはずの左耳の断面から、何かが激痛を伴いながら出ていっているような錯覚がする。それがもはや、幻なのか本当なのかも分からない。
倒れた姿勢のまま、乱れた前髪の隙間からあの頃の私を仰ぎ見る。愛らしくもない上目遣い。どちらかと言えば、惨めで、無様だ。
ぼやけながら揺れる視界の隙間から、私を見下ろす私をなんとか見つめる。何か言いなさいよ、と言いたいけれど、何も言えない。
これが現実か幻なのか分からないぐらい頭がぐちゃぐちゃになってどうにかなってしまいそうな時に、毎度丁度それは消える。
幻だよ、と意味深に私を安心させるかのような、猫撫で声の狂信者たちのような様子で。
…少しだけ妙だなと思うのは、それらは大抵私が一人の時に限ってやってくるのだ。
一人になるとそういう方向に行きそうな考えをしてしまうだけかもしれないし、単純に私の気のせいかもしれないけれど。何となく、不思議な感じ。
…あぁそうか。思い出した。この頭痛が酷くなったのは、神話の森が燃えたと知った時から。
不思議なものだ。私が知らない間にはもう森は燃えてしまっていたというのに、私は何も思っていなかった。知らなかったから当たり前なのかも知れないけれど、確かに胸の底の方に喪失感はあった。酷く小さくて、気のせいという一言で消えてしまう程に不確かなものだったけれど。
今思えば、あれは確かに警告だったのだろう。私の、私たち長命種の拠り所であるべき神話の森と神樹さまが燃えてしまったと言うことに対する。
警告したところで何になる、と私は私を笑ってやりたかった。笑い飛ばして、そんなものなくても大丈夫だと、言いたかった。
この体から出たのは乾いた笑いと、この目にあった筈の光だった。生乾きの雑巾を無理矢理絞って、微かに滲んだ水のような。汚いのに、見たくもないのに、どうして自分の口からこぼれ落ちるのか。
アルトは起きるかも起きないかも知れない。神話の森は跡形もなく燃えた。
一体次は何が起こるのだろうかと、自暴自棄に振り切ろうとした笑いだった。振り切ろうとしたのに、振り切れない。
…ただでさえ虚しいのに、これ以上の虚しさを知る必要なんて、一体どこにあると言うだろうか。
この目から光が零れ落ちていくのに、私はそれを捕まえて再びこの目にそれを宿す方法を知らない。私が知っているのは、ただじっと耐えて耐えて、全てが終わるのを待つことだけだ…
「エルフィー大丈夫!?」
アルトの声がする。それと同時に肩に当てられた手のひらのじんわりとした温かさに、ほんの少しだけ今と昔の境を、思い出させられる。
…あの頃は良かった。なんて、言うつもりはさらさらない。
最高と銘打たれた玉座にただ座り、それが腐りゆくことも、それに絡め取られていくとにも、気が付かなかった。乗せられた冠から酷く甘ったるい匂いがしたのも、気のせいだと軽くいなした。
私は腐りきったそれに骨を埋める覚悟もなければ、膿を全て取り払おうと言う気概もなかった。ただ苦しいと言う感情から来る自由への渇望に、腐った椅子を蹴り飛ばして逃げようともがいてしまった…
「エルフィー…?」
アルトの声がまた聞こえる。先程よりも心配そうに、伺うように。
ふ、と私は顔を上げた。少しだけ乾いた眼球が、空気に触れると喘ぐように震えた。
アルトと目が合う。
安堵したのか何なのか、それに合わせるようにして、私の意識の糸は、ふつりと、途切れた。
ー・ー・ー
目を覚ますと、見慣れた天井がそこにあった。夜中、ずっと見つめていたこともある天井。まだ焦点の定まりきらない瞳が、何かを探すようにして数度揺れた。
と、揺れた時に一瞬、アルトが視界の端に映り込んだ。
「エルフィー、寝不足だったでしょ」
アルトはほんの少しだけ苦笑いも含んだように微笑んで私を見た。その笑顔はどこか微笑ましいものを見るような視線で、少し居心地が悪かった。
私はその視線を無視してうつ伏せになる。そして、片腕に体重を預け、もう片方の手のひらにグッと力を込めて体を押し上げる。体はベットに張り付いてしまっていたかのように、ゆっくりゆっくりと剥がれ、徐々に体が起きていった。が、突然体の力が抜け、もう一度私はべたり、とベッドに顔を埋めた。
…ベットという檻に、繋がれてしまったかのような感覚。ざらり、と心の下の方を何かが嫌味に撫でたように感じる。
「まだ寝てなきゃだめだよ」
アルトが慌てて私に駆け寄る。丁寧に布団を掛け直されるのが無性に腹立たしい。それに、腹立たしく思う理由がどこにもないことがさらに腹立たしい。
「やめて」
思ったよりも、低い声が出た。全身の産毛が逆立つ。つま先から頭のてっぺんまで広がっていく。
…ああ、気持ち悪い。
みしみし、と脳内で音が鳴り響く。何の音だろうか、と考える暇すらないままに、それが勢いよくはち切れた。
「やめてよ!なんで、なんでそんな風に笑ってるの!?なんで、なんでなの!?…どうせ、私を見下してるんでしょ!!だから、だから…」
言葉が、吐き出される。体を左右に捩るようにして言葉達を逃して行く。
捩る度に、酷く汚くて自己中心的な言葉が。溜めて溜めて、溜まり切ってしまった言葉の、上の方の濁りたちが。
「だから…そんな風に、笑えるんでしょ…」
怒っていた。ずっとずっと怒っていた。何に対しての感情なのかわからないまま、怒っていた。有り余るほどの重みを持て余したまま。
そうだ、私は怒っていたのだ。…紛れもなく、自分自身に。
全身から火が出てしまいそうだった。体の力が抜けそうになる。必死に踏ん張って、なんとか体勢を保つ。腕をついたまま、ただベットのシーツを眺めていた。
こんな醜い感情の捌け口にしてしまったアルトの方を向けない。罪悪感、申し訳なさ。自分勝手な感情が渦を巻いては、腹の底へと落ちていく。私がどうすることもできないまま。
「エルフィー、こっち向いて」
声が聞こえた。思ったよりも低い声だったことに少しだけ驚いた。
けれど私は、その声に反するように更に俯く。あんな醜態を晒しておきながら顔を合わせることなど、到底出来るわけがなかった。
「エルフィー、こっち」
ふっ、と視界に両手のひらが伸びてくる。抵抗する間もなくそれに両頬を包まれ、くいっと顎を持ち上げられれば、いとも容易く目と目が合う。
アルトは、笑っていた。
それは天使のような愛らしい微笑みなんてものではなく、目をやんわりと細めて唇がほゆのりと歪められただけの、どこか妖しささえ感じさせるような微笑みだった。
その笑顔に、不意に背筋がぞくりと鳴いた。
にている、と思ったから。
一瞬だけ、また記憶がフラッシュバックする。確かに似ていたのだ。私に冠をのせた、あの人に。
が、その笑顔はほんの一瞬のものですぐに元のアルトに戻る。それと同時に、私の中に芽生えていたどこかざらついた何かも薄れていった。
「大丈夫、大丈夫…」
頭にふんわりとした感触が繰り返し降っては離れていく。頭を、撫でられていた。
じわり、と音が聞こえそうなくらいに涙腺が急に熱を持った。呼吸が、少しだけ浅くなる。…泣く前の、前兆。
ただどうしようもなく、どうしようもないのに、どうすることもできないのに、心の底から…
「森に、帰りたい…」
帰りたいなんて、私が言うのだから笑ってしまう。帰る場所なんて、もうどこにもないのに。
涙の代わりに、嗚咽の代わりに、私から漏れ出たのは、ずっとこの胸にあった願いだった。ただ思い続けるだけで、叶えるために実行に移すことはなかったもの。
それなのに、アルトは事もなげな様子でこう言った。
「じゃあ、帰ろ?」
目を、見開いた。その拍子にこぼれ落ちてしまった一粒の涙は、ふっと視界の端へと消えてしまった。
「…森は、全部燃えてしまったの」
からからになった喉から、追い打ちをかけるように言葉が出ていく。それがさらに、喉を焼くように渇かせることを知っていながら。それでもなお、私が言葉を繋ぐ理由は…?
「知ってる」
アルトの吐く息で、アルトがほのかに笑ったことを知る。
それはとても柔らかくて、ため息のように細くて、思わず聞き逃してしまいそうなほどの、小さな微笑み。
「エルフィー、うなされてる時にうわ言みたいに呟いてた。だから知ってる。だけど、家が燃えたってその場所がなくなるわけじゃないでしょ?」
ぱちん、と何かが視界で弾けたように感じた。それは新しい風を呼ぶように体に浸透していく。
自分が無意識のうちに隠そうとしていたことを暴露していたことも、消してしまえるほどの、何か。
…認めてほしかったのだと、気がつく。
私の居場所が燃えてしまったことを聞いて慰めてほしかった。家まで消えた悲しさを知ってほしかった。そしてそれらを、誰かに受け止めてほしかった。この張り裂けそうな辛さを、認めてほしかった。…私の居場所が、あの森であったということを、認めてほしかった。
「うん…」
頬を伝う雫が温かくて、アルトの言葉があまりにも優しくて。まるで、崩れそうになった砂浜の城を優しく固め直すようなそれらを、好みに有り余る安心を、噛み締めるままに泣いていた。
帰ろう、と内側から何かが叫んだ。
それは叫びと言うより呟きに近くて、真っ直ぐながらに確かに温度を帯びていた。この体を貫いて、段々と全身に広がっていくような、確かな決意。
…帰ろう。
もう一度、今度は口に出して、呟いた。噛み締めるように、確かめるようにして。
帰ろう。もう住んでいた家は燃えてしまったに違い無いけれど。帰りたいと願える場所を、家と呼ばずして何と呼ぼうか。帰ろう、帰ろう。
ああ、まさにこれは、二度目の帰宅。
だけどこれは、あの頃の繰り返しなんて風はしなくて、あの頃よりもっと明るくてもっと澄んだ、前に進むための家路。
…人生、何があるのかわからないものだな。
ふっ、と呟いた私の言葉は、誰に届くわけでもなく、静かにゆっくりと、涙に混じってこの体に染み込んでいった。




