8.散歩
「ええと、こっちだったかねぇ…あっちだったかねぇ…」
お婆さんは思ったよりよく動く人で、森の中に入った途端背筋も心なしかシャキッとしてずんずん歩いていた。しかしやはり記憶は未だ曖昧なようでお婆さんは何かを探すようにしてふらふらしている。
話を聞いていなかった私が悪いことは百も承知だが、相手が何を探しているのか分からないのはやはりもやもやするものだ。
私は草をかき分けながら進むアルトにこそっと問いかけた。
「お婆さんが探しているのって何だっけ?」
あくまでつい忘れてしまった風を装ったけれど、アルトにはバレバレだったようで。
「お爺ちゃんと昔暮らしてた小屋にもう一度行きたいんだってー。エルフィー、ちゃんと聞いてなきゃだめだよ」
「う、すみません…」
ぺちっと、おでこにちょっとだけの衝撃がする。アルトに額を弾かれたことを目の前で悪戯っぽく笑うアルトの顔を見て知る。
それにつられて私も少しだけ微笑んだその時、ずちゃっともべちゃっとも取れる鈍い音が聞こえた。
「お婆さん!」
「お婆ちゃん!」
二人して慌ててお婆さんの元に駆け寄る。お婆さんはかなりしっかり転んでしまったようで、もっとよく見ておくべきだったと反省する。
地面に顔面から突っ伏しているお婆さんに手を貸して助け起こす。
「…すまないねぇ。歳をとるとどうしても足腰が弱くなってかなわんよ」
お婆さんはあくまで朗らかで、見たところ外傷は無さそうだったので不幸中の幸いと言ったところだろうか。
私はお婆さんに手を貸したまま歩き出した。先行するのはアルト、森の中を自由に跳ね回りながら進んでいく。
その様子を、私とお婆さんは微笑ましげに見ていた。そこで妙に息があって、不思議な気持ちだった。
「ちょっと休憩しよーよ、僕疲れたー」
それなりに進んだところでアルトは石の上に座り込んでしまった。それもそのはず、走り回ってはこちらに駆け戻ってきて、そしてまた前にずんずん走っていた。そう言うわけで、私とお婆さんよりも何倍の距離を走っていたのだ。
「走り回ってるからでしょ、まったく…」
私はお婆さんをアルトの隣に座らせると耳を澄ませた。歩いている途中で、近くに小川のある音がした気がしたからだ。
やはり、小川はあるようだった。…それに、いらないオプションも付いてきたみたいだった。
小川の音に紛れるようにしてこちらに向かってくる足音が、3、4…恐らく5人ぐらい。足音を消しているつもりのようだが消えきってはないし、なんとなくそこそこ弱そうだったけれどこちらは3人中非戦闘員が2人。分が悪いとまではいかないけれど、2人に怪我はさせられない。…さて、どうするべきだろうか。
私は2人の方に歩み寄って、目を閉じてじっと構える。人数が多くて精密な位置が割り出しづらい。
来る…!!
ー・ー・ー
「二人とも後ろに!」
エルフィーが短く叫ぶと同時に、手のひらを人影に向けて構えた。手のひらにはもう魔力が込められたのか、ぶわりと風が吹いて辺りの木々を不穏にざわめかせた。
エルフィーの顔を見なくても、ましてや僕のような子供でも分かる。あれは臨戦体制だ。
お婆ちゃんの体の震えが酷くなる。もうとっくに遠くの方は見えづらくなってしまったと言っていたのに。彼女は今何が起こっているのかを、僕の知らない何かで感じ取っていると言うのだろうか。
人影は、影から姿に変わった。木の間から出て来た彼らは、どこか薄汚い格好をしていてどうにも臭そうに見えた。
でも、僕は不思議だった。どうしてエルフィーやお婆ちゃんがそこまで警戒しているのか分からなかった。
だから僕はエルフィーに手を伸ばしかけた。エルフィーは僕が守るんだと、子供ながらにも思っていた。
「エルフィー、大丈夫だよ」
「アルトは私が守るからね」
僕たち二人の声が重なった。僕たちは一瞬だけお互いに視線を絡ませると、また目線を戻した。そして、エルフィーが手のひらにさらに力を込めたのを感じた。
ドオッと、一体を土の中から震わせるような音が響いた。エルフィーが魔法を使ったのだ。何かはよく分からないけれど、多分何かの強い魔法。僕を、僕たちを守ってくれる魔法。
…この時僕たちは油断していた。何に?と聞かれると難しいのだけれど。とにかく、迂闊だった。
まずエルフィーは相手に追い打ちをかけようと僕とお婆ちゃんから少し離れたこと。それに、僕がエルフィーを、過信しすぎてしまっていたこと。
「ぅぁっ」
お婆ちゃんが突然変な声を上げた。彼女のずっと震えていた体が、びくりと跳ねるようにして強張る。
「ぇっ」
それと同時に、僕の左腹部にも鋭い熱さが込み上げた。
「アルト!お婆さん!」
エルフィーの叫び声が妙に遠くに聞こえる。こんなに近くにいるはずなのに。
こぷり、と体の中から何かが染み出していく。染み出すと言うより漏れ出すと言った方が近いのだろうか。
目線を伸ばした先には紛れもなく彼女がいた。…しかし、確かに少し遠いなと納得するには充分な距離だった。
物理的じゃなく、精神的な何かの距離。簡単に言って仕舞えないそれは、一体何だったのだろうか。僕とエルフィーの明確な違い。たくさんありすぎるそれの中から、答えのたった一つを見つけ出すのは難しすぎる。
僕は知らなかったのだ。無差別な殺意の他の、もっと鋭くてもっと執拗なそれを。相手を選ばないような流れ弾こそないものの、明確に僕自身を狙って追い詰めようとするそれを味わったことがなかった。
お婆ちゃんはもうすっかり動かなかった。地面に顔から突っ伏して、お腹の辺りからどばどばと赤黒い何かが地面に広がっていた。まるで命そのものが、体という器から逃げ出しているみたいで。
初めてにんじんを口に含んだ時のような、信じられないぐらいまでの強烈な吐き気。それが物理的なものによるのか精神的なものによるのかはこの際大切ではない。ただ一つ分かったのは、それとは一生相いれられないと言うこと。
咄嗟に左の腹部を片手で押さえたけれど、その手にある感触は自分の体から出たとは到底思えないぬるりとした生暖かい何かの感触を受け止めきれないでいた。
…何かを分かることが出来ないと言うことは何より悲しくもあったけれど、それ以上にそのものを生理的に受け付けられないと言う気持ち悪さの方が強かった。
言ってしまえば僕は真面目に考えたことがなかったのだ。…他ならぬ僕自身を殺そうとする何かが、あると言うことを。
ぐらりと、視界が大きく傾いた。左の側頭部に硬い感触を受けたことで、地面に頭を打ったことを知る。
段々と感覚がぼんやりしてきて、お腹にはじんじん熱い違和感だけが残っていた。痛い、という感覚を最初から知らなかったかのように、体はそれを熱いと認識して疑わなかった。
視界の端でエルフィーがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。そしてその場に立っていたのはエルフィーだけことに気がついた。
山賊たちは、どうなったのだろう。やはりエルフィーがやっつけたのだろうか。ううん、そんなことよりもお婆ちゃんは生きているのだろうか。そして、僕の手のひらについた赤黒い血のどれくらいが僕の体から出たもので、どれくらいがお婆ちゃんのそれなのだろうか。
僕にはそれすらも分からない。…今、エルフィーが僕に何を言っているのかも。




